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 MotheR

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 美樹の発する和かい鼻歌を耳を澄ませて聞くのが、最近ついた癖だ。もうどのくらいこうして美樹の傍にくっ付いているのか分からないが、元々暇潰しに始めたことがいつの間にか習慣化して、今ではすっかりはまってしまっている。
 邪魔になる食材の焼成音を避けながら必要な音を聞き取るのは、なかなか集中力が要った。それはバスケットボールの試合中に足音を聞き分けるそれに少し似ていて、知らない曲ばかりでも別に構わないから何か音を聞いていたかった。五感を集中させるのは、疲労を伴う反面、渚にとっては得も言われぬ気持ち良さがあるものだった。そんなことに気付いたのもまた、ここ数日間の内だ。
 調理場を挟んで美樹の前に座り、オルゴールの様な彼女の声を聞き取る。ゆっくり穏やかで、かつ、芯のある声。思わず世界に入り込んでいたことに気付き、渚ははっとして顔を上げた。
 「そういや美樹さん。俺、そろそろ学校行かなきゃ、単位やばいんだけど」
 「そうねぇ。渚くん、成績が芳しくないものねぇ。ふふっ。全部が終わったら自由にしてあげるから、それ迄教科書使って勉強なさいよ…あ、テーブルは汚さないでね」
 昼食の炒飯を炒めつつ、本気で考える気があるのかどうか判らないような軽い笑声を上げながら美樹が言う。それがいつのことになるのかと訊ねても、もうすぐだという曖昧な返答しか返って来ない。ただ、ここ最近の彼女は切迫した姿を見せることなく何時も通り穏やかで、むしろ嬉しそうに見えた。自然と鼻歌も心地よい音を弾ませる。
 「それ、何て曲?好きかも」
 「渋いのねぇ。むかぁし昔の洋楽よ~。私がまだ渚くんより小さかった頃だわ」
 「洋楽か。じゃ、聴いても意味分かんねぇなぁ」
 「あら、英語は高校でやってるでしょう。高校英語に比べたら、日常会話なんて可愛いもんじゃない。それに、渚くんがやってたのは何語だったかしら……フランス語?」
 「あー…懐かしい話引っ張り出すね。むかぁし昔のことじゃん。もう忘れたよ」
 渚が苦笑する。

 昔、渚が小学四年の時だったか。明の趣味で半ば強制的にフランス語を習得しようとした時期があった。幼少期から外国語を聞き、英才教育を受けながら育った一流に比べると、当然ながらその才は見るからに劣り、悔しいからという理由であっという間に止めてしまったが。あの頃の名残で今も読み聞きするくらいならやれるだろうが、美樹が言うほどは出来ない。あの時、もう少しだけ辛抱していたなら、英語という教科に今程苦しめられることは無かったのだろうか。懐かしい様な胡麻油の匂いを嗅ぎながら、そんなことを思った。

 「美樹さんはどのくらい喋れんの?」
 こんなにゆるやかな彼女でも歴としたカルトのメンバーだ。きっと、日本語だけではやっていけないだろう。
 美樹はフライパンを揺する手を止め、指を折って数え始めた。
 「五、六……日本語も入れて七ヶ国語くらいかしら」
 どれも使い熟せはしないんだけどね、と付け加えて笑うと、再びフライパンを持つ手に力を入れる。
 「それにしたって子供ん頃からやってたわけじゃないんでしょ?飲み込みいいよなぁ。俺なんか、国語すらまともに出来ないよ。高一にして、物分かりが悪いのなんの」
 「私も学生時代は文系科目、ダメダメだったのよ?葉流さんと流さんの教え方が上手だから、ここ数年で記憶力が上がった気がするわ。ふふっ。私達は何でもあの二人の仕込みね」
 口に手を当て目を細める美樹。もしも大和撫子を決める大会が催される日が来るなら、自信を持って彼女を推したい、そう思わせる優美な動きだ。
 「達って————うちの親?」
 自分の母親が彼女よりずっと若い一流の両親から教えを受ける姿を想像する。何故かランドセルを背負ったその立ち姿が、奇妙過ぎて吹き出す。美樹は一瞬不思議そうな顔をしたが、追及することも咎めることもしなかった。
 「まぁそんな所。意外?」
 「や、意外っていうか、想像つかない。だって、言っちゃ悪いけど葉流さん達って頭良いイメージないし」
 「あらあら~。そんな事言ってたら拳が飛んでくるわよぉ。確かに、勉強が好きな人たちではないけど。ふふっ。だけどやれば何でも出来るわね。羨ましい。私の料理でも、味付けは葉流さん好みだし。あの人舌が肥えてるから味にはうるさいのよ、知ってた?」
 中の米粒が踊る。当然ながら母親の作るそれよりずっと美味しそうで、匂いは食欲をそそった。
 美樹はそれを皿に盛りながら、愛しい者を見るような表情をする。
 「普段自分が食べるものには文句を言ったりしないのにね。人に食べさせるなら、まともなものを作れって、無理矢理味付け変えさせられたの。初めはちょっと気に入らなかったけど、葉流さんの料理、美味しいでしょう」
 皿に乗せられた炒飯を見ながら、渚は納得した。
 「うん。確かに美味い。俺もちっさい頃はよく食べに行ってた。そっかぁ。それで美樹さんのご飯って懐かしい味がすんだ。葉流さんが作るやつに似てるから」
 「明も、同じ味のはずよ」
 「…へぇ—————」
 母親が台所に立ちフライパンを振るう姿。残念ながら、それを想像するのはランドセルを背負った四十のオバサンを想像するよりずっと難しかった。
 「分かんねぇや。うちの親、ほとんど帰ってこなかったし。母さんが辛党だってことは一応知ってたけど、『料理出来たんだ』って感じ」
 渚の言葉に驚いたのか、美樹の動きが数秒間に渡り静止した。首をかしげ、「辛党?」と呟き、そのうち吹き出して笑い始める。なるほどね、と、眉を下げた彼女はとても嬉しそうに笑った。
 「辛党、ね、ふふっ。確かにそう、明のパスタは辛口すぎるくらいだわ———じゃあ、明より満流の方が料理は上手いかしら」
 美樹の料理で育った満流は忠実に、時には彼女以上に葉流の味を再現すると言う。だから何か起こったとしても、自分は心置きなくこの店を任せて去ることが出来るのだと、柔い笑みが言った。
 「ねぇ渚くん、もしその“何か起こった時”が来たら、あなたたちにあの二人のことを頼んでもいいかしら」
 出来たての料理から立ち上る湯気のせいだろうか、その笑みが今にも霞のように消えてしまいそうで、儚い。
 「美樹さん、居なくなんの?」
 「なるつもりはないわよ。勝手に殺さないでくださる?ふふふっ」
 「じゃ、頼む必要ないじゃん。やめたほうがいいよ、俺等ほどいい加減な奴ら、なかなかいないよ」
 「だけど、いつ何が起こるかなんて分からないでしょう?起きてからじゃ遅いもの。不安ではあるけど、今は渚くん以外に頼れる人が居ないしね、不本意だけど」
 「所々で言葉が突き刺さるんだけど、二言三言、余計じゃない?」
 苦笑しながら熱々の炒飯を口に入れた。


 そしてその夜、彼女は消えたのだ。
 玄関には『真に勝手ながら、私事により本日を以て閉店させていただきます。長い間の御愛顧、ありがとうございました』の貼り紙だ。日付は数日前。筆ペンで書かれたその文字は、思った以上に力強く達筆だった。店内は今までと何ら変わりないのに、人ひとりがそこから消えることで、通りから人の気配がすっかり薄れてしまった。
 ぽつん、と額に落ちる冷たい雨粒。空を仰げば、急に勢いを増した豪雨が渚の全身を突き刺すように攻める。
 「どうすんだよ、これ」
 店の中に戻り、カウンター席、いつも美樹が立っていた場所の目の前の特等席に伏せ、濡れた体もそのままに考える。
 理由も何も告げないまま消えた彼女。暖かかった家庭的な空間は姿を消し、奇麗でも汚くもない箱の中は、ただの悲しい侘び住まいとなってしまった。隅の机にただ、一枚のレコードと冷めて美味しくなくなった激辛スパゲティを残して。
 木造の古ぼけたテーブルの上に、無機質な個体。その記憶はかなり古いもので、そう、あれはまだ、満流がいた頃だ。家を空けがちな母親が作り置いていた夕食。レパートリーは少ない、冷めていて美味しくない、向かいの家の品行の悪い母親に比べ下手くそで、辛いばかりの、味らしい味がしない物体————辛党の明が作るそれは、明らかに他人に食べさせる気がなかった。幼い頃の渚はそれを、意地になって食べたものだ。
 「辛……」
 髪から滴る雨か、それとも何か?徐々に塩っぽさを増す麺。古ぼけた机上に居座る場違いなスパゲティは、涙が出るほど“おふくろの味”だった。
 「美樹さん、一体俺に、どうして欲しいんだよ。レコードなんか持ってねえし。本当に居なくなんなっての」
 気付けば、雨は窓を割りそうなほど土砂降りになっていた。