2024年5月21日(火)

 

私自身で、常に心得ていることの一つに、

 

人のことを決して、〇〇人として分けないようにしています。

 

例えば“日本人”の表現についての私の考え方は、

 

用いる側が自身の基準で相手を都合よく差別するため

 

です。結局は、その基準が人種だったり国籍だったり、果ては単純に見た目で決めているに過ぎなかったりと、用いる側の基準が極めてあいまいなことは私が見て、聞いて、読む限りほとんどです。

 

人種を基準にすれば、例えば1980年代に盛んに取り上げられていた、中国残留日本人孤児のニュースで出ていた方々。長年の生活で言語も中国語で見た目まで同化しているように見えてて、それでも人種的には日本人と解釈すべきですが、見た目ではまず、中国のそれと変わらないのでそうは思わなかったでしょうし、国籍を基準にすれば、もっとも分かりやすいケースは相撲の親方で、日本国籍を取って日本人と解釈すべきなのに、そう考えない人々が多数です。

 

隣国から先の大戦などで強制的に日本に住んでいる外国籍の方に対して、だったら帰化すればと軽く言う人たちは、例え帰化したとしても次は人種面を盾にして差別し続ける人が多いのが現状です。国籍を取ったところで15円50銭(福田村事件)は直せません。

 

沖縄(琉球)に関しても、日本として歴史を語れるのはあくまで150年ほどに過ぎず、更に戦後は占領下で違う時期もありましたから、軽視されていく状況についてもある意味、通じると思います。

 

都合よく差別していくことにお墨付きを与えるようなニュースがこの日、立て続けにあったので、

 

 

 

正直、未来が恐いです。

 

権力側の牙は、やがて都合の悪い人々すべてに対して襲ってきます。決して、他人事とは思えないのです。

 

最後に、娘が中学の頃にある高校の説明会で印象に残ったことを綴って締めたいと思います。

 

海外からの留学生を多く受ける私立高校の説明で、説明する高校の教師が、

 

“文化交流のために外国人を多く受け入れいている”と言った後にその高校で主任と思える教師が、

 

”外国人と言ういい方は、しない方が良い”

 

と指摘していたことです。その後にその高校が留学生に対しての接し方についてとても安心感あると思えたのは私だけだっただろうかと考えました。

 

こうした考えが、これから先は広がって欲しいです。