川勝徳重氏の『電話・睡眠・音楽』を語る   | 七色祐太の七色日日新聞

七色祐太の七色日日新聞

怪奇、戦前文化、ジャズ。
今夜も楽しく現実逃避。
現代社会に疲れたあなた、どうぞ遊びにいらっしゃい。

ーーみなさんこんにちは、七色日日新聞記者の塵芥です。本日私は、備後国・尾道の片隅にひっそりと佇む七色祐太翁の荒れ屋敷へと来ております。七色翁は帝都を離れたのち、若き青少年たちに自らの怪奇精神を叩き込むべく、人里離れた山奥で大日本怪古會を結成されました。現在は怪奇道範士十段として毎日弟子たちに血尿が出るほどの稽古をつけておられるわけですが、先日、翁の若き友人の一人である川勝徳重氏が『電話・睡眠・音楽』なる天金五号活字四分アキの大変立派な書物を上梓されまして、枢密院の内外でも大変評判を呼びましたことから、今日はその逸品に関する翁の感想をじっくり伺うため、私も土産の海苔を風呂敷に包んではるばる浅草奥山からやって参ったというわけです。それでは七色翁、よろしくお願いします。

 

はい、どうも、こちらこそよろしく。門前で待たせてしまって申し訳ありません。ちょっと今、弟子たちに、土中の棺桶で十日間断食する修行を課している最中なもので、裏の墓地まで様子を見に行っていたのです。半分はまだ生きておったので問題ありません。さっそく話を始めましょうか。どっこいしょ、すいません、痛風で右足を痛めているもので、正座は勘弁させてもらいますよ。

 

ーー今日はこんな私をご丁寧にも書斎にお通しいただき、ありがとうございます。

 

いやはや、なんとも汚い部屋でお恥ずかしい。出会い系の相手が来るとき以外、ほとんど掃除をしないものですから。まあ今日は、煎餅片手に玉露でもすすりつつ、のんびりとお話をいたしましょう。

 

 

川勝氏との出会いについて

 

ーー翁と川勝氏とは、かつて『グロテスク怪奇』なる書物を共同で上梓されたこともあり、なかなか深い関係であるように見受けられます。

 

もともと彼との出会いは、私がツイッター上において、レスター・ヤングのレコードの回転数を上げて聴くとチャーリー・パーカーの音になるという豆知識を振ったあたりだと記憶しているのですが、まったく今思うと、私と彼との出会いは運命だったのです。川勝氏本人から聞いたのですが、彼の家系はあの有栖川宮家の血を継いでいるとの言い伝えがあるらしく、かつては宮大工を生業とした高貴な血筋であるそうです。実は私の家も、かつて毛利元就の娘が備後の山奥の寒村の沼に建てた「沼城」なる、怪奇ムード満点の城の跡地に一族の巨大な墓がありまして、私自身も元就の血を継いでいる可能性があるのですよ。だから二人の出会いは必然であるわけですね。

 

ーーすいません、少し話についていけないのですが、結局なぜ二人の出会いが必然だと……。

 

それはもう、お互い創造神から選ばれた高貴な者同士、赤い糸で結ばれているのは当然ではありませんか。そんなことは天地ができた時から決まっております。私と彼、二人の顔を交互にじっくり眺めてごらんなさい。どちらもつるりとしておって、苦労を知らない嫌なタイプの顔でしょう。この手の人間が結びつくのは運命なのです。川勝くんとはとうの昔にお互いの血潮を酌み交わして固めの盃を済ませ、全身のほくろの数まで知っているほどの仲ですよ。

 

ーーなるほど、現実世界での初対面を云々する以前に、すでにアプリオリな次元において、翁と川勝氏の出会いは運命付けられていたというわけですね。なんだかワクワクしてきました。本の話題に入る前に、もう少し川勝氏について色々と聞かせてください。

 

 

川勝氏の人柄について

 

ーー私もこの本を読んで思いましたけど、とにかく作品全体から漂ってくる川勝氏の思想、それが非常に深遠なものだと……。

 

深いです、多重債務の底なし沼よりも。あなたは、彼が修士号を持っているということをご存知でしょう。これがどれほど恐ろしいことか。かつて私が若かった時代は、大学を出たというだけで「学士様」と崇拝され、まして修士ともなると、もはや人間ではありませんでした。修士は海の向こうでは「マスター」と呼ばれます。この語の持つ侵すべからざる威厳は「マスター・オブ・セレモニー」を例に取れば十分でしょう。それはセレモニー全体を掌握し司る者ですが、そうした場には必然的にギャング、マフィア、金権政治の権化など、生き馬の目を抜くような連中が大勢集まります。そうした無法者を力で束ねつつ、有無を言わさず式典を進行させる、極道の中の極道。川勝氏は、学問の世界においてそれほどの強固なやくざ性を持つ逸材であるということを、学習院大学から公式に認められた存在なのです。この学習院というのがまた怪物の巣窟で、かつては頭山満の親友である三浦梧楼閣下が院長を務められ、彼はその勇猛ぶりにおいて天下に並ぶところがなく……

 

ーーちょっといいですか。おっしゃっていることが分からなくなってきたのですが、要するに川勝氏は、すごいところから認められた、すごい人だということでよろしいでしょうか。

 

結論から言えば、そうです。

 

ーーそんな、学問の世界でも十分活躍できる川勝氏があえて漫画の道に入ったのは、どういう理由からなのでしょう。

 

それに関しては、ちょっとした裏話がありましてね。私は彼の学識の深さを知っておりますから、実はある伝手を頼って彼をマールブルク大学の員外教授に就任させるべく尽力した経験がございますが、その時のフッサールの意見は次のようなものでした。「川勝の修士論文は、貸本漫画家の西正彦を始めとする過去の忘れられた存在を、一旦『括弧』に入れた上での時間軸上におけるみずみずしい現在の地点へと生起させ、その才能も相当なものを感じさせるとはいえ、彼がかつて『グロテスク怪奇』誌上にて発表した牧口雄二論は後半部分が欠落したまま未だ未完成であり、これはいずれ、前半部分のみに終わったハイデガーの『存在と時間』の二の舞となる可能性が大変濃厚で、ポスト獲得のためにはよりまとまった著作の発表が望まれる」。彼のこの意見によって、トクシーゲル・カワカートスの員外教授就任はかなわず、私も人知れず随分涙を飲んだものです。まあこれは、余談だけれど。

 

ーーそれでは川勝氏は、マールブルクへの赴任がかなわず、漫画家になられたと。

 

しかしまあ、それは、数多い理由の一つに過ぎないでしょうな。より根本的なことをいうと、先ほども申したように、彼の本質が極道だからです。そして、これは大事なところだから間違えないで欲しいのですが、彼は極道とは言っても、あくまでも、右翼系極道ではなく、アナーキスト系極道なのです。基本的には伝統を愛し過去を重視しますが、ひとたび自己の内面に抑えがたき熱情が沸騰すると、たとえ一般世間をポカンとさせようが一瀉千里に突っ走る無政府主義的傾向を強く持っているのです。個人の情熱で予測不能な動きを見せることが多々あるため、型にはまった組織にとっては使いにくい存在なんですね。過去の大親分たちの中にも、そういう人は幕末ごろに何人も見られますよ。秩父困民党の田代栄助親分など、性質が川勝くんに似ていると思います。ただ川勝くんの場合は、その「使いにくさ=並外れた個性」を逆にチャームポイントに変えて自身の売りにする能力がありますけどね。とにかく彼は、そんな自身の素質を自覚しているからこそ、学者じゃなくて創作家になったのじゃないかしら。私自身も組織や集団に全然馴染めない人間なので、なんとなくそう感じてるんです。

 

ーーなるほど、川勝氏の持つアナーキズム的な性情が、彼に創作者への道を歩ませたわけですね。

 

アナーキズム的性情……。ニート的性情と言ってもいいけれど。ただ、基本は極道なんですよ。だから表面的には、取り巻き多いし、お金持ちだし、暴力的な物量で攻めてくるし、闇金みたくやたら金貸す金貸す言ってくるし、カラオケの会計で列が長いと並ばずレジに直接金放り投げて帰るし、飲食店では人差し指一本でチョチョイと店員を呼びつけるし、単にふんぞり返った保守的オヤジなのかと勘違いする人もいるでしょう。でも作品を見れば、感性は非常に若いですよね。何か意表をつくことやってやるぜという反抗心・いたずら心みたいなのが常に覗いてる。それに、頭が老人化してない証拠として、扱う題材が古典的な場合でも、そうした題材と世間との距離を寸分違わず計測する能力があって、どう加工すれば一般の、特に若い人たちに受け入れてもらえるか、ものすごく考えて描いてますね。今回の本でも、読者が求めているのは藤枝静男や梅崎春生の毛穴から滲み出た原液ではなく、いったん川勝という存在を通して濾過した上での紙一枚隔てた彼らだということをはっきり理解した上で、自らの世界を堂々と展開しています。趣味性の強い人間には、これができない人が多いんです。自分の好きなものをひたすら真面目に生のまま差し出せば、相手にも気持ちが届くはずだと勘違いしてる人が多いんですよ。向こうは退屈なだけなんだけどね。

 

 

タイトルについて

 

ーーでは、翁が心に抱く川勝氏の人物像を一通り語ってもらったところで、本そのものについて話を始めていきたいと思います。まずこの『電話・睡眠・音楽』というタイトルですが、どこか幻想的というか、夢見心地というか、ある種の気だるさを感じさせますね。私などはそんな空気になんとなく「部屋とYシャツと私」を思い浮かべてしまったのですが。

 

そうですか。私はこの題名を見て、あの山崎今朝弥の『地震憲兵火事巡査』が真っ先に頭に浮かんだのですが。読むと全然そういう話じゃないんですけど、いつも川勝くんから古き良き大正アナーキズム的な香りを感じているからですかね。話が少し逸れますが、彼は以前ギロチン社についての作品を描きたいと語っていたことがあり、その際には私に当時のやくざ・右翼関係の資料も借してほしいとのことだったので、私は大正時代にやくざの親分衆が出した機関紙をはじめ、大日本国粋会の全国会員名簿まで用意してじっと待っておるのですが、あれから一向にその話をしてくれません。実家が東京にないからでしょうか。

 

ーー本の中に出てくる一節を、ものすごくディープな逸話に絡めてくださってありがとうございます。さてこんな調子に、本の中身がポツポツと会話にも出てくるようになりましたので、ここから個々の収録作品に関して具体的に語っていただくことにしましょう。

 

 

個々の作品について

 

本日『電話・睡眠・音楽』様におかれましては、はるばる魔都池袋から死都調布を経由して魚都尾道までお越しいただきました以上、全ての作品に関するお言葉を捧げたいのが本意ではございますが、時間の関係上、お祝いの電報を以て代えさせていただきます。

 

ーー卒業式の祝電披露じゃないんですから。山奥で隠棲してんだから時間は湯水のようにあるでしょう。

 

ちょっとお茶目にしてみただけですよ。しかし実際問題、全ての作品を語っていくと、この対談が永久に完結しませんから、いくつかの作品に絞って見ていくことにしましょう。まずは冒頭に置かれた「龍神抄」。切込隊長だけあってかなり印象に残りますね。この話には、自分が龍になれるとの確信を抱いたひげ男が登場しますが、国学者の大石凝真素美によると、人類は龍から進化したものだそうです。だからこれは、日本人の先祖返りの物語として読むのが適切でしょう。また、このひげ男は天井の木目を眺めているうちにそれがウネウネと動き出す妄想にもかられるのですが、これは米国のギルマン女史の怪談「黄色い壁紙」を思い起こさせますね。ギルマン作品では、壁紙を一日中眺めている女性がその模様の中に異常な物語を発見し、ついには物語と現実の境目が消滅して気が狂い、蛇のように部屋の中を這いずり回ります。一方川勝作品では、木目を眺めたひげ男が龍になることを目指すわけですが、彼は別に気が狂っていないのですね。だって、日本人の先祖は龍だから。単なる幼児退行というか、傷心による現実逃避から心の故郷を懐かしんでいるというに過ぎません。

 

ーー私はどちらかというと、大石凝真素美氏の方が気が狂っているように思うのですが、仮に大石凝氏を正常だとした場合、たしかにひげ男もまともだということになりますね。しかしあの男は、結局龍ではなくて鰻になってしまいましたよ。

 

おや、あなたは気づかないのですか。あれは明らかな隠喩だということを。実際には、彼は見事龍になれたのです。

 

ーーえっ、そうなのですか!! あの鰻は実は龍であると?

 

そうですよ。そうして自らが龍になることで原始の日本人そのものと一体化した彼は、清らかな湖の底に心地よい居場所を得るわけですが、そこは肇国の産声をあげたばかりの美しき大和の国そのものに他なりません。そして物語は、ここから第二部へと突入します。太古から現代に至るまでの日本の歴史が、一大絵巻として大々的に展開されてゆくのです。島国であるためにほとんど他国と関わらず泰平の眠りを謳歌していた我が国は、鎖国政策を捨ててのち、諸外国とも言葉を交わさねばならなくなりました。作中に出てくる備前の壺は「西洋」のメタファーです。五十六年ぶりに口を利いたとの台詞がありますが、開国よりそれくらい前というと、ちょうどラクスマンの船が北海道にやって来た頃ですから、あの壺はロシアでしょう。そして物語はこの後、恐ろしい展開を迎えます。わが日本は、突如として暗黒の処刑台へと引きずり出され、ハラキリさせられ、最後には一人の女に平らげられてしまうのですが、これが何を表しているかは言うまでもありません。そう、あの女こそは、世界の警察アメリカ帝国の暗喩に他ならないのです。つまりこの作品は、前半での超人的な修行によって見事龍となり太古の日本と一体化した男が、後半ではそこから現代までの堪え難い苦難の歴史を身をもって体験し、最後には存在そのものすら消されてしまうという、二部構成の因果物怪談となっているのです。

 

ーー何ということでしょう。一見コミカルなこの作品が、これほど深刻な内容を秘めていたとは。川勝氏は、龍をあえて鰻として描き意図的に滑稽感を醸し出すことで、直接的な描写をオブラートで包んだわけですね。しかし、最後に日本を丸呑みする大悪人役を自分の馴染みの女に演じさせるとは……。

 

ですから先ほども言ったでしょう。修士とはそれほど恐ろしいものであると。

 

ーーさすが七色翁、おっしゃった意味が私にもようやく理解できました。そのほかの作品についてもどんどん語ってください。

 

では「赤塚藤雄の頃」について。これは赤塚不二夫の少年時代を絵物語として描いたものですが、そもそもなぜ赤塚をテーマにしたのか。それは言うまでもなく、現内閣総理大臣の安倍晋三氏が、子供の頃にはイヤミのシェーを真似するような陽気な子供だったという事実が出発点にあるわけです。

 

ーーえっ、私はそのエピソード自体、今初めて知りました。

 

あなたはもっと勉強しなくてはなりませんよ。川勝くんを見習いなさい。つまり、安倍首相の幼き日の心象風景には赤塚不二夫の楽しいギャグ世界が確実に存在しているのですが、その赤塚自身は、実は戦争が原因で筆舌に尽くしがたい辛酸を嘗め、地獄の少年時代を送ったという凄まじい過去を持っている。この作品には、そうした皮肉な事実を細密な描写で執拗に描くことにより、少年時代の純粋な心を忘れた現在の安倍首相、ひいては彼が率いる現政権、その政策全体に対し、一歩立ち止まらせ一考を促したいという隠れた批判的意図があるのです。

 

ーーまったく感服しました。川勝氏はそこまで考えた上でこの作品を手がけたのですね。

 

彼は何もかも分かった上で描いています。しかし、そうした深遠な思想家としての面だけが彼の全てではありませんよ。先ほど述べたように、彼は極道的な豪放磊落さも強く持っていますからね。それがよく分かるのは「先が見えない」での一コマです。ひたすら暗く落ち込む自分自身を描きながらも、合間に十九歳で童貞を捨てたことがはっきり記されていますね。場所は多分、自宅から池袋駅に向かう途中の路地裏に存在する、以前教えてくれたあのホテルだったのでしょうが、頭を抱えて悩みながらもやることはちゃんとやっているわけです。このように、彼は繊細であると同時に豪快な面も備えているわけですが、ここで一番の問題は、なぜ私より七年も早く童貞を捨てているのかということです。これは有史以来の大問題ではないでしょうか。しかも、彼の初体験の相手が女性であったのは確実ですが、私が松戸のマンションの一室で童貞を捨てた相手というのは……

 

ーー七色翁、それ以上は、どうかお慎みください。翁ご自身の名誉、ひいては常日頃翁を敬愛する我々、この対談を読んでおられる翁のご家族の名誉にも関わります。

 

いえ、よいのですよ、私のような老人の昔話など聞き流してくだされば。所詮すべては、はるか昔の夢のような出来事ですから。

 

ーーさあ話を変えましょう。藤枝静男や梅崎春生などの文学作品を原作とするものについてはどう感じられますか。

 

これらに関してはですね、川勝くん自身が著者解題で述べているように、あくまでも彼が原作のディテールを捻じ曲げて作り上げた独自の世界なのですから、そのまま読者各人が自由な心で味わえばいいと思います。中には難しいことを言おうと頑張る人がいて、私がこの本の感想をいくつか見た際にも「藤枝静夫(ママ)の原作世界がどうこう」とか偉そうに書いている方がおられましたが、それでは、かつて国会で共産党の宮本顕治を人殺しだと発言して糾弾され「私はただ、宮沢賢治くんが人を殺したと言っただけじゃないか!!」と開き直ったハマコーと変わりませんよ。別に藤枝静男に興味がないなら背伸びをせず、純粋に川勝作品への愛を語ればいいことです。例えばバート・I・ゴードンという低予算怪物映画の監督がおりますが、彼は、巨大化物質の混じった飯を食べた若者たちが身長数十メートルの巨人に変身してみんなでゴーゴーダンスを踊るという気の触れた映画を撮りました。そしてその作品のクレジットに堂々と「原作:H・G・ウェルズ」と表示したのです。この場合、この映画を見た後でウェルズの小説を読むことに何の意味があるでしょうか。作品自体が恐ろしく個性的な場合、原典との比較ということは、研究者を除いてあまり気にしなくてよいことだと思うのです。それより川勝世界自体の魅力をたっぷりと味わおうではありませんか。

 

ーー大変よいお話を聞かせていただいて、私も話題を変えた甲斐がありました。それではいよいよ、本日の締めとして、表題作でもある「電話・睡眠・音楽」について語っていただくとしましょう。

 

 

「電話・睡眠・音楽」について

 

これはもう、現代哲学史上に屹立する一大金字塔と言ってよいでしょうね。

 

ーーいきなりすごいレトリックが出ました。七色翁、最近は原稿料の入る仕事もないことですし、この場で思う存分語り倒してください。

 

分かっておりますとも。それでは、この作品の具体的なあらすじから述べてみましょう。話はまず、爽やかな朝日を浴びて、静まり返った渋谷の街を、三十四歳の女性が健気に歩いていく場面から始まります。そして彼女は気の向くままに、客の入れ替えが終わったばかりのあるクラブのドアを開け、きっと早起きし過ぎたのでしょう、椅子にもたれて泥のように熟睡。いろんな夢を見て目が覚めると、まだ午後の三時二十分でした。

 

ーーえっ……

 

そこで彼女は、今のクラブはまだ養老乃瀧グループの一軒め酒場のようなものだと心得て、ぼんやりやるせない気持ちを拭うべく、新たなドアを開け腕のハンコを見せ、二軒目のクラブの暖簾をくぐるのです。そこにはこちらの予想以上に長時間滞在したらしく、浦島太郎も顔負け、店を出るとすっかり夜が更けているではありませんか。あら、そろそろ帰る時間だわ、飲み過ぎて気持ち悪いし。電車に乗り込み、深夜の零時二十分には自宅に帰れることを確認。しかしアパートには、予想よりもかなり早く、午後十一時三十分より前に帰り着くことができました。帰宅と同時に昼間の疲れがドッと出て、全裸のままで仮眠をとります。

 

ーーひょっとして……

 

そして気合を入れて目覚めた彼女は、風呂に入って出たはいいものの、こんな中途半端な時間にやることもないもんで、クラブでの美味しかったお酒を思い出し、スマホをいじっては暇そうな独身友達に次々と留守電を入れたりしますが、それもつかの間。ついにあの恐ろしい、純粋に混じり気なしの、究極的な、真の暇が訪れることになるのです。以後の展開は作中に描かれていませんが、きっとそのまま、本格的な睡眠に突入して一日が終わったのでしょう。

 

ーーあの。私、先ほどからずっと思っていたのですが……。七色翁、もしかしてこの作品を、間違えて逆から読んだのではありませんか。

 

その通りです。読み終わるまで気づきませんでした。他と同じく右開きで普通に読みました。いつまで経っても題名が出ないので、権利の問題でクレジットを丸ごとカットした海賊版DVDのように斬新な構成だと感心しっぱなしでした。すると最終ページに至って突然タイトルが登場したものですから、その瞬間、まるで検品を忘れた商品をそのままコンベアではるか先まで流してしまった工員のような後戻りできない恐怖に襲われ、恐る恐る最初に読んだページを開いてみると、右下に蟻のような豆粒文字で「FIN」なるフランス語が描かれているではありませんか。このパンチはみぞおちに響きましたね。あの文化庁からも認められた大傑作との初対面が、まさかこのような形で行われてしまうとは。

 

ーーいや、普通途中で気づきませんか。少なくとも、作中には具体的な時刻を述べた箇所が三つありますし、クラブ内の会話もあちこちがギクシャクしますよ。

 

クラブでの会話なんか、いつだって何の筋道もないようなものですよ。「人生はパーティーだから」とか「俺は値上がりしてもタバコはやめねえ」とか、そんな感じでしょう。私も知り合いに連れられて二丁目のバーに入ったことが何度もありますが、二時間以上騒いでも、店を出た瞬間に話した内容なんか一つも覚えてないですから。ましてやこの作品の主人公は、周りの音が一切聞こえないくらい無我の境地にいるわけですね。私も離人症で同じ体験をしたことがありますが、そんな限界地点にいる女性の会話に矛盾があろうがなかろうがどうでもいいので、全く気にせず読んだのです。しかし問題は、今あなたがおっしゃったもう一つの矛盾、つまり「時間」ですね。

 

ーーそうですよ。まあ、クラブの中は昼間でもハッテン場みたいに真っ暗ですから、三時二十分が昼か夜か気づかないのはいいとして、翁の逆読みで行きますと、電車内にて「到着は十二時二十分か」と心でつぶやいた女性が、予定より一時間近くも早く家に着いたことになります。これはかなりの違和感がありませんか。

 

アプリで最短経路を調べて、途中で乗り換えたんですよ。

 

ーーいやいや、この女性がどこに住んでいるのかはっきり知りませんけど、深夜に平気で渋谷へ繰り出す点から考えて、多分山手線沿いでしょう。それなら渋谷から一気に五十分も短縮できる乗り換えなんてないですよ。

 

では途中の駅で、駅長からこう聞いたのかもしれない。「今夜は特別に、多摩霊園行きの臨時電車が出ることになっているよ」

 

ーー鬼太郎の「幽霊電車」じゃないですか。ふざけないでください。

 

あなたは本当に分からない人だな。ちゃんと目を皿のようにしてこの本を読んだのですか。解題での川勝の言葉を見よ。「何が描かれたか、ではなく何が描かれなかったか。そこに大事なものがある気がします」。隠された裏側にこそ真実があり、眼光紙背に徹すとは、それを全力で掘り当てることに他ならん。私は真摯なる読者の務めとして、血の滲むような努力で推理した完璧なる解釈を大真面目に述べておる。それを貴様は、何ゆえに「巫山戯た」などと抜かすか。お前は思想の自由を土足で蹂躙する、破廉恥極まる検閲官、大杉殺しの鬼憲兵か!!

 

ーーすいません、落ち着いてください。たしかに私の言い方が悪かった、反省いたします。

 

いえ、分かればよいのですよ。筆を省いた先にひっそりと横たわる真理。ちょうど先ほどの「龍神抄」に、日本が米国五十一番目の州になったという事実が隠されているように。それはともかく、私がここまで、この作品を逆読みした体験を延々述べてきたのは、何もあなたと落語のようなこんにゃく問答をしたいからではない。実は私は、この作品を偶然逆から読んだことで、ある驚くべき発見をした。それを是非とも、この場を借りてお伝えしたいのです。

 

ーーハハァ、謹んで拝聴いたします、是非ともお聞かせください。 

 

よろしい、では語ろう。一語も聞き漏らすな。前から読んでも後から読んでも矛盾がない物語とは何か。それを分かりやすく伝えるため、ここから話は、私自身の長い個人史に入る。

 

ーー聞きたくて仕方ありません。先を急いで。

 

私は大学二年の夏休み、ある店で豚骨ラーメンを食べている最中、ふと気付きました。そういえば、自分が今食べているラーメンや、目の前のカウンター、麺を茹でているお兄さんたちは、今この瞬間、どこから湧き出しているのだろう。そして何より、こうして麺をすすっているこの自分自身は。自分は今まで、未来というものは何となくやって来るものだと思っていたが、たとえ宇宙が誕生して約一三八億年であろうとも、今がその最新の地点であって、一秒先の世界というのは本当に、どこにも存在しないのだ。存在しないものがなぜやって来ることができるのか。ひょっとして、この湧き出しが続くことには、何の根拠もないんじゃないのか……。その瞬間、それまで体験したことのない、地面が崩落するような凄まじい感覚に襲われ、眼前の世界がピシッと凍結しました。残したラーメンをあとにどうにかアパートへたどり着きベッドに倒れこみましたが、目の前の枕や壁を見ていても気持ち悪くて仕方ありません。これらがその都度「時間」という何らかの意志によって湧き出し続けているのかと思うと、恐ろしくて直視することができませんでした。

 

ーー未来が来なくなるのが怖かったのですか。

 

来なくなるのが怖いというより、どこからやって来ているのか分からないから怖かったのです。目の前に広がる世界、空も雲も太陽も、全てが不気味でした。そのうち私は、さらに恐ろしいことに気づきました。自分は今まで未来についてばかり考えていたが、過去はどうなのか。例えば一分前に手を挙げていた自分は、今どこにいるのか。それは「過去という場所」にいるのだろうが、そもそも過去という場所とは具体的にどこなのか。後ろを振り返ってもそこにあるのはアパートの壁だけで「過去」なんてどこにもないじゃないか。これを発見した時は、もう死ぬしかないと思いましたね。未来の問題だけでも気が狂いそうなのに、過去まで相手にしなければならなくなったのですから。そして未来も過去もあやふやな存在だとすると、結局のところ、確実なのは「現在」という極小の一点だけとなり、自分は一生、スライドしていくその豆粒のような瞬間だけを頼りに生きていくしかないのだ、他に確実なものは何もないのだと思い詰めているうち、だんだん頭がおかしくなってきたのです。そして目を開けるのすら怖くて仕方ない廃人同様の状態になり、精神病院に通うことになったのです。

 

ーー生まれて初めて「時間」というものの謎に気づいたわけですね。

 

そうです。しかし、そんなことに悩んでいる人なんて、自分以外にこの世に存在するのだろうかと思いました。死に物狂いの私は相対性理論や量子力学の本などをいくつか読んでみたのですが、どれにも自分の知りたいことが何も書いてないのです。私が知りたいのは、宇宙の別の二点間では時間の流れが変わるとかいうことではなく、その流れ自体はどこから来てどこへ行くのかということなのに、そんなことに触れている本はどこにもなかった。やっぱり死ぬしかないのかと思っていた時。私は偶然ある書物との出会いを果たしました。それは中島義道の『「時間」を哲学する』という、題名からして不気味な一冊でした。それをちらっと立ち読みした私は非常に驚いた。自分と全く同じことで死ぬほど悩んでいる人間を初めて見つけたからです。ここで、だから早速大喜びでその本を読んだのかとお思いでしょうが、実際は全く逆でした。なぜなら、彼が自分と同じ悩みを持っているということは、当然自分と同じ地獄の世界に住み続けてきたわけで、本を開くとそれらの恐怖が真正面から突き刺さってくるのが確実なので、買いはしたものの、私は怖くてしばらくその本を読めませんでした。しかしある時、ついに自殺願望が頂点に達し、せめて何もせずに死ぬよりはと、一晩かけてその本を読破する決心をしたのです。それは、私の人生において一番恐ろしい読書でした。大量の安定剤の助けを借り、家中の電気を煌々と点けた上で、一行一行目を見開いて噛みしめるように読みました。そして六時間後。途中いたるところで予想通りの恐怖に襲われたにもかかわらず、その読後感は、ちょうど明るくなってきた冬の空と同じく、不思議なほどに清々しかったのです。その本は、到底解決の糸口の見えない自分の悩みの一端を、微量ながらも確実に柔らかく解きほぐしてくれたのです。

 

ーーそれは具体的には……

 

つまり、未来が来るとか過去が行くとかいうのは、時間を空間として考えた結果によるもので、単なる錯覚だということを知ったわけですね。一本の線を引いて過去・現在・未来の三つを順番に並べたおなじみの図。時間を線という空間によって表現したこのモデルは、永遠に流れる等質の時間というものを前提にしているわけですが、実際には前述の三つは全く異なるあり方をしている。時間の流れというのは、時間がその線上を一定の速度で移動していくと考えるからこそ出てくる錯覚に過ぎない。それに対する中島氏の方法は、このような時間の空間化という概念を完全に捨て去り、日常的な自分自身の体験に即して時間の正体を探っていくというものでした。そしてその場合「想起」ということが大変重要になるのです。我々は過去の記憶の密度によって時間の長さを実感するのだから、そもそも記憶というものがなければ時間というものが存在することすら理解できない。想起によって立ち現れる過去の出来事、それらを因果関係に基づいて自身で整理することにより、初めて時間が経ったこと、さらには時間という独特の厚みを持ったものが存在することが分かる。つまり、時間の中心点は現在ではなく、実は「過去」なのですね。現在という時点を極限まで短く切り刻んでゆけば「本当の時間」が存在するのではない。人の体を原子や量子まで分解すれば「本当の人間」が姿を現すのでないのと同じように。このように、中島氏の本は、人間は「現在」という極小範囲の檻の中に囚われて生きているのではないことを教えてくれたのですよ。私はそれを知ることで、生きるのがどれだけ楽になったことか。時間とはあくまでも、想起によって立ち現れる過去事象と、それに基づく因果関係の理解があった上で初めて生じるものである。そして川勝くんの「電話・睡眠・音楽」は、そうしたことをとても分かりやすく伝えてくれるのです。

 

ーーおお、永久に元の地点に戻ってこないのではないかと思っていました。ここでついに川勝氏の作品に繫がるわけですね。

 

当たり前です。そのために当時の恐怖を抑えつつ個人史を語ってきたのです。川勝くんのこの作品は、どちらの向きから読んでも話が通じます。それは、頁をまたいだ各々の描写に強固な因果関係が存在しないということでもあります。試しに最初の扉絵と最後のFINとを取り去ってみればいい。夜から始まっても朝から始まっても、一向に構わないことに気づきます。朝が来ることは夜が来ることの原因ではないし、逆もそうだからです。朝と夜、各々の中で互いに関連ある出来事が表現され、我々自身がそれらのはっきりした前後関係を因果的に理解したとき、初めて時間の向きという概念が生じるのですが、そうした強い目印が、作中には特に見えない。つまり普通の意味での時間というものが完全に消滅しているわけですね。そして、因果性の縛りという贅肉を極限まで削ぎ落としたその世界は、限りなく透明で美しい。私はこの作品を読むと、数年前、仕事もせずに、新宿の後輩の家に数週間入り浸っていた時のことを思い出します。起きるべき時間も、寝なくちゃならない時間もない。曜日や日付の感覚もまったくない。夜と朝は交互にめぐるが、どれがどの夜で、どれがどの朝だったのか分からない。自分がここに来たのは何日前だったのかも、まったく思い出せない。そんな、とことんまで社会性が剥ぎ取られた日々の合間に、それでもちょっとした悲しさや、ほんのちょっぴり元気になるような喜びがあったりする。そういう「生」を感じさせる微かな瞬間がある。この世のすべて、時間さえも消え去ってしまった閉じられた毎日の中にいようと、人間である限りは絶対に残る何かが、たしかにあるんだな。私はこの作品の、果てしなく続く無限ループのような世界の中でも決して絶望しない一人の女性の姿を見て、あの当時の自分自身の感覚をずっと思い出していました。時間性を超越したこの不思議な作品は、過去の自分の、時間に関するあれこれの気持ちを一気に思い出させてくれたのです。

 

ーーなるほど……。時間の矢という俗な概念から脱出した、一つの単純で透明な循環世界であるがゆえ、生きることそのものに関する根本的なことを見えやすくしてくれると。

 

そうです。しかもそれを、単なる思いつきではなく熟考に基づく演出の上にやっているのですから、ある意味芸術的回文といってもいいでしょうね。ちょうどタモリの「悪い傷んだサケ食べた今朝団体いるわ」のように。鶴瓶の「素手です」などとは格が違います。

 

ーー大変深い考察だと思います。この表題作に関しては、翁としても語りたいことがたくさんおありになったのですね。

 

 

最期に

 

ーー朗らかな昼下がりから始まったこの会も、気がつくとかなりの時間が経ちました。ここらでそろそろお開きにしたいと思います。七色翁、痛風の発作で苦しい中、長時間ありがとうございました。

 

いえいえ、刎頸の友川勝のためにはこれしきのこと、何の苦とも感じませんとも。

 

ーー本当に、いずれも川勝氏への深い友情が感じられる解説ばかりでした。特に「電話・睡眠・音楽」に関しては、翁の誤読から生じた独り相撲の解釈を大変丁寧に語っていただきまして……

 

なっ……貴様、いまなんと……誤読、独り相撲じゃと……?

 

ーーあっ、いえ、滅相もございません!! 翁の論評における、自らの読解力の未熟さから生じた逆読みを一流のレトリックによって美しく粉飾し、強引な結論へと導く手際の見事さは……

 

それが貴様の本心か。自らの性癖まで暴露して友のために尽力したわしの美しき心を、そのように歪曲するのじゃな。よろしい。それでは貴様に、真に時間性を超越した究極の世界をプレゼントしてやろう。そこには過去も未来も、さらには現在さえも存在しないのだ。宇宙が消滅したそのまた先まで、永遠の「無」が存在するだけなのだ。

 

ーーうわっ、ま、まさか……お許しください!! 先ほど人生のちょっとした喜びの素晴らしさをあれほど語ったあなたでしょう!!

 

さよならだけが人生だ。

それでは諸君、ご機

 

 

(塵芥記者の血痕により朱に染まりし此の速記録は幾多の戦災を潜り抜け七色翁没後の蔵書整理の際手垢に塗れたる川勝氏の単行本内より密かに発見されし物也)