【思うこと】おばあちゃんのお弁当 | 「家族」を諦めた日

「家族」を諦めた日

40代前半の息子。80歳を過ぎた父親。
父親の描く家族の理想が呪縛のように身動きが取れず、親子関係に疲弊していた。
家族の在り方を考え、答えを探す日々。
しかし、ある日「家族」という形を諦めてしまう。
事実を基にフィクションを交えて書き連ねる記。

前回書いた「勘弁してくれ」の冷蔵庫のエピソード。

 

親切をあだで返すような行いではないかと思います。

これが本当に話の通じる相手なら、

「気持ちは嬉しいんだけど、食べるものは自分で決めてるし考えているから、

腐らせてしまったりするのはもったいないので、入れなくていいよ」

とか、それなりに伝えられるのですが。

それができない相手なので、私もやり過ごし方をわからずにいます。

そういうことで悩み疲れるのは、もう何十年としてきたので、

私には限界です。

 

以前、「おばあちゃんのお弁当」のエピソードを目にしたことがあり、

これが印象に残っていたので、簡単に紹介します。

学生の孫娘は、いつもお弁当を持っていきました。

おばあちゃんが孫のことを思い、毎日作ってくれていたのです。

でも、孫娘は実はそのお弁当をいつも口にすることは無かったと言います。

「おばあちゃんのお弁当はいつも茶色くて見た目が良くない。

周りの子たちは色鮮やかでかわいいお弁当なのに。こんなの見られたくない。」

これが孫娘の言い分でした。

 

皆さまはどう思いますか。

「おばあちゃんはいつも孫のことを考えているのに、こんなこと言う孫はひどい」

「お弁当がきっかけで、もしいじめられたらどうするのか」

「食べ物を粗末にするなんて、どういう理由があってもしてはならない」

色々考えはあると思います。

 

これとは色合いは違うのですが、

私が学生時代、深夜のコンビニバイトをしていた時のこともあわせて書いておきます。

人手不足の為、深夜は私と店長、もしくは店長の父親のペアでした。

この店長の父親というのが、当時でおそらく70代くらいだったのではないでしょうか。

悪い人ではないのですが、失敗が多い。

ある日弁当を温め過ぎて、容器が溶けてしまいました。

通常であれば廃棄をしなくてはならないのですが、

「申し訳ないから、これタダでもらってってください」と言いました。

お客様は「そんなもんいらねえよ」と怒って帰ってしまいました。

 

お弁当のおばあちゃんも、コンビニ店長の父親も、

どちらも親切心であることは十分理解できます。

ただ、どちらも「相手の気持ちを考える」という点はどうだったのか。

この視点が充分だったのかは引っかかる所です。

 

私の父については、

明らかにここは抜けているし、

「その親切は私には不要なのだ」と訴えても

そこを理解できていない点で、もう救いようがないのです。