悔しい3年連続。。 | 伴に歩んで

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ガンと闘った老夫婦の人生日記です。

第21回下田歌子賞(岐阜県恵那市と、学法・実践女子学園の共催)で佳作を頂いた作品です。

3月半ば、やっと作品集が届きましたので、ここへコピペします。

 

穂高は、この賞を第19回は佳作、第20回は優秀賞と2年連続受賞していますので、今回は、頂上の最優秀賞を狙った応募でした。

課題は昨年に続き「夢」。原稿用紙5枚以内のエッセイ(随筆)です。9月末締め切りでした。

結果、一般の部は全国から205作品の応募があり、またもや3位の佳作となりました。

3年連続入賞を喜ぶより、最優秀を頂けなかった悔しさでいっぱいのコンテストになりました。

反省すべき点は、課題の「夢」が書ききれていなかったことだろうと思います。

もちろん、東京の実践学園で開催された表彰式には出ません。(最優秀だったら出たかもしれません)

来年、別の課題が設定されれば応募しますが、また「夢」だともう応募しません。

 

 

 

受賞作品

「転回場」

 

昭和三十年ごろ、私が住んでいた四国最北端の碑がある村と大きな町の間には、一日何本かのボンネットバスが走っていた。

春になると私は毎日バスを待っていた。それは理由があった。両親のいない私は小さな寺の住職をしている曽祖父母に育てられ、遠い都会で働く祖母が仕送りをしてくれていた。その祖母が年に一度の春先、都会から夜の瀬戸内海を渡る客船で町に着き、そこからバスに乗って帰って来るのだ。待ち遠しい日々だった。

だが当時電話がある家は少なく、しかも遠方へは交換手に申し込んで長い時間待たねばならなかった。だから連絡はいつも手紙。それも「三月のはじめごろ帰る」などというアバウトなものだった。

私が待つのはいつも午後。バス転回場のある終点だった。その終点から急な坂を少し上ると家だ。やっと来たバスに祖母が乗っていないとがっかりするが、祖母がお土産をいっぱい抱えて下りてくると、私はその荷物を持って祖母の手を引き、一緒に坂を上る。それが嬉しくてたまらなかった。

小学生になる年、三月に入ると私は毎日バスの終点で待っていた。その日もバスが終点にやってきた。ドアが開いても祖母は降りてこなかった。車掌さんがトイレに走る。中年の運転手さんが窓から私に声をかけた。

「ぼく、バスが好きか?」

声をかけられたのは初めてだったので、びっくりしたがこくりと頷いた。

「毎日来とるのう。バスが好きか?」

その人は私に気付いていた。そしてニコニコしながらなぜ毎日ここへ来るのか聞いた。

「婆ちゃんが帰って来るけん」

バスも好きだが、いつもひとりだから寂しく、早く婆ちゃんに会いたいことを話した。

「そうか。それで毎日きとるんか。それやったら、ちょっとおいで」そう言って、私を手招きした。「ここへ座ってみ」最前列の運転席の横の席へ座るように言った。「え、いいん?」と私。「内緒やで」と彼は笑う。

腰のタオルに「オハラ」と書いてあった。尾原さんだ。私は興奮した。尾原さんは帰ってきた車掌さんの笛に合わせて、鮮やかなギアチェンジとハンドルさばきでくるっと方向転換した。私は最前列でひとり、噂の尾原さんの転回の体験をしたのだ。

友達が羨ましがるだろう。尾原さんは、村人の間では有名な運転手さんだった。でも細い山道をアクロバティックな運転をするのではない。発車のときは客がつんのめらないような滑らかなギアチェンジで走りだし、停まるときはコップの水も揺れないように停車させるという。さっきもそうだった。この噂は町へ通う人たちの間で広まり、私でもその存在を知っていた。目つきが鋭く無口で、怖そうな人。そう聞いていたが違った。

その後も毎日通ったが祖母は降りてこない。でも尾原さんとたくさん話す中で、誰にも言えないことが聞いてもらえた。

曽祖父の爺ちゃんは私に住職を継げと言うのだが、坊主になるのは嫌だと思っている。ついそんなことまで口にしてしまった。

数日後、やっと祖母は尾原さんのバスで帰ってきた。嬉しそうに祖母を出迎える私に、彼は運転席から笑顔で手を振っていた。

やがて小学校の入学式があり祖母が出席してくれた。その日も私の足は転回場に向いて、尾原さんに報告した。

そしてついに祖母が都会へ帰る日が来た。今までなら泣いていた。泣いたらあかん、という声がどこかで聞えた。

転回場には、町へ帰るバスが待っており、運転席には尾原さんがいた。寂しそうな顔をしている私に、窓から「これ」と彼が何かを出した。

「ワシ、転勤になるんや。もうここへは来れないけん。だから傷んでるけど、これあげよか?」と尾原さん。白い手袋だった。

「うん」私は泣くどころか笑顔になった。「ワシも母親を早く亡くした。ええか、ま

ず自分のやりたいことを自分で決めるんや。それが先や。それが『夢を持つ』ということや。それに向かって頑張るんや。寂しいことを言い訳にしたらいかんけん」

町へ帰っていく祖母を乗せた尾原さん運転の無骨なバスは、柔らかな春の日差しを浴びてゆっくり、ゆっくりと動き出した。私は大きく手を振って見送った。村には茹でたイカナゴの匂いがたなびいていた。

寂しいと思い続けていた私にとって、祖母は母、そして尾原さんは兄のように思え、幸せで勇気づけられた季節になった。

それ以後、尾原さんは来なかった。

だが少し傷んだ手袋に触っては、どんな辛いことがあっても、親兄弟がいないことを言い訳にはしないと思った。尾原さんのように自分で決めた目標を持ち、努力して何かに秀でて生きようと誓った春になったのだ。


 

バスの後姿を今でも覚えています。

一言でも感想を頂ければすごく喜びます。

(穂高)