病院 | Rain talk

Rain talk

雨粒の放つ光の言葉たち

悲しいことだが、私は人から舐められることが多い。

街を歩いていても、雨の中の混雑で、わざとぶつかられたり、舌打ちをされたりする。

 

ドンくさいということもあるかもしれないが、しばしばこういうことが起こる。

 

一方で、自己をしっかりしていると、そういうことがなくなる。尊厳を意識して歩いていると胸郭が広がり、鎖骨が上がり、堅甲が落ち着き、大人の立ち居振る舞いになる。堂々とするため、他者が自分に対して一定の敬意を払い、また距離を保つようになる。

逆に言えば、そういう舐めてくる人は、弱そうな人、どんくさい人に対しては、突っかかっていいと思う神経を持っていて、簡単に言えば賊のような性格をしているということである。

 

私にはその都度、殺意を起こすか起こさないかの選択が現れるのだが、少しだけ殺意を飛ばしたりすると、彼らもそれを察するようである。私には非人間的な、悪魔的なところがあって、そういう人間に対しては過剰な攻撃を行使する空想をすることがある。この癖は、子供の時からある。

 

中学の時にも、一度、友達と喧嘩になって、友人の頭部を酷く打って泣かせた記憶がある。また私自身も、同級生から不意に、理不尽にキレられ攻撃されたことも何度かあった。それは、ムカつくからという理由だった。私に相手をムカつかせるところがあったのかもしれないが、私に対しムカつかない友達もいたので、ムカつく方に問題があったか、相性の問題ということになるだろう。私が逆に彼を見下していたかもしれない。そんなつもりはなかったのだが。。

 

 

私の子供のころに、ちょうど、キレるという言葉が世間に流行りだした。これは、普段弱かったりおとなしかったりする人が、我慢を切らして、急に爆発するようにして暴言や暴力、凶器をふるうことを言うものだ。私も言うなれば、キレることのできるタイプの人間かもしれない。何重にも心理的なセキュリティはかかっていて、実際にキレることは恐らくもうないだろうし、大人になってからキレたことはなく、記憶でもその中学の頃の一度だけだが、一度キレたということは、キレることができるタイプの人間だということだ。

 

前置きが長くなったが、人々の中には、弱者を見下す性質をもつ者たちがいるということである。この世の中では、相手に見下されるような隙を見せることの無いようにせねばならないのであろう。それは、出来の悪いことだ。往々にして動物性から逃れられない身体を持った我ら存在の悲しい宿業だ。これでは幸せになどなれることがあろうはずもない。世間が苦悩に満ちているのも合点がいく。

 

だが、実はもう一つのパターンもある。

 

それは、馬鹿にされたり、見下されたりしたことに対して、無頓着であるということだ。私は往々にして、この様相を示すことも多い。これは無理解による行為である。例えば酔っ払いが歩いていて、電柱にぶつかり、文句を言うような現象に近い。私が電柱だ。電柱は酔っ払いのことを理解しない。彼の事情などどうでもよいという以前に、眼中にないのである。つまり、冷たいということだ。これは一面、ストレスがないようだが、危険な場合もある。八つ当たりされるからだ。酔っぱらいは電柱に暴言を吐いたり、小便をかけたりするだろう。無抵抗の相手には何をしてもいいという、狂気じみた感覚をある人々は持っている場合がある。

 

わたしはこのようで、長く悪意に対し無理解を示して生きてきた。そのため、ずいぶん損もしてきただろう。また、私が賊的立場で相手に害を与えたこともある。社会に適応することは無理解の状態だと難しいが、賊のいる社会など適応する意味も価値もないようにも思う。

 

さらに、次のようなこともあった。

 

それは、昨日のことだった。私は自転車で街を走っていた。信号待ちをするために、自転車にブレーキをかけて止まった。信号が青に変わったので、走り出した。すると、後ろから舌打ちする音が聞こえ、走りながら振り向くと、そこに居た初老の男が何故か怒っているのだ。よくよく思い出すと、思い当たる節がある。自転車でブレーキをかけて止まった位置が、その男から1メートルほど離れた壁の際だった。つまり、その男は、私がゆっくり止まらず、その男の1メートル手前でギュッと止まったので、おそらく驚いたのだと思う。あるいは、自分のエリアを侵害されたと感じたのかもしれない。あるいはもしかしたら、停車中、マンションの植木の壇の上に片足を置いたので、私の行儀が悪かったせいかもしれない。

 

それで、私は今夜物思いに耽る現在に、その出来事を思い出している。

そんな細かいことをいちいち気にしなければならないのだろうか?

そんなに、気軽に自転車を操作することさえ許されない世間なのか?
その初老の男が異常事態であったことは考えられる。もとからイライラしていたとか、あるいは何かぎりぎりの精神状態だったのかもしれない。それに加えて無邪気で?弱そうな中年男性が、彼にとっては失礼なふるまいをしたということで、イラっと来たのかもしれない。

 

通常は、そんな些細なことは気にしないかもしれない。初老の男に舌打ちされた。それだけだ。通常なら無視するか、死ねよと思うか、え?で終わるか、くよくよするか、それだけだ。だが私は気になっている。

 

もしかしたら、雨の中、わざと傘をぶつけてきたと思われた若い男も、この、(初老の男の手前でギュっと自転車を止めた)私と同じだった可能性もある。初老の男には、私がわざとブレーキをきつくかけたのだと勘違いをさせてしまったのかもしれぬ。

 

 

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例えば病院内では静かにしなければならない。ふるまいに配慮が必要になるだろう。

 

この世間はいわば、病院のようなものかもしれない、と、私は思った。ここには危篤や危機状態にある人々が散在していて、いつ彼らとすれ違ったり遭遇するかわからない。

 

それで、常に優しくなければならないということになる。

 

考えすぎだが、常にやさしい人について、彼を軽んじるならその過失と瑕疵は軽んじた方に生じる。

 

やさしい人には罪過は生じない。

 

もしやさしいという言葉が限定的に感じられるなら、こころある生き方をする、と言うことでよいだろう。

 

こころある人を軽んじ見下し、からかったなら、やはりそれをしたほうに過失が生じ、こころある人の方には生じないであろう。

 

こころある人にはその場合何が生じるかというと、忍堪をはじめとする諸々の徳が生じるだろう。自制か、物惜しみせず与えることか、或いは、誠実さというものも現れ得るだろう。