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    “Run awaY”

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 あれは、凍えるような寒い冬。冷たい雪がちらつく一日の終わりだった。舞台はかつて少女が住み慣れていたはずの町。

 誰かと誰かが、声の限りに少女の名を呼んでいる。そんなこととは露知らず、一軒の民家の前で立ち尽す少女———少年はそれを目にした時、母親が今年も編みあげた、手作りにしては精度の高いマフラーに顔を埋めながら家路を辿る最中だった。
 『その家に用か?見かけへん顔やけど。』
 訝しげに少女の顔を覗き込む。顔立ちからして自分とあまり歳差がないことは分かるが、少女は子どもっぽさの抜けた落ち着きのある表情をしていた。『キレイなお家だなって、見てただけ。』作り物臭い笑顔で答える少女。
 『お前、名前は?』
 『メグム。』
 『ヘェ…オレ、守。』
 正直、名前なんてのはどうでも良く、友人の家の前で黙々と佇む女が名乗れるような人間かどうか、それが分かれば十分だった。少し前に通った公園で、五人くらいの大人が血相を変えてその名を呼んでいたのを思い出す。
 不振者であればこの家の親を呼ぼうと思ったが、そうでもなさそうだと分かり、後は何も言わずにその場を去ろうとした。その時メグムが守を呼び止める。さっきとは一変、振り返ったそこにあったのは、無垢な子どもの戲笑。
 『この辺案内してよ!あたし、今日一日ひまだし☆』
 『ウソ言え。さっき、お前の名前呼んでる大人、ぎょーさん居ったで。』
 『え~、うそぉ。もうバレてんのぉ?折角ゆっくり観光しよーと思ったのにぃ。せっかちなおじさんたちだなぁ。……ね、ねっ!まもる、かくまってよ。』
 口を尖らせてみせたと思えば、顔面に花をぱっと咲かせるメグム。口には出さないが、純粋に可愛いと思う。
 ついつい彼女の我が儘に乗ってしまった。
 『途中で見つかっても、知らへんぞ。』

 ニット帽を目深に被り、首から顎までをマフラーで覆わせる。薄着をしていたメグムに貸したお陰で、守はこの冬には厳しい格好になった。
 『あれ、守が女の子連れてる…お母さん!守がやっと目醒め———』
 『ふ、ざ、け、ん、な!!ちゃうわ、あほアキ。』
 顔を隠せど、スカートをはいている以上彼女を女だと判断するのは容易いこと。家を出ていこうとする二人とすれ違いに内に入っていく女子中学生が、軽やかなステップで台所へと走った。やがて奥の方から漏れてくる、きゃぴきゃぴとした空気。かわいらしい親子だ。守は緩んだ顔を背けて、『人懐っこい奴らやねん』と照れ臭そうに説明する。
 『ねえ、どこ行くの?』
 『学校。』
 愛想なく返す声に、メグムは一瞬ぎくりとする。
 『もう夕方だよ?何しに行くの?行かなきゃダメなの?』
 『サッカーすんの。クラブチームでやってんねん。』
 休んだらシバかれる。
 そう告げて、守が笑う。
 『二時間くらいで終わる。退屈やったら、戻って母さんの手伝い、八百屋なんやけど、しててもええで。』
 彼は小学校に着くと、冬だというのに防寒装備を外し、アンダーシャツの上にTシャツ一枚、ジャージも羽織らないという軽装でウォーミングアップを始めた。見ている方が寒くなる薄着。ちらつく雪をものともしない、サッカーに対する好奇心が伝わって来る。
 守が脱いだ防寒具を更に身につけ、グランドから少し離れた脱靴場の傘立てに腰掛ける。

 練習の見学は、一時間もしない内に飽きが来る。
 下駄箱の向こうに見える校舎への入り口は、四十分間で一度も開くことはなかった。彼の遊びが終わるまで、あと一時間二十分もある。その間にあの扉が開くことだけが怖かった。もしもこの学校の教師が出てきたら、もしもその人が、自分が消える前にもここで働いていたとしたら、きっと満流に気付くだろう。
 優しくされると、きっと向こうに帰れなくなる。ここにはもう自分の居場所などないと、ついさっき感じてきたばかりなのに。メグム、いや、満流にとって、それは未だ辛い現実だった。
 ふっ、と一瞬だけ風の当たり方が変わる。
 思わず、メグムは顔を伏せた。
 扉を開けたのは、幸い彼女の知る人ではなく、彼は顔の見えない小学生には大して気にもならない様子で通り過ぎて行く。『さようなら』と適当な挨拶。今から家路を辿る車の中で聞くつもりなのだろう、昔ながらのラジオが小さく鳴っている————…、トウキョウトニスムワカイダンセイガ…————
 ああ、またこの手のニュースか。
 彼はメグムが思っていたことと同じ内容の独り言を、嘆くように吐いて捨てた。

 『おまっ……マジで待ってたんか?』
 戻って来た守の頬は赤く染まり、まだ息も興奮も落ち着いていない。メグムはそこにあるタオルを投げ渡し、重ねたマフラーの下側でより温まった方を返した。
 『だって、これ返さなきゃだし。案内してもらいたいし……』
 『あー。守くん人待たせてるて、女やったんやぁ!何々~、俺にもショーカイしてぇな。見たことあらへん感じやけど…』
 彼女の言葉を遮ったのは、聞き覚えのある懐かしい声。下を向き、顔を隠そうとするメグムを見た守が『メグム。遠い親戚で、なんか突然来てん。』と適当な法螺を吐いた。声の主は、ふうん、と頷く。
 『へー。ほんなら俺、渚と大介くん待って帰るわ。』
 めぐむちゃん、楽しんでな。メグムが顔を上げたとき、彼は彼女に背を向け、丁度走りだす所だった。メグムと変わらないくらいか、少し低いくらいの身長、変声期前の嗄れた声。顔は見なくて正解だっただろう。
 背中を見つめる彼女に、守は苦笑気味に声を掛けた。
 『メグム、見る目ないなぁ。俺よかあいつのがダンゼンええ奴やで?』
 『いーの!あの時のあのタイミングであたしに話し掛けたのは、マモルなんだから。』
 振り向く笑顔が妙に切ない。どうするべきか迷い、結局何もすることなくただ隣を歩いた。
 まだ六時過ぎだが日は落ちている。辺りは真っ暗だ。街灯だけが少女にこの街の景色を見せた。
 大したものは何もない、何処にでもあるような一地区だが、夜景だけは他地域からも評判がいい。他に見せるようなものも思いつかず、結局人気スポットらしい場所に連れていくことにする。都合がいいのは、そこが自宅付近であるということ。
 『次からはちゃんと相手を選びや。』
 自分の家を通り過ぎ、坂を登って上へ上へと登る。振り向こうとしない背中に、照れという愛情を感じる。メグムはそれが可笑しくなり、笑いを堪えつつ返事を返す。
 『うん。次はもっとあったかそうな格好してる人に頼むよ。まもる、見てるだけでも寒い。』
 『てゆか、仕事はマジメにやれ。おじさんら、めちゃめちゃ困ってたやん。心配してるんとちゃう?』
 『いーんだよ☆お給料とかもらってないし!』
 『そういうんとちゃうやろ。』
 メグムは笑いながら、その通りだと自分でも思った。『もうしないよ、こんなこと。』静かにそう呟く。
 その時だった。



 いやあぁぁぁぁあッッッ!!!


 下の方から聞こえた悲鳴。随分近くで、澄んだ空気によく響いた。
 はっとして、急いで坂道を駆け下りる。嫌な予感で足が竦む守。その手を無理矢理引っ張り、メグムは全速力で駆けた。つい数時間前に聞いた声だ。明るく人懐っこい、小動物を思わせる彼の姉。確かに彼女の声だった。
 『照ッッ!!』
 “町の野菜屋さん”と書かれた看板の陰から、弟に名を呼ばれた姉、照(あき)がよろよろと出てきた。清潔にまとめられていた長い髪は乱れ、後ろ髪が前に垂れてきている。相当激しい動きをしていたことを物語る顔の脱力感。
 『ぁ……まも…る………』
 玉手箱に手を出した浦島のように、一気に老けた気がする。照はそのくらい弱っていた。
 『何やねんコ…———照?』
 守が何も言えなくなった原因は、深紅に染まった彼の左手。呼吸が止まる。時間も思考も、汗も全て静止した。
 『…げて…………と…さんが…は……の…』
 『アキ?』
 ずしん
 膝をついていた彼女の体が重みを増す。驚くほど一瞬の出来事、彼女の全身の筋肉から力が奪われたのだ。何が起こったのか全く検討もつかない守と、騒つく胸中、事情を察するメグム。
 照———っ!!
 いくら呼んでもその瞼に再び力が働くことはなく、彼が恐る恐る店の中を覗く。そして、数秒も経たない間に視線をそらす。店内から漏れている光が、急に憎らしく思えた。
 守の肩が緊張する。泣いていることは、すぐに分かった。GPS機能で捜されることを恐れて電源を切っていた携帯電話だが、警察を呼んだほうが良いだろう。両親は無事だろうか、状態次第では救急車も必要かもしれない。
 冷静にならなくては。メグムは、震える足を前に出した。
 『ああ守、やっと帰って来たのか。』
 守の後ろに立つメグムの、更に後ろから聞こえたやけに落ち着いたトーン。思考停止していた守の頭が作動する。
 『親父っ…………』
 振り返った先に待っていたのは、真っ赤に染まった彼の父親。うなだれた手に握られていたのは…。
 『親…父………?』
 『まもるっ!ぼさっとしないで、逃げるよ!』
 迷う暇などない。道を選ぶ時間など、何処にもない。彼の姉から生きる力を奪ったのは他でもない、彼の父親だったのだ。
 メグムが蛮声を上げる。
 『逃げるよ!あんたの父さん、正気の人間がする目ぇしてない!!』
 『でも…』
 『死んだらあかん!守は消えて無くならへんとあかんような、そんな人間ちゃうやん!このままやとあの人…——』
 メグム背後を、赤い影が覆う。全身の鳥肌を腕でさすり、守はガクガクの足で立ち上がった。迷う暇など、ないのだ。
 宛もないまま、ただひたすらに走り抜ける夜道。交番に駆け込むという思考は浮かばなかった。
 この道を曲がれば、何処へ出ただろう。あの角を入ると行き止まりで、向こうのトンネルを抜けたら————
 あやふやな思考回路で道を選ぶ。カサカサという布擦れの音と、慌ただしい足音、激しい息遣いが耳につく。どのくらい走っているのかなど分からず、目が回るほど同じような道を何度も通る。
 追っ手も負けじと、しつこく付いてきた。
 『ここまでだな!』
 遂に、目の前に高い壁が聳えた。ただの危険な大男と化した男の勝ち誇った表情が、切れかけの街灯の灯りに照らされて見える。こういう時の為に鍛えた武術も、使うに見合ったメンタルが無ければ無意味だ。メグムは自分の弱さを噛み締めた。
 そして、追い詰められて初めて気付く。“あの人”を呼べば良かった。どうせ家で暇を持て余しているあの二人、かつてメグムが愛して止まなかった、満流の両親。だが、もう遅い。
 その時目の前で起こった悲劇を、二人はたった十一、ニで脳裏に焼き付けることとなる。

 漸く事態に気付き、彼等に追い付いた警察、町の住人の見世物になりながら、取り押さえられても尚暴れ狂う男、警官たちが総動員しても、彼は手に握る凶器を放さなかった。やがて、野次馬たちが目を覆う。

 報道陣が駆け付けた時、其処は既に戦績となっていた。残るものは、倒れ項垂れた警官隊、自ら命を絶った、凶悪犯。そして、茫然として坐り込む子供。

 後日少年らに伝えられた真実。
 『彼は、世界中でも有名な大罪人でした。』

 いつる、久しぶりのココは、あんまり楽しめなかったよ。
 メグムは、あんな事があった直後に同じ地でカメラの前に立ち、笑っている自分におののいた。友達の両親が離婚した。仕事で訪れた古巣で、知り合った彼の家族の悲しい最期。笑っている場合ではないはずなのに。

 親父、俺どうしたらいい?
 表立った葬式は挙げず、灰となった父親の前に立つ。『いっそ死んでしまえば良かった。』そう洩らすと、例によって一流の母親に打たれた。
 『強うなれ、守。運命にも逆らえるくらい、現実に屈さずに済むくらい強うなれ。』
 辛い日々が始まる。

 二年後、墓石の前で手を合わせた守は家族にこう誓った。

 いつかは、俺がみんなを守ろうと思う。命を救ってくれた彼女と、あの後も親切にしてくれたみんなを。