*~*~~*~*~*~~*~*
【SpecialtY】
*~*~~*~*~*~~*~*
きゃあきゃあ、わあぁ、来んなよ…———
色とりどりに響く声。スリルを楽しむ者達が果敢にも鬼へ勝負を挑み、そして破れていく。
当然。一万円ずつだなんて大金、そう簡単に渡してなるもんですか。
彼らから逃げ切れるのは精々五、六人だろう。体育科の先生に頼み込み、生徒全員のスポーツテストの結果を貰った。何日も成績や経歴と睨めっこをして、選び抜かれたのが彼らなのだ。
北の山の梺、背が高い叢の影に隠れて槙はため息を吐く。
“あいつ”もうっかり捕まってくれないかな。あんまりうろうろされたくないんだけど。
「もっと効率のいい隠れ方、ないわけ?」
「げ、出た。」
叢を掻き分け槙を見つけたのは他でもない。つい今し方『捕まってほしい』と思っていたところだ。
「煩いわね、春野。私は逃げ切る必要ないんだから、別にいいの。」
「冒険心の無い奴。ホント似ないよね、アンタとミキさん。本当に親子?」
効率悪い隠れ方だと言っておきながら、春野が隣に腰を下ろす。嫌味な女、そう言って槙は寝転んだ。服が汚れるだろう。虫もいそうだ。何より、草が倒れて見つかりやすい。そんなことを考えながらも動く気が失せた。
「親子なのよ、それが。残念ながらね。あたしはお母さんみたいになれないだろうけど。」
「ミキさんは特別だよ。みんなの癒しだからね、あの人は。」
「そう、女神よ、私のお母さんは。女神だけど、女神……だけど………」
母親を思うと、涙が出る。槙にとって、唯一残された血縁。優しくて強い、何が起きても穏やかに笑う。決して乱れることの無い温厚な性格。
「どうしてお母さんなんだろう。」
優しい母親が好きだ。いつも明るく照らしてくれる、そんな母親が槙は好きなのだ。
しかし、人間は時に牙を剥く。それが普段怒らない人であればあるほど、見た者の心を深く抉るのだ。当然、彼女も例外ではない。
『こうちゃん。おとうさん、もういなくてもいいかな?』
冷たい指先の感触を、今でも鮮明に思い出せる。
小学五年生の冬、槙の世界から父親が消えた。真っ赤なマフラーと黒いコートに身を包んだまま、世界の中心にいたはずの彼は消えたのだ。不思議なことにも、その時のことでよりはっきりと記憶に残っているのは、悲しみや寂しさでも、家を出ていく父親の背中でもない。見たこともない母親の顔———冷たく、感情のない空虚な笑顔———人間らしい意志を持たない人形。
『いなくても、いいかな?』
手先の凍る、寒い冬。
あんな母親は知りたくなかった。
「不思議だね。ミキさんは、「満流」も「満流の母親」も知ってるのに、引き合わせようとしなかった。そのことに疑問を持つ人間が、一人もいない。流石プロだ、とでも言うべき?」
春野の髪が風でなびく。鬱陶しそうにそれを親指と人差し指の間で拘え、耳の後ろに掛ける。隠されていたピアスが、異常なほど存在を主張し始める。
まるで、そこに魂が宿っているかの如く。
「嫌な言い方しないで。何を言われたか知らないけどね、思うようになんてさせない。私たちの未来は、自分たちで切り開く。私は春野、あんたが嫌いだよ。」
「そりゃどーも。その方が好かれるより断然気が楽だよ。でも…」
ふと立ち上がった。髪を揺らしながら、寝転ぶ槙を見下げる。
「いつまで保つのかね。アンタのその強気。」
「……いつまででも保たせるわ。終わりの日が来るその時まで。」
春野には秘密がある。槙にも、槙の母親にも、満流にも満流の両親にも。秘密と忌まわしい過去が自身を苛み、闇へ闇へと引き込んで行く。決して人には言えない秘密。それが例え、双子の兄だろうが、実の息子だろうが、再従兄弟であろうが、証すことなど出来るはずもなかった。
この因縁、晴らすまでは。言えない。出来ることならそう、知らないままに、全てを終えます様に……
いつかの記憶が蘇る———
あれはそう、八年前の、夏。たった八つの時だ。
私は初めて彼女の“それ”を見た。
『今日くる“おきゃくさん”ってダレ?』
一歩屋外に出たが最後、灼熱地獄とも呼べる暑さに襲われる……気がする槙は、夏の休日をいつも家で過ごす。自分の部屋で漫画を読んだり、テレビを見ながら時間を潰す。
この日も同じで、一日中だらだらと二階の自室で録画していたDVDを見る予定だった。朝方、『今晩お客さんが来るからそのつもりでいてね。』と声を掛けられる前までは。
母親が出した甘やかしのアイスを口に運び、バニラの味が口一杯に広がるのを感じる。
『コーちゃんの新しいお友達。あきらちゃんって、覚えてる?』
あきらちゃん。母親の従妹。天然で気のいいおばちゃん。若くないけど、おばちゃんって呼ぶと怒る、あきらちゃん。母親ととても仲が良く、二人は度々会っている。自分も数回会わせてもらった。確か、同じ歳の娘だか息子だかがいたはず。
ああ、あの人。
名前と顔が一致したところで、『おぼえてるよ』と首をかしげた。あきらちゃんが来るのか。しかし、それにしては変。あまり嬉しそうではない。
『あきらちゃんの、お友達の、娘さん。『ミチルちゃん』って言うんだけど、その子が来るの。』
『あきらちゃんの、ともだちの、むすめ?だけ?なんで?』
『お母さんは来れないんだって。だからコーちゃん、仲良くしてあげてね。』
『そりゃあ、もちろんするよ。』
もちろん。あきらちゃんはいい人だ。きっと、周りの人も優しくて面白い人ばかりだろう。その人の子ども。絶対とは言いきれないけど、いい子な気がする。
洗濯物や汗の匂いのする、素朴で快活な女の子を想像した。
笑い話やテンションについていくための心の準備。あきらちゃんの友達は皆、テンションが高いと聞いた。実際に彼女自身、話し始めると止まらなくなる。
しばらくすると、チリンチリン、という来客を表す鈴の音と共に店のドアが開いた。そとの“モワッ”とした空気が店内に流れ込み、またすぐに冷やされていく。
先に入って来たのは店にもよく来る、見た目に似合わずいつもデザートのアイスを欠かさない甘党のおじさん。その後ろに手を引かれて、ミチルちゃんは立っていた。俯いて、何も考える気がないような様子で。下を向いているし、男の陰に隠れているので顔は見えないが、恐らく背丈は槙と変わらない。
『こんにちは、ミキさん、槙さん。夜遅くにすみません。』
仕事着なのだろうか、黒いスーツは見ているだけで暑苦しい。その暑苦しさに拍車を掛ける彼の堅い喋り方。彼は少女の手を引き自分の前へ出すと、顔を上げるよう促した。
『みちる、です。こおう、みちる。』
人間に必要な一切のものが抜け落ちた、ロボットの様な歯切れの悪い声に、槙は何も答えられなかった。喜怒哀楽。誰もが持っていると思っていた。今、自分の目の前に立っているこの女は、抜け殻でしかない。
作り物の様な、愛らしい顔立ち、細長い手足…——そのどこにも力はなく、突けばそのまま倒れてしまいそうだ。怖い。怖い。友達になるだなんて到底無理だと思う。
その夜一晩中、男に残されていった“みちる”は店の椅子に腰掛けたまま、夜食に手を着けることもなくひたすら空を見つめていた。
『何でたべないの?』
『………。』
『何見てんの?』
『………。』
『何しにきたの?』
『………。』
まだ微かな光も見えない真夜中、トイレに起きた槙が勇気を出して声を掛けた。黙ってそこに座っていられても、何だか気味が悪い。
しかし“みちる”は何も答えなかった。
『なんかはらたつよ、みちる。』
腹が立つ。声を掛けても何の反応も見せない態度も、何もしないくせに家に居座り続ける図々しさも。そして何より苛立つのは、大好きな母親の料理に手を着けないことだ。
もう知らない。“みちる”を置いて、再び階段を上る。
知らないよ、あんな子。うえ死んじゃえ。
朝、つい数時間前に“みちる”があったその場所には、湿った空気だけが座をついていた。———ごちそうさまでした、お気持ちだけいただきます———拙くとも丁寧な文字でそう書かれた紙ナプキンが、空いてもいないお皿の下に敷いてある。
『お母さん!お母さんっ!!“みちる”がいない!』
なぜ?どうして“みちる”は口をつけてもいないのに『ごちそうさま』と言い、何も喋らないまま消えた?
買い出しから戻ってきた母親にしがみ付く。“みちる”が消えた。私があんなことを願ったばっかりに。本当に死んでたらどうしよう、私のせいで!“みちる”が消えちゃったよ!泣き出す娘に向かい、いつもの優しい笑顔と温度が槙を包み込んだ。
『大丈夫。あの子はしっかりしてるから。あの子は、スゴい人たちの、スゴい娘なの。だから大丈夫。今は落ち込んでいるけど、すぐに良くなるわ。だからね、コーちゃん。仲良くしてあげて。コーちゃんがお友達一号になって、支えてあげて。今の寂しさを越えられるように、こっちの生活が楽しくなるように、一緒にいてあげて欲しいの。コーちゃんはこの街の楽しみ方を、よぉく知っているでしょう?』
『“みちる”はどうしてここへ来たの?ずっといるの?お父さんやお母さんは?』
『満流ちゃんは、養女に出されたの。訳あってご両親の手で育てて上げることが出来ないから、小桜さんに託したの。』
ヨウジョ。幼い耳には聞き慣れない言葉だ。ヨウジョに出されると、両親と離ればなれにならなければならないのか。会うことは許されないのか。
『でも、あきらちゃんの友だちなんでしょ?だったら、いつでも会える…——』
『会えないの。』
槙の言葉を遮り、母親は静かに言った。今はまだ、会えないの…———
何故だかは分からない。しかし、幼心にもそれ以上踏み入ることを許されていないことを感じ取り、口を接ぐんで質問をやめた。
『みちる…満流……お母さん私、満流をさがして来る!まだ近くにいるかもしれない。』
急いで二階へあがり、箪笥の中からなるべく動き易そうな洋服を選んで引っ張り出す。午前中とはいえ外は暑いだろうから、帽子も忘れない。
数日ぶりの屋外は、エアコン無しの生活を考えることの出来ない現代っ子槙には、少々ばかり暑過ぎた。吹き出る汗がシャツを濡らした。
一時間、二時間と時が過ぎた。足も体力も限界を迎えた所、ふと思う。
私なら、どこに行く?
落ち込んで、辛くて、悲しい。あの子はスゴい人だから泣かなかったけど、きっとスゴく傷ついてる。だって家族に会えないんだから。私なら、スゴく辛い。スゴく辛いとき、私ならどこに行く?
友達の家。学校で嫌なことがあると、すぐに友達を頼った。
お婆ちゃんの家。お母さんやお父さんに対して気まずくなると、お婆ちゃんを頼る。
だが駄目だ。彼女にはまだ、この土地に友達と呼べる人間がいないし、身内がこの辺に住んでいる可能性も低い。それに、道も分からないはず。
ならば…
彼女はブランコに座っていた。道に迷ったのだろう。槙の家からそう離れてはいないが、人通りが少ない場所にある古くて小さい広場の、錆びたブランコ。そこで天を仰いでいた。
あれが、“絶望”の顔。涙も出ないほどの絶望、普通は通らないような道。否が応でも脳裏に焼き付く。
『満流…』
顎の角度を変え、彼女の瞳に自分の姿が映った。映る世界に光がある事を確かめる。随分回復したようだ。
『汚いソラやね。全然気分がはれへん。』
『……。こんなもんよ。なれちゃえば気にならない。』
『自分、汗だくやん。わざわざ探しに来たん?』
『だって、急にいなくなるから…』
『おおきに。こずえ。』
おおきに。ありがとう。
小学二年生に、一体何が分かっていただろう。
あの日から、満流の果てしない鬼ごっこが始まっていたのだ。追って追われて、逃げて逃げられ。槙も、そのことを知ったのはそれからずっと後。
鬼ごっこは満流の十八番。
彼女は負けない。そう信じてる。
【SpecialtY】
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きゃあきゃあ、わあぁ、来んなよ…———
色とりどりに響く声。スリルを楽しむ者達が果敢にも鬼へ勝負を挑み、そして破れていく。
当然。一万円ずつだなんて大金、そう簡単に渡してなるもんですか。
彼らから逃げ切れるのは精々五、六人だろう。体育科の先生に頼み込み、生徒全員のスポーツテストの結果を貰った。何日も成績や経歴と睨めっこをして、選び抜かれたのが彼らなのだ。
北の山の梺、背が高い叢の影に隠れて槙はため息を吐く。
“あいつ”もうっかり捕まってくれないかな。あんまりうろうろされたくないんだけど。
「もっと効率のいい隠れ方、ないわけ?」
「げ、出た。」
叢を掻き分け槙を見つけたのは他でもない。つい今し方『捕まってほしい』と思っていたところだ。
「煩いわね、春野。私は逃げ切る必要ないんだから、別にいいの。」
「冒険心の無い奴。ホント似ないよね、アンタとミキさん。本当に親子?」
効率悪い隠れ方だと言っておきながら、春野が隣に腰を下ろす。嫌味な女、そう言って槙は寝転んだ。服が汚れるだろう。虫もいそうだ。何より、草が倒れて見つかりやすい。そんなことを考えながらも動く気が失せた。
「親子なのよ、それが。残念ながらね。あたしはお母さんみたいになれないだろうけど。」
「ミキさんは特別だよ。みんなの癒しだからね、あの人は。」
「そう、女神よ、私のお母さんは。女神だけど、女神……だけど………」
母親を思うと、涙が出る。槙にとって、唯一残された血縁。優しくて強い、何が起きても穏やかに笑う。決して乱れることの無い温厚な性格。
「どうしてお母さんなんだろう。」
優しい母親が好きだ。いつも明るく照らしてくれる、そんな母親が槙は好きなのだ。
しかし、人間は時に牙を剥く。それが普段怒らない人であればあるほど、見た者の心を深く抉るのだ。当然、彼女も例外ではない。
『こうちゃん。おとうさん、もういなくてもいいかな?』
冷たい指先の感触を、今でも鮮明に思い出せる。
小学五年生の冬、槙の世界から父親が消えた。真っ赤なマフラーと黒いコートに身を包んだまま、世界の中心にいたはずの彼は消えたのだ。不思議なことにも、その時のことでよりはっきりと記憶に残っているのは、悲しみや寂しさでも、家を出ていく父親の背中でもない。見たこともない母親の顔———冷たく、感情のない空虚な笑顔———人間らしい意志を持たない人形。
『いなくても、いいかな?』
手先の凍る、寒い冬。
あんな母親は知りたくなかった。
「不思議だね。ミキさんは、「満流」も「満流の母親」も知ってるのに、引き合わせようとしなかった。そのことに疑問を持つ人間が、一人もいない。流石プロだ、とでも言うべき?」
春野の髪が風でなびく。鬱陶しそうにそれを親指と人差し指の間で拘え、耳の後ろに掛ける。隠されていたピアスが、異常なほど存在を主張し始める。
まるで、そこに魂が宿っているかの如く。
「嫌な言い方しないで。何を言われたか知らないけどね、思うようになんてさせない。私たちの未来は、自分たちで切り開く。私は春野、あんたが嫌いだよ。」
「そりゃどーも。その方が好かれるより断然気が楽だよ。でも…」
ふと立ち上がった。髪を揺らしながら、寝転ぶ槙を見下げる。
「いつまで保つのかね。アンタのその強気。」
「……いつまででも保たせるわ。終わりの日が来るその時まで。」
春野には秘密がある。槙にも、槙の母親にも、満流にも満流の両親にも。秘密と忌まわしい過去が自身を苛み、闇へ闇へと引き込んで行く。決して人には言えない秘密。それが例え、双子の兄だろうが、実の息子だろうが、再従兄弟であろうが、証すことなど出来るはずもなかった。
この因縁、晴らすまでは。言えない。出来ることならそう、知らないままに、全てを終えます様に……
いつかの記憶が蘇る———
あれはそう、八年前の、夏。たった八つの時だ。
私は初めて彼女の“それ”を見た。
『今日くる“おきゃくさん”ってダレ?』
一歩屋外に出たが最後、灼熱地獄とも呼べる暑さに襲われる……気がする槙は、夏の休日をいつも家で過ごす。自分の部屋で漫画を読んだり、テレビを見ながら時間を潰す。
この日も同じで、一日中だらだらと二階の自室で録画していたDVDを見る予定だった。朝方、『今晩お客さんが来るからそのつもりでいてね。』と声を掛けられる前までは。
母親が出した甘やかしのアイスを口に運び、バニラの味が口一杯に広がるのを感じる。
『コーちゃんの新しいお友達。あきらちゃんって、覚えてる?』
あきらちゃん。母親の従妹。天然で気のいいおばちゃん。若くないけど、おばちゃんって呼ぶと怒る、あきらちゃん。母親ととても仲が良く、二人は度々会っている。自分も数回会わせてもらった。確か、同じ歳の娘だか息子だかがいたはず。
ああ、あの人。
名前と顔が一致したところで、『おぼえてるよ』と首をかしげた。あきらちゃんが来るのか。しかし、それにしては変。あまり嬉しそうではない。
『あきらちゃんの、お友達の、娘さん。『ミチルちゃん』って言うんだけど、その子が来るの。』
『あきらちゃんの、ともだちの、むすめ?だけ?なんで?』
『お母さんは来れないんだって。だからコーちゃん、仲良くしてあげてね。』
『そりゃあ、もちろんするよ。』
もちろん。あきらちゃんはいい人だ。きっと、周りの人も優しくて面白い人ばかりだろう。その人の子ども。絶対とは言いきれないけど、いい子な気がする。
洗濯物や汗の匂いのする、素朴で快活な女の子を想像した。
笑い話やテンションについていくための心の準備。あきらちゃんの友達は皆、テンションが高いと聞いた。実際に彼女自身、話し始めると止まらなくなる。
しばらくすると、チリンチリン、という来客を表す鈴の音と共に店のドアが開いた。そとの“モワッ”とした空気が店内に流れ込み、またすぐに冷やされていく。
先に入って来たのは店にもよく来る、見た目に似合わずいつもデザートのアイスを欠かさない甘党のおじさん。その後ろに手を引かれて、ミチルちゃんは立っていた。俯いて、何も考える気がないような様子で。下を向いているし、男の陰に隠れているので顔は見えないが、恐らく背丈は槙と変わらない。
『こんにちは、ミキさん、槙さん。夜遅くにすみません。』
仕事着なのだろうか、黒いスーツは見ているだけで暑苦しい。その暑苦しさに拍車を掛ける彼の堅い喋り方。彼は少女の手を引き自分の前へ出すと、顔を上げるよう促した。
『みちる、です。こおう、みちる。』
人間に必要な一切のものが抜け落ちた、ロボットの様な歯切れの悪い声に、槙は何も答えられなかった。喜怒哀楽。誰もが持っていると思っていた。今、自分の目の前に立っているこの女は、抜け殻でしかない。
作り物の様な、愛らしい顔立ち、細長い手足…——そのどこにも力はなく、突けばそのまま倒れてしまいそうだ。怖い。怖い。友達になるだなんて到底無理だと思う。
その夜一晩中、男に残されていった“みちる”は店の椅子に腰掛けたまま、夜食に手を着けることもなくひたすら空を見つめていた。
『何でたべないの?』
『………。』
『何見てんの?』
『………。』
『何しにきたの?』
『………。』
まだ微かな光も見えない真夜中、トイレに起きた槙が勇気を出して声を掛けた。黙ってそこに座っていられても、何だか気味が悪い。
しかし“みちる”は何も答えなかった。
『なんかはらたつよ、みちる。』
腹が立つ。声を掛けても何の反応も見せない態度も、何もしないくせに家に居座り続ける図々しさも。そして何より苛立つのは、大好きな母親の料理に手を着けないことだ。
もう知らない。“みちる”を置いて、再び階段を上る。
知らないよ、あんな子。うえ死んじゃえ。
朝、つい数時間前に“みちる”があったその場所には、湿った空気だけが座をついていた。———ごちそうさまでした、お気持ちだけいただきます———拙くとも丁寧な文字でそう書かれた紙ナプキンが、空いてもいないお皿の下に敷いてある。
『お母さん!お母さんっ!!“みちる”がいない!』
なぜ?どうして“みちる”は口をつけてもいないのに『ごちそうさま』と言い、何も喋らないまま消えた?
買い出しから戻ってきた母親にしがみ付く。“みちる”が消えた。私があんなことを願ったばっかりに。本当に死んでたらどうしよう、私のせいで!“みちる”が消えちゃったよ!泣き出す娘に向かい、いつもの優しい笑顔と温度が槙を包み込んだ。
『大丈夫。あの子はしっかりしてるから。あの子は、スゴい人たちの、スゴい娘なの。だから大丈夫。今は落ち込んでいるけど、すぐに良くなるわ。だからね、コーちゃん。仲良くしてあげて。コーちゃんがお友達一号になって、支えてあげて。今の寂しさを越えられるように、こっちの生活が楽しくなるように、一緒にいてあげて欲しいの。コーちゃんはこの街の楽しみ方を、よぉく知っているでしょう?』
『“みちる”はどうしてここへ来たの?ずっといるの?お父さんやお母さんは?』
『満流ちゃんは、養女に出されたの。訳あってご両親の手で育てて上げることが出来ないから、小桜さんに託したの。』
ヨウジョ。幼い耳には聞き慣れない言葉だ。ヨウジョに出されると、両親と離ればなれにならなければならないのか。会うことは許されないのか。
『でも、あきらちゃんの友だちなんでしょ?だったら、いつでも会える…——』
『会えないの。』
槙の言葉を遮り、母親は静かに言った。今はまだ、会えないの…———
何故だかは分からない。しかし、幼心にもそれ以上踏み入ることを許されていないことを感じ取り、口を接ぐんで質問をやめた。
『みちる…満流……お母さん私、満流をさがして来る!まだ近くにいるかもしれない。』
急いで二階へあがり、箪笥の中からなるべく動き易そうな洋服を選んで引っ張り出す。午前中とはいえ外は暑いだろうから、帽子も忘れない。
数日ぶりの屋外は、エアコン無しの生活を考えることの出来ない現代っ子槙には、少々ばかり暑過ぎた。吹き出る汗がシャツを濡らした。
一時間、二時間と時が過ぎた。足も体力も限界を迎えた所、ふと思う。
私なら、どこに行く?
落ち込んで、辛くて、悲しい。あの子はスゴい人だから泣かなかったけど、きっとスゴく傷ついてる。だって家族に会えないんだから。私なら、スゴく辛い。スゴく辛いとき、私ならどこに行く?
友達の家。学校で嫌なことがあると、すぐに友達を頼った。
お婆ちゃんの家。お母さんやお父さんに対して気まずくなると、お婆ちゃんを頼る。
だが駄目だ。彼女にはまだ、この土地に友達と呼べる人間がいないし、身内がこの辺に住んでいる可能性も低い。それに、道も分からないはず。
ならば…
彼女はブランコに座っていた。道に迷ったのだろう。槙の家からそう離れてはいないが、人通りが少ない場所にある古くて小さい広場の、錆びたブランコ。そこで天を仰いでいた。
あれが、“絶望”の顔。涙も出ないほどの絶望、普通は通らないような道。否が応でも脳裏に焼き付く。
『満流…』
顎の角度を変え、彼女の瞳に自分の姿が映った。映る世界に光がある事を確かめる。随分回復したようだ。
『汚いソラやね。全然気分がはれへん。』
『……。こんなもんよ。なれちゃえば気にならない。』
『自分、汗だくやん。わざわざ探しに来たん?』
『だって、急にいなくなるから…』
『おおきに。こずえ。』
おおきに。ありがとう。
小学二年生に、一体何が分かっていただろう。
あの日から、満流の果てしない鬼ごっこが始まっていたのだ。追って追われて、逃げて逃げられ。槙も、そのことを知ったのはそれからずっと後。
鬼ごっこは満流の十八番。
彼女は負けない。そう信じてる。