▼▼▼▼▼▼

 Stand uP

▲▲▲▲▲▲

 「そのままゆっくり歩いてね」
 「右足、痛い」
 「あとちょっとだから頑張ろう?歩き続けて」

 わりかし学校に近い病院。
 小学校中学年くらいの女の子の隣に着く看護師は、明日も頑張ろうねと、甘やかすように優しく言った。その光景をぼんやり横目に見ながら真っ直ぐ廊下を進む。
 途中で別の看護師とすれ違い、目が合ったので軽く会釈する。病院内、特に今歩いている廊下は人通りが少なく、しんと静まり返っているため足音がやけに耳につく。すれ違った看護師と自分の足音のリズムの違いが気になり、思わず足元に力が入った。
 やがて看護師のそれは消え、一筋の廊下に残る自分の音。これはこれでまた気になる。足音を抑えながら歩く速度を上げた。ある扉の前で立ち止まり、周りで物音がしないことを確かめて開けた。

 「————高橋、くん?」
 「よっす」
 扉の開く音に反応した槙と目が合う。彼女は瞳を丸くし、数秒間は微動打にしなかった。
 苦笑すると、漸く口を開く槙。
 「ここ、面会謝絶になってなかった?というかそれより、どうしてここに?」
 「外国でも電話は通じんねんで。病院やいうことは聞いた。あとは勘で」
 「だけど————」
 「ここ、明さんの病院やもん。うちんち直系らしいし、“高橋の息子”が自由に行き来出来るんはしゃあないやろ」
 「そうじゃなくて、」
 「唯間」
 何かを言わんとする彼女の言葉を遮るように口を挟む。言わせてはならない、そんな気がしたのだ。
 「唯間。“此処”から出よう」
 室内は廊下ほどではないが静かで、あまり好きでない病院独特の臭いがはびこっている。
 乱されることなく整頓されたベッド、即席で置かれたような簡易な机には紙や写真が山のようにあり、その中央のパソコンにはスクリーンセーバが始動している。閉められたカーテンの隙間から、小さな光が漏れていた。
 この部屋が、どのような用途で使用されているのかが分かるようであまりいい気分はしない。
 槙の目が大きく見開かれ、そこから彼女が“逃げる”ということを本気で考えていなかったことが分かる。

 そして、かぶった帽子を脱ぐこともなく彼は言った。
 「足掻くんやろ?」
 じっと目を見る。目を合わせたまま槙がゆっくり頷くのを確認し、必要最低限の物だけを持つよう指示。
 「ねえ————」
 小さいカバンを肩に掛け、槙が振り向く。
 「ここ、監視カメラ付いてるから……多分全部見られてる」
 「構うか。此処でばれへんくたって、どうせすぐバレる。安心しろ。ちゃんと渚たちの処に連れてってやるさかい」
 「…うん」
 顔を正面に戻し、鞄のファスナーを閉じると準備完了。腹の辺りがキン、と痛む。
 いつもこうだ。
 槙は思う。色々と行動を起こしたがるくせに、いざ動こうとすると緊張する。肝が座り切らない、だから、何時も満流に置いていかれるんだ。
 もどかしくて仕方なかった。
 時間がない、槙がぼうっと立ちすくんでいると、彼が槙の手を掴む。
 走れるかと問われ、何とかと答える。震える手足を擦った。
 掴まれた手首から温もりを感じ、その強さでやっと震えが治まった。
 「大丈夫、走れる」
 「行くで」
 「———はい」
 短いやり取りの後、手を引かれてゆっくりとドアに近付く。
 槙が持ち手に手を掛けようとした瞬間、彼は踵を返して真っ直ぐ窓へと向かった。
 まさか?一階当たりの高さが低い建物とはいえこの部屋は二階で、病院の出口からも程遠いし、そこへ辿り着くには見晴らしのいい中庭を通らなければならない。無傷で出るのは不可能だ、というより寧ろその道を通るほうがリスクが大きい。彼は、何をしようというのか。
 「無茶———!」
 「嘗めんな。この高さならいける」
 「無事に出してもらえるとは思えません!」
 「中からでも同じだろ。人が居るから発砲はないし、相手と距離がとれる分こっちの方が楽だ。走るだけで、三十四十の中年相手に負けてたまるか」
 「有田先輩!」
 身体に力を入れるが時既に遅く、槙の身体は彼の腕に包まれたまま持ち上げられ、地面を失って宙に出た。
 足の裏がふわふわする。内臓が体内で持ち上がり、恐怖よりは吐き気が強く押し寄せる。当然だが、こんな感覚は初めてだった。
 間もなく足から響く様に伝う、激しい振動。幸い下は花壇となっており、切り傷は出来たが致命的な傷は負わずに済んだ。
 久々の外の世界、外の音。初めに飛び込んで来たのは、派手に音を鳴らしながら近づいて来るバイクのマフラー音。
 「大介!」
 彼が傷だらけになった右手をあげ、それを目指してバイクが猛スピードで寄ってくる。応える様に、大介は彼を呼ぶ。
 「守!」
 「学校でイツが待ってる」
 「ああ」
 「捕まんなよ」
 カラーコンタクトで目の色を変え、髪を金色に染めて一流に扮した守が言うと、大介はからかって笑った。
 「それは“どっち”に?」
 一瞬の沈黙。吹き出す守は、確かに一流と少し似ている。ぱっと見なら間違えるし、実際槙も初めは一流だと思ったのだ。
 「ばーか、“どっちにも”に決まってんだろ。ネズミ取りにかかるとか、論外」
 槙を押し出し、自分はその場に座り込んだ。
 「つーかお前な、メール見たんなら返信くらいしろよ。出口まで走るしかないかと思った」
 「悪ぃ悪ぃ」
 「早く行けよ。帰ったらぶん殴ってやるから」
 「————ああ」

 それが、彼らの美学だったのだろうか。
 大介は槙を後ろに乗せると振り替えることなく速度を上げたし、守は座り込んだままでただの一度も呼び止めたりしなかった。
 それが美学?だとしたら滑稽な話だ。彼らは、この世界を解っていない。二人がまた生きて再会できる可能性など限りなく零だ。守が罰せられるか、戒めに大介が殺されるか。カルトは裏切り者も、それを手助けする者も許さない。
 ここで別れを惜しまずして、どこで悔やむというのだ。
 風を切りながら、自分たちのしていることの愚かさを思った。
 「帰りましょう」
 吹き飛ばされそうで握っていた大介の服。それを引っ張り、出来るだけ大声で言う。こんなこと、無駄です。
 「今なら間に合うかもしれない」
 「ああん!?聞こえねえよ」
 「だからぁ!いまなら、まにあうからぁ!もどりましょうぅ!」
 「ああ!?」
 更に大きな声を出す。
 「だからぁぁっ!」
 言い掛けたところで、不意に風が止む。いつの間にか見慣れた風景のなかに居り、門の向こうからは見慣れた人。
 「唯間————大介くん」
 「高橋…くん———」
 今度は正真正銘本物。彼は弱り切った顔をし、今にも泣きだしそうな情けない目をした。
 「守くん、は?」
 「明さんに話を付けてフランス行くってよ。」
 「止めへんかったんか」
 「止めたらあいつは聞くのかよ」
 大介はそっぽを向いていた。一流がその正面に回り、訴えるように掴み掛かる。
 「それでも!それでも、止められるんは大介くんだけやったやろ!俺らが止めずに、誰が止めんねんっ!!」
 「じゃあお前に止められたか?!親も姉弟も失ったあいつが、やっと本気になったんだ。失う辛さなんか味わったことのない俺が止めたって、そんなの自己中で我が儘なっ————俺たちの願望でしかねえだろ」
 嫌なんだ。胸ぐらを掴まれ、対抗して言い返した大介。次には肩を落とす。
 「誰かを失って、死にそうな目で荒れてくあいつを見んのはもう、嫌なんだ」それが、彼の願い。それはとても切実で、先程の行動は苦渋の決断の上だったかもしれない。
 ふ、と一瞬だけ冷たい風が吹く。秋が近付いていた。槙の髪が揺れる。
 「そんなの……この世界を知らない人間の欺瞞です。あそこは、“不要なものは全て切り捨て”式なんですよ。反逆者、役立たず、邪魔になれば簡単に見捨てるし、外に情報を与えるくらいなら先に殺す。
 身分も全て関係ない——満流は、私が渚たちに一員であることがばれたことと、流さんに歯向かったことの制裁に、消えない傷を付けられました。幾つも、幾つも。
 分かりますか?あの場所に情は存在しない。有田先輩が戻って来る保証はどこにもないんです。
 万が一制裁を免れても、その先に待ってるのは別の闇ですよ。目の前で人が死ぬ。今まで悪事だと思っていた事が、平気で行われる。大切な人が人質にされ、秤にかけられる。
 それがどんなに辛いか———戻りましょう。今からでも急げば…」
 「やめてくれ」
 言い掛けた槙の口を抑え止めたのは、静かに目を伏せた一流だった。
 「唯間の言うてることは間違いちゃうやろうと思うし、理性的で正しいんやとも思う。でも、そんなこと、聞きたぁないねん。俺は、守くんに戻ってきてほしいけど、その代わりに唯間がまたあの場所に戻って行く所も見たぁない。
 折角守くんがくれたチャンスやん。唯間、物事は良い方に考えよう」
 一流の声は思うより冷静で、苛立ちや尖った心境を包み込むような優しさを孕んでいた。さっきまでの、先輩の胸ぐらを掴み罵声を浴びせていた鋭さや勢いが嘘のような穏やかさ。これには憶えがある。
 満流だ。満流は人格の切り替えが早く滑らかだ。理性が戻る時に、ある種感情を捨てていると言っても良いかもしれない。
 “良い方に考えよう”そう言った彼も彼女と同じく家族を失った身で、闇を持っているはず。槙にはその前向きさが理解出来なかった。
 「良い方に?」
 槙が首をかしげると、彼は俯いたまま続ける。
 「守くんは、必ず満流を連れて帰って来る。したら今度は、あいつらを潰す方法を本気で考えよう」
 「まずはそれまでの時間稼ぎ、か?」
 大介の言葉に一流が頷く。槙が語り掛けられたのだが、介入する間もなくずんずん話は進んでいった。
 「とりあえず単独行動は避けよう」
 「部活は?」
 「何か理由付けて長期休部、場合によっては学校もな」
 「乙さんも巻き込まへん?危ないから中身は話せへんけど、唯間だけ女の子や、色々不便かも」
 恐る恐る訊ねる一流。大介の顔色を伺う。案の定、大介は盛大に眉をしかめた。
 「乙は関係ないだろ。なんかあったらどうすんだよ」
 「多分守くんに深く関わる人間はみんなマークされてるから、俺らと一緒に居てへんくても“何か”はあるやろ。近くに居てる方が安心なんちゃう?それより問題は場所や。うちはすぐ足がつくし、追い込まれたときの逃げ場もない」
 「実家は?」
 大介が提案するが、それも容易に否定される。周りにあれだけメンバーがいるのだから、橘家の人間もある程度知ってる、若しくは直接でなくとも内通してる可能性だってある。懐柔されるんがオチだ。
 冷静な判断、歳上をも従わせる話術、諦めを知らない粘り強さ。高橋家の“英才教育”を垣間見た。
 「満流の家にいよう」
 漸く、槙も話し合いに参加する。
 「メンバーの出入りは多いけど、小桜のおじさんが匿ってくれるかも」
 「可能性として、チクられることは?」
 一流が密告の可能性を問い、槙は首を降って答える。
 「それはないと思う。仮にも満流の保護者だし」
 「ほな行こか。俺は乙に連絡すっから、イツは渚呼べ」
 一流の肩を叩く大介。当面の避難場所が決まった。ホッと息を吐く頃、一流が事の重大さに気付く。


 渚は、今日も美樹の店を手伝いに行っている。


 「あかん。電話も繋がらへん——かといって行くわけにもいかへんしな…」
 頭を抱える一流の柔らかい髪の毛が、くしゃくしゃに掻き回された。
 守らの動きはお見通しだったらしく、先手を打たれていた。槙の母親とはいえ、彼女もまたカルトの一員。渚はその手中にあるのだ。
 今立ち上がらずに、いつ立ち上がる?
 止めようとする一流の手を振り払い、強い意志を持って走りだす。いつか、春野に笑われたことがあるのだ。
 這いつくばってでも抵抗してみろよ。この、足掻くことを知らない甘ったれが。そう言って、彼女は泣きながら組織に入る槙を冷笑し罵った。
 手足の震えや腹痛などに負ける訳にはいかないのだ。