あなたはどちらのカレーがお好き? ~『ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷』~ | 七色祐太の七色日日新聞

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怪奇、戦前文化、ジャズ。
今夜も楽しく現実逃避。
現代社会に疲れたあなた、どうぞ遊びにいらっしゃい。

 全国の怪奇党のみなさん、こんばんは。今日も「いただきます」の前に、ちゃんとお茶碗にお箸を立てましたか?

 

 ご存知の方も多いと思いますが、このたび、米国に実在する幽霊屋敷をテーマとした半実録怪奇映画『ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷』がめでたく日本公開されました。M・R・ジェイムズの怪談小説の主人公のように、あらゆる事物に対して「それが古いかどうか」を評価の最大基準とする私としては、およそ100年前の幽霊騒動を取り扱ったこの映画は、その存在自体が神聖不可侵なる「絶対善」です。鑑賞前からすでに出来レースは完成しております。

 しかしそれにしたって、もちろん見たいではありませんか。はるか彼方の時代、正装に身を包んだ高貴なる男女が、壮大豪勢なる大邸宅において怨念と因果の連鎖に身悶える様を、玉露をすすりつつワクワクと鑑賞したいではありませんか。

 でも忘れてはなりません。いくら舞台が一世紀前とはいえ、この映画自体は正真正銘二十一世紀の産物です。劇中ではあちこちで「大きな音」がしますし、白目の人が恐ろしいディジタル音声で口汚くわめき散らしたりもします。普段は墓場や洋館が醸し出す霊的マイナスイオンにうっとり陶酔しているみなさんも、一旦劇場に出かけた限りは、このような現代的・即物的恐怖と嫌でも向き合わなければなりません。

 しかし私は違います。私はこの映画を、輸入盤DVDにて自宅で見ました。しかも手足を伸ばしてゴロリとベッドに寝転んでおりました。傍らには英国怪談の王様レ・ファニュの「緑茶」をイメージして、サントリーの烏龍茶がなみなみと湯呑みに注がれておりました。そして何より、予期せぬ大音量をこの世で何より嫌う私は、いつも通り、画面の音量をしっかり1にした上で、部屋の明かりを落として深夜のアパートを無声時代のブルーフィルム鑑賞会さながらに演出し、1人こっそり、この映画が持つ極上のゴシック怪奇的側面のみを全力で味わうことに努めました。30過ぎると嫌いなことは何一つしたくありません。いや、むしろそんな鑑賞法をとったからこそ、この映画は私の脳髄に古き良き極上の怪談エッセンスを原液100パーセントで注入し、身体のあちこちに沈殿する濁った血液をその怪奇力で浄化させてくれたのです。

 そんな素晴らしい怪奇体験に恩返しの意味も込め、私はこれより、地方の深山幽谷から、この作品に対するあれこれの思いを語ってみたく思います。ただ、まだ実際に作品を目にしていない方も多いでしょうし、私自身ストーリーの展開を逐一記すという解説方法は苦手なので、極めて個人的な主観的感想となることをご了承ください。

 

 まず、物語の舞台となる実際のウィンチェスター・ミステリーハウスに関して語りましょう。

 

 私がこの家のことを初めて知ったのは、小学生の時でした。当時半年に一度ほどのペースでテレビ放送されていた、今は懐かしき「たけし・さんま世界超偉人伝説」によってです。この番組はいまだに私の心に強烈な印象を残しています。ギミック映画の帝王ウィリアム・キャッスル、インチキ医療器具発明家のアルバート・エイブラムスなど、その後の私の人生を極彩色に彩ることになる数多の「超偉人」たちが、たけしとさんまの暴力的なまでに低俗な寸評に乗って紹介されるという、「悪の教養」的楽しさを直球で体現する超ハイレベルな見世物番組でした。泉鏡花の異常な潔癖症を特集した会での、

 

さんま「この人、うんこなんかどうしとったんやろ?」

たけし「うんこはすごいよ、地面に落ちてくる前に手ですくって取っちゃうんだから」

 

というトークなど、繊細文豪の極北をあれほど無残に嬲り殺した場が他にあるでしょうか。

 

 そんなあの番組において、あるときウィンチェスターハウスの設計者であるサラ・ウィンチェスターも取り上げられたのです。彼女とその巨大屋敷の紹介VTRは十分弱の短いものでしたが、幼かった自分の心に凄まじい衝撃を与えました。ウィンチェスター社の社長だった夫が世界中に売りさばいた銃により、多くの人間が命を奪われた。彼らの霊は自分たちの一族を呪い続けており、身内が次々と亡くなるのはそのせいだ。悪霊の呪いをかわすには、24時間365日家を増改築し続け、彼らの目を欺き続けるしかない……。そう信じ込んだ彼女は、38年間かけて、莫大な数の部屋や階段や窓ガラスを持つ迷路のような巨大屋敷を作り上げ、自らも時々屋敷の中で迷子になり、毎晩秘密の降霊室に赴いては霊達とのトークセッションに明け暮れていたというではありませんか。

 

 なんて楽しそうなんだ。

 

 一生プー太郎のまま、不労所得で自由気ままにお化け屋敷を作れるなんて。

 

 私の将来の目標は一瞬で決まりました。

 

 しかしいつしか時は過ぎ、私はマイナス20度の冷凍倉庫で防寒服に身を包んでスモークサーモンの塊をピッキングする、ある意味お化け屋敷どころじゃないほど危険な毎日を送る大人になっていました。何をやっておるんだ。お前のその両手は、荒く削り落とされた鮭の半身を握るためにあるのか。お前はあの幼き日に、楽しい楽しいお化け屋敷を作って生きていくと、真っ赤な血潮の流れる手のひらに溢れんばかりの夢と希望を摑んでいたのではなかったか。

 ああ、しかし。ウィンチェスターハウスの存在を知った当時の、あまりに子供だった私は、まだ知らなかったのです。本気でお化け屋敷を作るには、莫大な資金が必要だということを。吹けば飛ぶような日雇いの時給取りでは、じっと手を見るより他に何一つやりようがない、でかすぎる夢だということを……。

 

 口の中が塩味でいっぱいになってきたので、個人史を終わります。

 

 世の無情によって見事に夢破れた私の経験からも、実際にお化け屋敷を作ってしまおうなどという壮大かつ変態的な人生は、やはり金持ちにまかせておくに限るのです。

 歴史上、この偉業をみごと達成した人物は、私の知る限り2人。1人は言うまでもなく、今回のテーマであるウィンチェスターハウスを作り上げたサラ・ウィンチェスター。そしてもう1人は、わが極東の島国に前代未聞の奇形建築「二笑亭」を築き上げた渡辺金蔵です。どちらも怪奇建築方面では非常に有名な人物ですが、この2人には多くの共通点があります。

 

 ・どちらも金持ちだった

 ・どちらも気違いだった

 ・どちらもお化け屋敷を作った

 

 加えて、お化け屋敷に対する両者の設計センスが非常に似ていました。ウィンチェスターハウスには上った先が行き止まりになる謎の階段があるのに対し、二笑亭には空に向かって一直線に伸びている登ることさえ不可能な梯子があり、ウィンチェスターには開けると先の床がなくそのまま地面に落下してしまう罠の扉があるのに対し、二笑亭には開けると先の奥行きがなくそのまま壁に激突してしまう不良建築の押入れがあり、ウィンチェスターでは数字の13を意識した多くのオブジェから独自のキリスト教的哲学が感じられるのに対し、二笑亭では意味なく使われたひし形のオブジェから独自の「個人的哲学」が強く感じられるのです。

 このように、2人のお化け屋敷には多くの共通点がありましたが、唯一の違いは、ウィンチェスターハウスには実際にお化けが出ましたが、二笑亭は全くお化けが出ないにもかかわらず近所から「お化け屋敷」と呼ばれていた点です。この場合、両者のどちらが真に恐ろしいかはかなり難しいところでしょう。しかし、ここで二笑亭の方面の恐ろしさを突き詰めて語っていくと、「人間の心が一番怖いよね」という聞き飽きた方向に向かい、最終的に「真の心の闇を知っているのは俺だ」的な自分大好き人間のメンヘラ自慢大会を想像して吐き気をもよおすような最悪の事態になってしまいかねません。そうした汚れから身を清め、自称メンヘラの「凡人」たちに漏れなく引導を渡して真の闇と絶望に叩き落とすには、やはり現世を超越した超自然的存在にご登場願わねばならないのです。

 

 カビ臭い100年前の時代を眼前に現出させる素敵な作品『ウィンチェスターハウス』は、安易な血まみれサイコパス作品が幅を利かせる二十一世紀に生きる我々に、あらためて幽霊の素晴らしさを実感させてくれます。幽霊。それはまるで、気がつくと音もなく襖の横に立っており、戦時中に食べた脂の乗った芋虫の味を延々と孫に語り聞かせるおじいさんのようです。一刻も早く闇に葬ってしまうべき過去の遺物ながら、どうしても捨て去ることのできない魅力に満ち満ちているのです。

 

 一体、幽霊の魅力とは何でしょうか。一見時代遅れで古臭く思えるそれは、なぜ現代においても我々に底知れぬ興味と恐怖を提供してくれるのでしょうか。前置きが異常に長くなりましたが、ここからいよいよ今回の本題に入りましょう。

 

 幽霊について考えるとき、まず我々の頭に浮かぶのは、現世に生きる人間の能力をはるかに超越する、絶対的な「強者」のイメージです。そしてその強さは、大きく精神面と肉体面に分けられます。

 

 まず精神面について見ましょう。幽霊の一般的な特徴として、心理戦の超プロフェッショナルだという点が挙げられます。彼らは生身の人間の考えやチンケな計算などすべてお見通しであり、こちらの不安や恐怖心を弄ぶかのごとく、進路に先回りしてベロベロバーをしたり、シャワーの蛇口をひねると大量の髪の毛が流れるようセッティングしたり、朝起きると枕の位置を足元に移動させていたり、時には、それら全部が彼らの見せる幻影によるものだったという手品師顔負けの凄まじいオチまで用意していたりします。私たち人間はそうした状況下において、なすすべもなく体を震わせるか弱い野うさぎのような存在でしかありません。幽霊というのは、心理的に人間を完全に支配する存在なのです。

 幽霊の多くは非常に頭がいいのですが、その頭の良さは、必ずしも生前の彼らの頭脳レベルに比例するわけではありません。少し個人的な例を出しましょう。今から数年前、私のじいさんの七回忌の日、家族一同で寺に行った後で帰宅すると、浴槽いっぱいに温かい湯が張られていたことがありました。我が家の風呂はボタンを押すと自動で給湯してくれるシステムなのですが、家族の誰もボタンを押した記憶が全くないのです。だからごく自然に「あの世から戻ってきたじいさんが風呂に入って行ったんだね」ということで落ち着きました。しかしこれは驚くべきことです。最終学歴・尋常小学校卒業、自営業者にもかかわらず生涯通して帳簿のつけ方を理解せず、スーパーマリオをやらせるとジャンプの仕方が覚えられずに毎回5秒でクリボーに特攻をかけて命を散らしていたじいさんが、いつの間に、家族が出かけた隙を見計らって全自動給湯器のボタンをさりげなく押すなどという超高等テクニックを身につけたのでしょうか。「居士」の称号は彼にそれほどのパワーを付与したのでしょうか。しかし合理的な説明が一切不可能である以上、私はあの時の風呂は、幽霊になったじいさんが密かに入れたものだと今でも確信しています。

 この例からもわかるように、人が死んで幽霊になると途端にその知的能力が大幅アップすることは、きちんと科学的に実証されております。その上で、今回の『ウィンチェスターハウス』を見てみましょう。登場する幽霊の多くは服装も粗末で、中には大量殺人鬼さえまじっており、とても生前教養があったようには思えません。しかしいったん死ぬるやいなや、途端にテッド・バンディもびっくりのインテリ知能犯へと変身し、ずらした鏡の位置を何度も元に戻す、相手が向こうを向いた隙に細い指を壁穴からそっと突き出すといった、非常にデリケートかつ痒いところに手が届く手法でじわじわ攻めてくるのです。南北戦争時代あたりの霊も多いということなので、おそらく生前は文盲だった者もいたことでしょうが、彼らはいつの間にジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュの芸術的怪談を理解できるまでに成長したのでしょうか。このように、幽霊というものは生前の性質からは考えられないほどの秀才ぞろいで、生身の人間にはとても太刀打ちできないほどの知能と心理的優位性を備えているということ。これがまず第一の精神面での強さです。

 続いて肉体面の強さについてですが、この点はほとんど説明の必要がないでしょう。何と言っても実体がないのです。生身の肉体を持つ生物なら、いくらボディビルダー並みに体を鍛えようとロケット砲一発で木っ端微塵に破壊できますが、実体がないものはどうしようもありません。平気で空を飛び、壁をすり抜け、テレポートする無敵の存在。物理的な喧嘩殺法で倒すことは到底不可能です。したがって、これに打ち勝つには、肉体以外の「心」の方面から攻めていくしかありません。

 しかし今まで見てきたことを思い出してください。そう、幽霊は肉体だけでなく、その精神においても非常に頑強なものを持っていました。つまり、内剛外剛の最強存在であるわけです。それでは、我々は一度幽霊につきまとわれたら最後、一生その恐怖から逃れ去ることができないのでしょうか……。

 

 ここで、われわれが幽霊に勝つために、注目すべき1つの特徴があります。それは幽霊が必ず持っている「過去性」です。まさにこれこそが、完全無欠な彼らの唯一の弱点といってもいいのです。幽霊は、生前の出来事や無残な死に方に対する何らかの未練があってこの世に姿を現すのですから、彼らの出てくる理由、つまり彼らの過去に関する秘密を暴いてうまく対処すれば、見事あの世に送り届けることが可能なわけですね。逆に言えば、それがわからない以上は、いくら塩を盛ろうがまじないを唱えようが根本的な解決にはなりません。

 この点において、幽霊物語というのは、本質的に「過去」というものが非常に大きな重要性を持ってくるわけです。私が幽霊譚を大好きなのも、主にこの部分に理由があります。あんなに強大で完全なる存在でも「過去」という一点を突くだけで、なすすべもなく脆くも崩れ去ってしまい、一瞬であの世へと強制送還されてしまうのです。

 

 「過去」とはそれほど恐ろしいものなのです。

 限りなく無敵を誇る幽霊たちの唯一のアキレス腱なのです。

 

 例えば私は、スプラッター映画の極北であるルチオ・フルチの『ビヨンド』を、「戦前の出来事に全残酷の起源がある」という一点において非常に愛していますが、それはいくら硫酸で顔が溶けようが木の杭が目玉を突き破ろうが、結局それらは「過去」という、はるか昔に起きた、ある1つの事象の影響下にあるに過ぎず、度を越した超残酷現象さえ支配下に置いてしまうドロドロ因果の底力を、腹の底から実感させてくれるからなのです。

 

 このように、私が「過去」というものに異常にこだわり、それを偏執的に愛する理由。それは、育った環境の影響がとても大きいのです。私が育ったのは、毎日時が止まったかのように静まりかえった山奥の限界集落。そんな場所では、目の前の景色や、道を歩く人物だけをそのままぼんやり眺めていたのでは、平凡すぎる毎日に気が狂ってしまいます。それらの光景の奥に潜む歴史性、村で昔起きた出来事、今は腰が曲がった村のじいさんたちが歩んできた人生を考え、凡庸な毎日に無理やり奥深さを読み取り、日常を強引にねじ曲げて異化させることで正気を保つ術を、幼い頃から本能的に身につけてきたのです。そしていつしか、そうやって数々の事物に付随する過去性を粘着質に掘り起こしていくことに、たまらなく快感を感じるようになっていきました。以前、後輩の家で『メリー・ポピンズ』というミュージカル映画を見た際、「今画面に出てきた犬はもうとっくに死んでるんだね」「このお姉さんも今は80くらいになってるんだね」と延々つぶやき続ける私に対して、「あんたの映画の見方はおかしい」とはっきり言われたことがありますが、私はそういうことを考え、時の流れから生じるたまらなく不思議な感覚に思いをはせるのが、この世で何より楽しいのです。だから怪奇譚においても濃厚な過去性の存在を強く求めますし、単に「目の前で起こること」だけに重きを置いた種類の怪奇は、個人的に物足りない。

 

 そういう点から『ウィンチェスターハウス』は、かなり私の理想に近い映画でした。幽霊という過去性そのままの存在を主題に据えている上に、舞台自体も100年前。まさに、過去、過去、過去のオンパレード!! 思わず身悶えしてしまいます。ちなみに幽霊の持つ過去性といっても、ひたすら古ければいいというものではなく、現代に生きる自分たちと感覚的に通じ合うものがなければ、話に深みも出ないし怖くもありません。縄文時代や弥生時代の幽霊が出てきて岩や石槍で攻撃してくれば、たしかに怖いでしょうが、それは別に幽霊が怖いのではなく、ライオンやクマが怖いのと同じ種類の怖さです。映画や小説に出てくる幽霊が、いくら古くてもエジプト文明あたりまでの過去性しか持たないのは、大体その辺が自分たちと感覚が通じ合う限界の過去だと、我々全体に無意識の共通認識があるからでしょう。私個人は明治~戦前頃までの過去が一番好きで、それはこの時代になると当時の人々の「顔写真」というものが残っており、じっと眺めることで一層深い共感が湧いてきて、物語に実感が湧きやすいからでもあります。そういう意味でもこの『ウィンチェスターハウス』、時代設定の点でも絶妙で、自分の好みにとても合っていました。

 ただ、別に過去の物語などに興味がない、新鮮で刺激的な恐怖を求める人々からすると、かなり地味な映画であることも確かでしょう。本当に気持ち悪い幽霊というのは、過去と過去が迷路のように入り組み、複雑に絡み合ってどこまで遡れば始まりがあるのか見当もつかず、恨みの心が何重にもこぶ結びで結ばれて最初から解きほぐしを諦めざるを得ない絶望感を生じさせるものだと思いますが(M・R・ジェイムズの怪談に出てくる幽霊は大部分がこのタイプ)、この映画の幽霊は出てくる理由もかなりはっきりしており、その恨みの深さも、ラストで一抹の不安を感じさせるとはいえ、底が知れています。未亡人の心の闇と本物の幽霊の恐怖をダブルで追求したような贅沢なやり方もそれほど印象に残らず、やはり濃厚なゴシック的空気だけが強く記憶に残りました。つまり、あまり刺激的なタイプの恐怖を提供する映画ではないのです。数年後には、実在の幽霊屋敷を舞台にした変わり種怪奇映画として、一部の好事家から愛され続けるだけの運命を辿るかもしれません。

 それでも、自身の幼少期の体験まで思い出させ、過去性の重要度についてあれこれ考察させ、自らの怪談的こだわりを細かく再確認させてくれたこの作品。映画を語るふりをしながら、その実私自身の心の内側を延々語り続けるだけの不気味な長文原稿を深夜に書かせ、胸の奥に潜む自己愛をあらためて露呈させてくれた、愛憎入り混じる「トラウマ作品」として私の心には永久に残ることでしょう。

 

 結局この『ウィンチェスターハウス』をお気に召すかどうかは、出来立てのカレーが好きか、一晩寝かせたカレーが好きかということになるのかもしれません。作ったばかりのカレーは舌に熱く、スパイスの香りも辛さも強烈で、刺激性において作り置きのものよりはるかに勝ります。しかし一晩寝かせたカレーの、あの濃厚なコク、溶けた具材と鍋底の焦げた塊が渾然一体にドロドロと混じり合う、沼のごとく濁りきった得体の知れなさ。その変わり果てた姿を見る時、我々は、かつてまな板の上で瑞々しく光を放っていた若き日の野菜たちとの落差に思いを馳せ、そこに時間の不思議と汲めども尽きぬ無限の「過去性」を延々と読み取るのです。

 

 私は一体何を書いているのでしょうか。

 もう脳も限界を超えました。

 

 とにかく、この映画を見た後であなた自身が心に抱く感想は、あなたが血しぶきと内臓飛び散る残酷好きの出来立てカレー派か、因果ドロドロ湿り気たっぷり怪談好きの一晩寝かせたカレー派か、どちらのタイプに属するかを見分ける一つの試金石になるでしょう。最近では、一晩寝かせたカレーには菌が湧くとの話が広まった結果、カレーの作り置きは敬遠される傾向にあるようですが、過去と怨念の底無し沼に「菌」まで加わるならば、まさに鬼に金棒。歴史の闇を執拗にネチネチと掘り返す、暗く後ろ向きな因果物怪談を何より愛する私としても、カビと埃の香り漂う怪談映画の良作として、やっぱりこの作品は怪奇党の面々に強く推薦する次第なのであります。

 

 

 とまあ、わけもわからないまま最後まで一気に書き進んできましたが……。

 

 

計画性ゼロなのに

肥大した自己愛の香りだけは濃厚に漂う

この文章自体の気持ち悪さが、

一切の設計図を持たずに無言で増殖を繰り返した

ウィンチェスターハウスのそれに匹敵することを

心から願いつつ筆を擱かせていただきます。