「怖いラーメン屋」の大冒険(前編) | 七色祐太の七色日日新聞

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怪奇、戦前文化、ジャズ。
今夜も楽しく現実逃避。
現代社会に疲れたあなた、どうぞ遊びにいらっしゃい。

かなりうろ覚えですが、

かつて東海林さだおが

こんなことを書いていました。

 

「寿司や蕎麦にマナーが必要となったのは、

 単に値段が高くなったから。

 その点ラーメンには

 ルールや作法は全く無いと言っていい」

 

何と平和な時代だったのでしょう。

 

今や世の中は完全に変わってしまいました。

 

豊田商事の破綻に端を発した

リーマンショックは

杉山社長を失脚に追い込み、

アベノマスクの必死の努力によっても

食い止め叶わず、その結果、

小麦は値上がりしました。

 

同時に、デジタル社会の発達により

田舎の潰れかけた食堂のメニューの片隅に

追加で書かれた「中華そば」までもが

全国にそのやる気無い姿を晒され、

元々存在しない味への努力が

顔の見えない大衆によって

一方的に要求されるという

ファシズムの時代です。

 

こうした悲惨な状況に思いを巡らすとき、

いつも私の心に懐かしく思い出されるもの。

 

それは……

 

店主と常連の間で暗黙のユートピアが形成され、

素人排除の暗い情熱の湯気で窓が曇る店内。

携帯の急な着信で席を立った直後に

無言で店員に捨てられる食べかけの一杯。

声を掛けても誰一人として振り向いてくれない、

戦後の官公庁の窓口以上に冷酷な厨房の人々。

 

そう、私がまだ子供だった頃、

メディアの影響でちょっとしたブームになった

「怖いラーメン屋」の数々。

 

よく考えると、

結局どちらも独自の作法を

主張する点では同じなわけですが、

小賢しい蘊蓄に瞼を糸で縫い合わせたくなる

消費者主権ネット評論の冷たさに対し、

客にも命を賭けての咀嚼を当然の如く要求する

怖いラーメン屋には、

それを食べる体験自体が

一種の勲章とも言える、

危険で魅力的な熱気がプンプンと漂っていました。

 

当時、タモリが

こうした店の店長たちを非常に嫌い、

「今度会ったら

 横チン見せてやる」

と言っていたのを覚えていますが、

その彼も今では喜寿を越え、

すでに見せられるモノでは

なくなっているでしょう。

 

そう、気がつけばあれから、

1人の人間の逸物が萎れてしまうほど

長い時が流れてしまったのです。

 

私もかつてはタモリと同じ考えでしたが、

一億総素人評論家時代となった今、

凡庸な批判をものともせず独自の道を貫いていた、

あるいは今も貫いている店たちが、

妙に愛しく感じられます。

私と誕生日が同じタモリも

きっと同じ気持ちでしょう。

 

そこで私は「ブラタモリ」で忙しい彼に代わり、

「新しい戦前」に逆行すべく、

1人気の向くまま、そうした危ないラーメン屋を

適当に回って冒険してみることに

決めたのでした。

 

 

〜地方の横綱〜

 

私は広島県に住んでいますが、

ちょうど都合のいいことに、

その手の店の横綱が

車で近い距離にあるため、

思いついた数日後に

早くも大冒険を体験できることになりました。

(店名は伏せます)

 

味は一流・愛想は二流というと

聞こえがいいのですが、

レベル以前に愛想という

概念自体が無い別次元の存在として

昔から有名なその店。

 

私はまだ高校生だった20年ほど前、

そこに一度だけ1人で出かけたことがあります。

創業は古く、毎日行列の人気店。

原付を路駐した私も列に加わり、

ヘルメットでぺったりプレスされた

鉄腕アトムのような髪で中に入りましたが、

さすがにその理由での

入店拒否はありませんでした。

 

厨房を逆L字型のカウンターが取り囲む狭い店内。

この店にはいくつものメニューがあるのですが、

私が今でもはっきり覚えているのは、

入店と同時に飛んできた

殺気立ったおばさんの言葉。

 

「並と大、どっち?」

 

そう、実質的に、

「中華そば並・大」以外の

メニューは存在しないのです。

というか、頼めば作ってくれるのかもしれませんが、

それを試すことは絶対に不可能な「圧」であり、

マレーの虎・山下奉文大将が発した

「YESか、NOか?」

の伝説的な二者択一でさえ、

今まさに戦場に立っている

彼女の前では

霞んでしまうことでしょう。

 

どのツラ下げて横チンなど

見せろというのでしょうか。

 

それから先はよく覚えてないのですが、

肥満児だった当時の自分は

確実に「大」を注文したと思われます。

そして運ばれてきた中華そばは、

強烈な脂の層で覆われていた記憶。

異常に水を飲みたくなりますが、

店内唯一のオアシスである給水機は一番奥にあり、

カウンターにずらり並んだ客の背中と壁の隙間を

抜けて辿り着くことは物理的に不可能であるため、

水分補給は一切できません。

この苦しさは他の客も同じらしく、

大量の脂を中和するものをどうにか求めた挙句、

目の前のカウンターに置いてある

作り置きの握り飯に見事手を出す

という仕組みになっています。

しかし当時の私は金が無かったため、

コップ一杯の水だけで汗と脂の戦いを乗り切り、

命からがら戦場から脱出……。

 

これが当時のその店に関する、全記憶です。

個人的には特に

嫌な体験もなく帰還できたのですが、

細かい味は何も覚えてないのですね。

今回20年ぶりに訪ねる気になったのは、

その点をあらためて確かめたいという

思いもあったからです。

 

そこでとりあえず、現在の状況を調べてみます。

冒頭であれほどネットの素人レビューを

批判しておきながら

来店前の調査にちゃっかり使用している時点で

すでにこの冒険の大義は

実質的に消滅しておりますが、

予備情報無しに訪ねるのは

あまりに恐ろしい店なので仕方ありません。

風の噂により、

愛想という概念がないのは

当時のままだと分かっているものの、

問題は、

それが人として

耐えられるレベルであるかどうかです。

 

恐る恐る評判を調べてみると大体想像通りで、

ある意味、

味よりも愛想の悪さで有名な

店というのもすごいと思いますが、

注文を迷った際などに

怒鳴られたりするらしいのはいいとして、

怖いのは、

「嫌な体験をしたのでもう行くことはありません」など

詳細の報告を一切拒否するコメントがいくつもあり、

いわゆる頑固親父的な厳しさとは

異質のトラウマを植え込まれた

人々もいることです。

 

しかし、これを見た私の心にふと、

ある使命感が湧いてきました。

 

その店がある一帯は

近年ちょっとした観光地になっており、

全国から人々が訪れます。

そうすると、場合によっては

天皇皇后両陛下も

行幸啓されるかもしれません。

その際、もしお二方が

あの店に足を踏み入れてしまったら……。

 

考えるだに恐ろしいことですが、

直ちに記者会見が開かれ、

天皇陛下の口から

「雅子の人格を

 否定するような発言が……」

とのお言葉が発せられ、

この地で日々神社や戦前史の研究を進める私は

司令官として即日

腹を切らねばなりません。

 

不惑を前にまだ死にたくはない。

一刻も早く、あの店の現状を

この目で確認しなければ。

 

そこでさらに調査を進めると、例の、

トラウマを埋め込まれた証言拒否者たちの1人は

それでもその味が忘れられず、

嫌な思い出のある本店は避け、今では、

少し離れた町にある支店に

通っているとのこと。

 

そう、話が面倒なので黙っていましたが、

実はその店には、

本店より若干接客がマシだと言われる

支店があるんですね。

 

私は彼の報告を熟読し、

迷わず支店に行くことを決めました。

 

昭和天皇も、

自身の信頼する側近だった木戸幸一について、

戦後こう評しているではありませんか。

「勢の盛んな時に正面から向はず

 煙出しを作るといふやうな

 考へ方をするのが木戸」

であると

つまり、そういうことをしても別に

お上に嫌われないのが分かった以上、

私にはもう、

支店に行く以外の選択肢は

何もありませんでした。

 

 

〜どこでもドアの向こうには〜

 

実は私はそれ以前にも何度か

その支店の近くまで車で行ったことがあり、

場所は知っていました。

しかしいつも、なんとなく通り過ぎていました。

マクドナルド初体験時の

東海林さだおが

店の前まで行きながら

そのまま歩き去ってしまったのと

同じ理由です。

 

第一、本店より多少マシな接客とはいっても

「初めて行った人は

 びっくりするレベルだと思います」

なのです。

しかも具体的に何がびっくりなのか、

よく分からないのです。

行きたくないのが

当然ではないでしょうか。

 

しかしいよいよ踏ん切りをつけねばなるまい。

 

冒険を決めてから数日後。

雨の降りしきる月曜の夕方4時という、

もっとも客が少なく、

従って店側に「仏心」が生まれる

可能性の高い瞬間に、

買い物帰りの私は車で

店の近くを通り掛かりました。

 

恐らく、これ以上の好条件はもう望めまい。

 

死ぬ気で入ろう。

 

狭い駐車場に車で突入。

駐車している時点ですでに

店側に吟味されているのではという

勝手な被害妄想で手に汗が滲みます。

 

さあ、もう後戻りはできないぞ。

大丈夫、

悲しければ泣けばいいじゃないか。

 

緊張しながら入口を開け、店に入ると……

 

「いらっしゃいませ」

 

中年女性の爽やかな挨拶。

 

 

私はどこでもドアを

開けたのでしょうか。

しかしどう見ても、

間違いなくここです。

 

 

意外な展開に戸惑いながら

奥のカウンター席に座り、

卓上のメニュー表から中華そばの大を注文。

すると先ほどの女性は私の注文を復唱し、

カウンターに伝え、あまつさえ、

コップに入った水まで

置いてくれたではありませんか。

 

私は狐に騙されているのでしょうか。

これは馬の小便ではないのか。

 

普通に注文が進むことに

これほどの驚きを感じたのは

初めてです。

私は、何度注文しても

徹底的に無視されるくらいのことは

覚悟していました。

(実際そういう報告もあった)

 

かなり呆気に取られましたが、

ここであらためて店内を見渡すと。

この天気、この時間にもかかわらず

数人の客がいます。

学生風もいれば、近所の水商売風の女性も。

そしてあろうことか先ほどの女性が

その学生風に向かい

「お兄ちゃん寒いでしょ、

 奥座ったら」

と笑いかけているではありませんか。

 

この瞬間、

心に浮かんだ一筋の希望。

ひょっとして、このまま

無傷でここを出られるかもしれない。

 

間もなく、

何事もなく運ばれてくる中華そば。

一杯のラーメンが普通に届くことが

これほど嬉しいとは。

 

そして私は本当に感動したのですが……

 

なんとその一杯をゆっくりスマホで

写真に撮ることすらできたのです。

この店で丼を堂々と撮影するなど、

戦前の撮り鉄が線路に突入して

お召し列車を隠し撮りするほど

死と隣り合わせの行為だと

思っていたのですが、

ここまで簡単にできてしまうとは、

まるで普通のラーメン屋の

ようではありませんか。

 

さて、20年ぶりに体験した、

肝心の味についてですが……

 

とてもおいしいです。

 

私はかなりの頻度で

ラーメンを食べるにもかかわらず、

独自のラーメン哲学を何も持っていないので、

おいしいとしか言えません。

もっと言うなら、危険な噂を物ともせず

日々人々がやってくるのが分かるおいしさです。

20年前も多分

こういう味だったのでしょう。

ただ、脂が当時より少し減ったのか、

それともこの時だけなのか、

記憶より塩分が濃く

はっきりした味なのは意外でしたが、

私はこの店に入って

ラーメンを食べたこと

それ自体に感動しているので、

味に関しては「とてもおいしい」で

十分です。

 

全人格の否定を覚悟して手に入れた一杯

 

念願の一杯をしみじみと味わい、

誰にも分からない感動に包まれ

レジに向かうと、厨房の男性が

「中華そば大ですよね」とお金を受け取り、

ペコリと頭まで下げてくれます。

そして店を出る私の背中に向かって

「ありがとうございました」。

 

 

20年ぶりの大冒険は、

あまりに書くネタ少なく

幕を閉じました。

なるほど、これには確かに、

天皇陛下もびっくりです。

 

 

狐につままれたような気分の私は

ハッとある予感を感じて後ろを

振り返りましたが、予想は外れ、

骸骨のぶら下がる廃屋ではなく

先ほどの店がそのまま

そこにあるだけでした。

 

こうなると、考えられるのはただ一つ。

 

店員の顔ぶれが

変わったのでしょう。

 

接客改善どころか「接客」という概念すらないと

言われる店が短期間にここまで変貌するとは、

人間の入れ替わり以外にありません。

そう言えば厨房の男性も、

中年かどうか微妙なほどの若さでした。

恐らく一族のみで本店・支店を

切り盛りしているであろうこの店。

単に支店のメンバーが最近代替わりした

だけなのではないか。

 

これは個人的にはとても嬉しいのですが、

本稿の冒頭で述べた

「新しい戦前への抵抗」云々という

半分忘れかけていた目的には反します。

しかしいまだ

旧妖怪どもの巣窟であろう本店に

あらためて出直す元気はすでに無く、

使い道もなく縮んだ横チンを

生温かく感じながら、

私は雨の中を車に乗り込み

不思議な気分で店を後にしたのでありました。

 

 

さあ、これにて地元最大の横綱恐怖店を、

かなり中途半端ながら

制覇することができたわけです。

 

 

次はいよいよ全国区だ。

 

 

この約1カ月後、

年末年始の休暇を利用して関東に上陸した私は、

「怖いラーメン屋」の代名詞として

子供時代から

ずっと頭にあった超有名店を、

アラフォーの身にして

ついに体験することになったのでした。

 

(後編に続く)