120回記念・思い出の教師ベスト5 | 七色祐太の七色日日新聞

七色祐太の七色日日新聞

怪奇、戦前文化、ジャズ。
今夜も楽しく現実逃避。
現代社会に疲れたあなた、どうぞ遊びにいらっしゃい。

こんばんは、

ポストさくらももこです。

 

気がつけばこのブログもめでたく120回目、

泉重千代の誕生日の数に

並ぶことができました。

数年前に100回を迎えた際には

特別企画「明治のブログをふりかえって」

を開催し、

私がブログを始めた明治半ばの頃の状況などを回顧して

歴史家への貴重な証言としたわけですが、

今回はもう少し気楽な感じで、

現在の私を形作った

思い出の教師5人を紹介するという、

1時間で書けるような

テーマにしてみた次第です。

 

しかしこれ、考えようによっては

なかなか重い題材かもしれません。

 

何と言っても、

教師という職業は聖職です。

少年期の1年は大人になってからの

10年に匹敵すると言われ、

私の場合、自分で師を選べた大学は別としても、

保育所から高校卒業までの14年間、

現在の時間に換算すると実に140年もの間

彼らの教えを受けていたことになりますが、

今から140年前といえば

まだ西郷隆盛が

戦争をしておった頃です。

それほどの長期間にわたって

私に教育を授け続けた彼らの存在は、

決して軽々しく扱ってはなりません。

いくら逃れたように感じても、

彼らは今この瞬間も

私の無意識のあちらこちらに影を落として、

こうしてキーボードを打つ

指の動きの一つ一つにまで

ぬぐい切れぬ影響を与えているに違いないからです。

 

さあ、語ろうではありませんか。

 

 

1、嫌いだった記憶しかない先生

 (保育所・桃組担任)

 

私は5歳の頃から、

わが限界集落の中心にある保育所に通い始めました。

地の果てにふさわしい素朴な建物で、

なぜか仕切り壁の下に大きな隙間がある和式便所では

隣の個室の子の脱糞風景が

目の前で鑑賞でき、

何となく「人生」というものを

教えてくれていたように思います。

 

私が初めて「先生」という

存在に出会ったのはその場所でした。

保育所には

園長、年長の菊組担任、年少の桃組担任の

3人の先生の他、

毎朝5時に出勤して早朝登園の子供たちのお守りをする

「真野のおばあさん」という謎の存在がおり、

今考えると

具体的な時給額など

とても気になるのですが、

私は毎朝ギリギリまで

保育所を休もうと頑張る子供だったので

そのおばあさんとの交流は一度もありませんでした。

私がそんな風に保育所を嫌っていたのは、

自らが所属する桃組の

担任が嫌いだったからです。

白髪まじりのオカッパ頭でメガネをかけ、

園児の制服の拡大版である、

便所の手袋風のピンク色をした教員用制服に身を包む

その中年女性の姿を思い出すと、

私は今でも

何となく暗い気持ちになります。

しかし、不思議なことに、

その先生の何が嫌いだったのかと聞かれると、

全く具体的な記憶がないのです。

ある朝、

「今日はお部屋の天井に蜘蛛の巣を見つけたから、

 先生がこれから取りまーす」

とにこやかに笑って、

天井に向かい掃除機を

振り回していたのは覚えていますが、

別にこれといった

エピソードではありません。

とにかく嫌いだったという印象だけは強くあり、

毎朝泣きながら行くのを拒んでは、母親に

「帰ってきたら

 怪獣の人形の600円のやつを

 買ってやる」

と裏取引を持ちかけられ、嫌々通っていましたが、

結局数カ月で不登校になり、

それからは毎日家にこもって

それまでに溜め込んだ

大量の怪獣たちと遊ぶようになりました。

私のその後の人生で後々まで尾を引く、

不登校、一人遊びの精神を植え込んでくれた

記念すべき先生なのですが、

いまだにあそこまで嫌っていた理由が全く分からず、

死ぬまでにいつか再会して、

蜘蛛の巣の咲き乱れた薄暗い部屋で

老いたる彼女と

一度じっくり語り合ってみたいものです。

 

 

2、はい次のおとこおんな

 (小学1年時担任)

 

私は今まで通ったいくつもの学校の中でも

小学校が一番嫌いで、

湿った方面の記憶を愛する自らの嗜好のため

必然的に小学時代に関する思い出が大変多いのですが、

小学教師たちに関する文章は

今までにもいくつか書いていますので、

特に印象に残っている

極上のサーロインの部分だけを

順次紹介していきましょう。

 

小学1年の時の担任は当時38歳の女性で、

後ろで束ねた長髪に度の強いメガネでした。

夏のプールの時期には

紫のジャージのズボンにTシャツというファッション、

真っ黒のサングラスをかけて廊下を練り歩く様は、

まさに「おとこおんな」のあだ名に

ふさわしい貫禄でした。

 

言うまでもなくスパルタな性格であり、

発表会のダンスの練習で動きが悪いと言っては、

理想のリズム感を体の芯から教え込むが如く

並んだ子供たちの頭を

端から順にタンバリンで叩いたり、

算数ができないで泣いている子に向かって

「何で泣くの。そんなんじゃ、

 〇〇ちゃんのお父さんお母さん、

 算数ができないって

  自殺しなきゃいけないわよ!!

今なら完全にアウトな

叱り方をしていました。

 

そんなナチの女看守の監視下での、

ある日の作文の時間。

その日は、綾子ちゃんが書いた作文に対して

みんなで感想を言い合うという授業でしたが、

その感想の内容が未熟だと、おとこおんなは即座に

「はい次!!」

と言って他の子を指名するのです。

そうした幾人もの戦力外通告を経て、

ついに感想を求められた私は、大いに困りました。

なぜなら、

本当に何の感想も

湧いてこない作文だったからです。

しかし沈黙は

死よりも重いのがこの教室。

私は全神経を集中させ、あの作文の一節に、

 

「おい、綾子、

 みかんを一つ取っておけよ」

 

というじいさんの言葉があったのを思い出しました。

そして苦し紛れに、

 

「取っておけよという言い方から、

 おじいさんは、綾ちゃんを、

    怒ったんだと思います

 

自分でも訳のわからないことを

言ったのです。

 

おとこおんなは、

ポカンと口を開けて呆然としていました。

そして、

明らかに戸惑った表情で5秒間ほど沈黙し、

「……………はい次!!」

結局死刑宣告を下したのでした。

 

今あの時のやり取りを思い出すと、

私は自らの答えに対する全否定を

そりゃそうだろと思うし、

おとこおんなに対する

同情の念さえ浮かんできます。

一体、この子は何を言おうとしているのか……。

 

はるか後に知ったのですが、

当時、彼女は私の両親に向かって

「この子はすごいものを持っている」

とこっそり打ち明けていたらしく、

それはあの異次元的回答の

ためだったのかもしれませんが、

それから20年後に

私が脱力ホラーの本で話題を集めることになろうとは

さすがの彼女にも予想できなかったわけで、

高校時代の私が

偶然彼女を病院の待合で見かけた際

金髪の刈り上げに

イメチェンしていたのも、

もしやいまだに

あの回答に対する正解を求めての

出口の見えない

修行の最中なのではなかろうかと、

ふと気にかかったものです。

 

 

3、正体不明の老婆

 (小学時代のレアキャラ)

 

これは今まで出会った先生たちの中で

一番不思議な存在、というか、

先生だったのかどうかも

よく分かりません。

クリーム色のセーターに長いスカート、

そしてその上に乗っかるのは、

ドリフの雷コントの高木ブーに

眼鏡をかけさせたような顔。

この老婆が、私の小学校低学年時代、

学内の至る所に姿を現していたのです。

別に授業をするわけではなく、

子供を注意しているのを見たこともない。

一言も口を聞かず、ニコリとも笑わず、

ただ時折、教室やら体育館やらに現れては、

気がつくと幻のように消えている。

 

決して怪談ではありません。

あれは確かに生きていました。

 

職員名簿にも載っていませんでしたが、

ちゃんと「小寺」という名字がありましたし、

私たちも「小寺先生」と呼んでいました。

小学生にとって、とりあえず、

学内にいる大人は

みな「先生」なのです。

 

当時我々の間で

ひそかに噂となっていたのは、

「校長の愛人なのではないか」

という説でした。

というのは、年齢が近いこともあってか、

校長とワンセットで

登場することが度々あったからですが、

いくら山奥の学校でも

さすがに許されないでしょう。

今思うと、

定年になった元教師が

時々学校へ遊びに来ていた、

授業の視察に来た教育委員だった、

等々いくつかの可能性が頭に浮かびますが、

真相は永久に闇の中です。

 

この謎の老婆から、

私はたった一度だけ

教育を受けたことがあります。

あれは体育館を使っての合唱練習の時間でした。

我々10人ほどが大きな口を開け、

体をメトロノームのように左右に振りつつ歌っていると、

いつしか向こうから校長が見つめており、

その横には、ちゃっかり小寺のばあさんも。

何と今日は

パイプ椅子に座った特別待遇です。

やはり教育委員だったのか、

あるいは単に足腰が悪かったのか。

そして私たちが歌い終わると、

なんと担当の教師が小寺ばあさんに

意見を求めたではありませんか。

こいつは予想外の展開だ。

一体何を言うのかと皆が注目した瞬間、

老婆は、

 

「あの、歌うときに、

 体を、右やら左に動かすやつな。

 あれがな、みんな向きバラバラで、

 見苦しい。

 もちっと、

 合わせてやれい

 

 

彼女の唯一の教えでした。

 

 

訓示の内容から

戦争経験者なのは

間違いないでしょうが、

いつもの無表情一つ変えずに

地の底から響くバリトンで放ったあの言葉は、

今でも私の心に深く残っています。

 

惜しいことに、当時の私は、

後の時代のように教職員の名前を

全員フルネームで暗記して

手作りのイラスト入り職員図鑑を作成するという

趣味をまだ持っておらず、

小寺のばあさんについても

曖昧なポジションに留めたままでいるうち、

彼女はぷつりと姿を見せなくなってしまいました。

せめてフルネームさえ知っていたならば、

インターネットの発達した昨今、

彼女の正体に関する何らかの情報に

アクセスできたかもしれないものを。

 

彼女が学んだ内容、教えた科目、

そして若き日の恋の記憶……。

それらすべてを猛烈に知りたいのですが、

今となっては何もかもが手遅れです。

 

 

4、空滑りのサタデーナイト

 (高校1年時・数学担当)

 

お気づきのように

中学時代を飛ばして高校時代が始まっておりますが、

それは何も私が中学時代に

短期間不登校だったからだけではありません。

当時の担任たちは私の不登校を治そうと

一生懸命努力してくれ、

私は今でもそれに大変感謝しています。

ただ、そうした善人たちは

面白い話のネタにはなりにくい。

変な話ですが、

いい人であればあるほど

私にとっては興味が薄い傾向があるため、

一気に微妙なキャラ続出の

高校時代まで飛んでしまうというわけです。

 

高校時代に関しても、担任教師たちは

ごくごく真面目な良い人たちであったので

ここで語るべきことは一つもなく、

高齢・脇役勢の渋い活躍ばかりが印象に残っています。

 

 

高校一年時の数学担当は、

ペタリと撫でつけた黒髪にモミアゲだけが白く、

浅黒い顔にメガネをかけた小柄な初老男性でした。

その授業は、

公式などを黒板に書き記した後に

2、3の練習問題を

自分で答えを言いながら

一方的に語るという

純粋講義的数学とでもいうような

高度に観念的な世界だったので、

話し口はハキハキとしているのに

内容が全く分からず、

一部の女子生徒たちからは

「あいつも

 分かってないんじゃないの」

と言われる始末でした。

 

ただ、

私はこの教師が好きだった。

 

それは生まれて初めて出会った

「おじいさんの先生」だったからでもあります。

年齢的にはまだ50代半ばだったのでしょうが、

まるでメガネのツルを境にして

血流が止まっているかのような

真っ白のモミアゲ、

紺色の背広に茶色のチョッキという

沈んだコーディネートで

「ホッ、ホッ、ホッ、ホッ」と

息を弾ませつつ

ちょこまか動き回る姿は、

見事なまでに

「おじいさん」のイデアそのものでした。

年の割に肌の張りだけは妙に良く、

一度町外れの温泉で見かけたことがあるので

日頃から風呂好きだったのかもしれませんが、

一部の生徒たちからは、

別の男性教師と一緒に

峠のホテルへ入るのを

見かけたとの噂もあり、

美肌の真の原因は定かではありません。

 

それまで私が出会った先生でも、

校長や教頭クラスにはもっと高齢の人たちがいましたが、

彼らは特に授業に関わるわけではなく、

たまに教えても習字や道徳といった

どうでもいいような分野であり、

それと比べて

「数学」なる高等学術を

マスターした目の前の小柄な老人に、

私は一種畏敬の念を抱かざるを得なかったのです。

 

ただ、前述のように、

彼にはマスターしたものを

弟子に伝える才能は無かった。

その点、学問的側面では

教師として失敗したと言えるでしょう。

 

しかし、

教師としての彼の最大の魅力は別の面にあり、

その独特の熱い性格は、

いつも生徒たちに、

数学などよりも

はるかに大切な何かを

教えようとしていたのです。

 

ある日の授業中、

彼はいきなり数学の話を中断し

「まあこれは余談だけれども……」と前置きした上で、

私たち1年生の心構えについて語り始めました。

 

「君たちはバカだ。

 いや、こんなこと言うと、

 わしは校長に何言われるか分からん。

 しかし別に

 校長が怖くてやってんじゃないんだ」

 

延々20分ほど喋り続けていましたが、

私はいまだに、

なぜ自分たちがバカだと言われたのか

全く覚えていません。

それはあの時教室にいた皆も同じだと思います。

彼にとっては何か大切なことを

山ほど詰め込んだ話だったのでしょうが、

記憶にある言葉は

「君たちはバカだ」

「別に校長が怖くてやってんじゃない」

の2つだけであり、

その、

目の前の大切な生徒たちに

何一つ思いを伝えられないのに

校長に睨まれるリスクだけは

一方的に負うという

無意味な犠牲的精神が、

真に

熱血のための熱血といった

崇高さを感じさせ、

ひどく私の胸を打ったのです。

 

ただ彼の下手くそな言葉では、

いつもその具体的な

メッセージが分からない。

これも数という抽象的世界を

専門に生きていたからかもしれません。

そうした不器用さが災いして、

その心の美しさが

私以外の生徒に伝わることはなく、

野球部の顧問でもあった彼については

「あいつ、知ったげに

 トレーニングルーム入りやがって」

と否定的な評価が目立ちました。

彼はスポーツ好きな人間でもありましたが、

2002年のワールドカップの際には職員室で

「フーリガン、来りゃええのに」

とジョークを飛ばして

他の女教師から

顰蹙を買っていたのも覚えています。

 

どうしようもなく空滑りでセンスも古い。

しかし、誠実であることは間違いなく、

中身は不明ながらも、

いつも生徒のことを思うあまり

心の奥底で熱く燃えていた

何かの情熱。

こうした彼のイメージのすべては

私の中で一つに混ざり合い、

背が低いために右腕を限界まで上に伸ばして

チョークで数式を記し、

そのままキッとこちらを振り向いた時の

サタデー・ナイト・フィーバー

そのままの神々しいポーズと相まって、

今でも古いタイプの教師の

一つの理想型として

微笑ましく思い出されるのです。

 

ちなみに彼の下の名前は

「革」といいました。

私はずっとその読み方が分からなかったのですが、

今から数年前、なんと偶然、

地元新聞にて彼の名を発見したのです。

その記事は、すでに定年した彼が

野球組織から表彰されたことを伝えるもので、

数十年前に新人教師として赴任した高校で

道具集めから始めて

ゼロから野球部を創設した話などが書いてあり、

彼の熱血精神はこうした過去にも

起因するのかと納得しましたが、

肝心の名前の読みは

「あらた」なのでした。

年齢から考えて、おそらく終戦直後の生まれで、

親がこれからの明るい時代に

希望を託して付けた名前だったのでしょう。

 

 

私は今でもその新聞記事の切り抜きを、

ベッドの下の引き出しに

こっそりと保管しています。

 

 

5、無限ループのダンディ

 (高校2年時・地学担当)

 

今回の文章を書くにあたり、最後の1人を、

先ほどの革老人とこのダンディ老人の

どちらにするか大いに迷いましたが、

やはり、

その底知れぬ

不気味な魅力に敬意を表して

こちらにしましょう。

両者とも年齢は同じくらいでしたが、

革老人が「陽」であるのに引きかえ

こちらは「陰」の代表選手であり、

両者あわせて語ることで

教員界という宇宙の全てを

明らかにできると考えます。

 

 

私はかつて、

あれほど「熱」を感じさせない教師に

出会ったことがありません。

年齢は50代半ば。

額はハゲ上がっているものの、

薄い頭髪は毛染めのおかげで妙に黒々。

どことなくダンディな空気がありましたが、

それは単に、極限まで口数が

少なかったということが大きいでしょう。

 

まず授業が始まると、

黒板の左端から無言で図式や単語を書いていく。

やがてそれが右端まで行きつき、

それ以上書けなくなる。

するとこちらを振り向いて、

「書けたかなー。消すよー」

とつぶやき左から順番に消していく。

消してピカピカになった黒板に

また左端から続きを書き始める。

無限にこの繰り返しでした。

私は彼の授業を受けていて、

中世の写字生の気持ちが

非常によく分かったものです。

成績評価の第一の基準は

ちゃんと黒板を

きれいにノートに写したかというもので、

再現度の美しさによって

ABCの3ランクに格付けされました。

たまに補助的な説明を加える際にも

教科書をそのまま朗読するだけであり、

一度などは

「モホ不連続面」という用語を

「ホモ、あっ失礼」

と言い間違え、

先ほどの革老人以上に、

実は分かってないんじゃないかという

疑惑を生じさせたものです。

そうした機械的、

よく言えば科学的な授業内容から

生徒の私語が絶えませんでしたが、

淡々と黒板に向かい、決して注意することはない。

おかげで私は、

後ろに座った留年不良グループから

いつも消しゴムの破片を飛ばされて

迷惑したものです。

 

しかし、そんなある日。

クールな彼の世界に突如事件が起こります。

抜き打ちで授業の見回りに来た教頭が、

机の下で漫画を読んでいた生徒を

見つけてしまったのです。

教頭は烈火のように怒り、本を取り上げ、

後で出頭するように言い残して

教室を去っていきましたが、

その間、

黒板の前に立っている

この教室の責任者の存在は

全く無視されていました。

私はこの光景を見て、

これではダンディの立場が無いではないかと

妙に同情したものです。

 

それから間もなくのこと。

いつものように教室には私語が充満。

おなじみの光景なので

誰も気にしていませんでしたが、

その中でも特にやかましかった

ルーズソックス集団に向かい、

驚いたことに、

ダンディが突然

注意をしたではありませんか。

やはり先日の件で教頭から何らかの意見があったか、

あるいは、

自発的に多少感じることが

あったのだと思われます。

しかし肝心のその注意の内容は、

「あまりにうるさいので、

 生徒指導に報告しておくから」

という非常に官僚的、

よく言えば科学的なものでした。

しかし意見された方も、

名うてのゴロツキとあって黙っていません。

「何で、すぐに生徒指導とかに言うの?

 今、自分で注意すればいいじゃん」

と反撃したのです。

 

その瞬間、

カッと目を見開いたダンディ。

そのままゴロツキに向かって

「な~~に~~~っ?」

と威圧するように

呻いたではありませんか。

 

数十年ぶりに

教師の魂が蘇った瞬間だ!!

 

私は事の次第をドキドキしながら見ていましたが、

やはり根が科学者です。

感情は一瞬で平静に戻り、

自分があえて生徒指導に通報する

心理的必然性を、

棒読みで論理的に

延々と繰り返すばかりでした。

しまいにはゴロツキどもも

あきらめて笑い出し、

「分かった、分かったから」

授業後におとなしく

出頭していったものです。

しかしその後もしばらく

彼女らの怒りは尾を引いたらしく、

「あの野郎、生活を破壊してやる」

等と物騒なことを息巻いていましたが、

ダンディと写字生たちとの平和な毎日は

その後も何一つ変わらず

続いていったのでした。

 

そんな調子で年も明けたある日の時間。

誰も予想だにしなかった

恐ろしい事態が生じます。

ついに、

黒板に書くべきものが

無くなってしまったのです。

まだ授業は

数回分も残っているというのに。

棒読みの教科書も最後まで行きつき、

もはややるべきことが何もない。

 

どうする、ダンディ!?

 

しかし、長年の教師生活で

落ち着き払った彼はさすがのもの。

 

「はい、もう一回戻るからね-」

と言いつつ黒板に書き始めたのは、

去年の4月に見たのと

全く同じものでした。

 

 

能ある鷹は爪を隠す。

私はそれまで、

彼のループ世界は

1枚の黒板の両端間の繰り返しという

平面的空間だけで

完結しているのだと思っていましたが、

ここに至って、

サヴァン症候群の人々が

数百年分のカレンダーを

一瞬で脳内再現できるのと

同じレベルの立体性を

持つことが明らかになったわけです。

あのような天才が

片田舎の公立高校に埋れていたことは、

人類にとって

大いなる損失だったと

言わざるを得ません。

 

数年前、無職で暇だった時代、

私はふとダンディのことを思い出し、

何か情報はないものかと

インターネットで検索してみたところ、

何と、彼が若き日に書いた論文が

存在するのを知りました。

意外な発見に心躍りましたが、

よく見るとそれは、

彼以外にも数名の執筆者がいる共同論文であり、

「地学教育」というマイナーな研究誌に発表された上、

他者の論文の中で参考論文の

1本として挙げられている形での紹介だったので、

現在オリジナルにアクセスするのは

ほぼ不可能だということが判明したのです。

要するに

どうでもいい論文なのですが、

あの影薄いダンディの物した文章が

この世に存在するというだけで

大いに興奮した私には、

いまだ謎が多い彼の頭脳を覗き見する機会が

永久に失われてしまったことは大変残念でした。

 

革老人の空滑りの熱血と対照的に、

過剰に冷めた合理的精神の権化。

同じ理系の分野でも、

人によってこうも個性が出るものとは。

もはや誰からも忘れられた存在ですが、

「学問は人なり」の精神を

自らの存在をもって教え込んでくれた

あの無限ループのダンディに、

私は心からの敬意を表します。

 

 

 

というわけで、

無事に5人紹介できました。

 

あらためて考えると、

私は彼らから学問に関して

何一つ学んでいません。

しかし、生身の彼らの存在それ自体が、

私に対してあまりにも色々なこと、

とりわけ、

この世の中にうっすらと漂う

微妙な面白さを見つけ出す

繊細なセンスを教えてくれました。

彼らが残した強烈な印象のせいで、

私はストレートな魅力を持つ普通の人間に

興味が持てなくなってしまい、

それは現在の私の人間関係から、

日常の趣味・嗜好に至るまで強く影響を与え続けています。

 

上っ面の主義主張ではなく、

真に己の存在そのもので

人生の面白さを教えてくれたあの5人。

私は彼らに対し、

凡百の教師を超えた

真の「聖職者」の称号を

心から奉りたいと思うのです。

 

 

 

しかしまあ、今回は、

肩の凝らないテーマにしたつもりだったのに……。

 

 

書くのに6時間も

かかっちゃったよ。