慈悲が頬を撫ぜる風なら、喜捨は太陽ということになるのだろうか。
慈悲がこの世の一切についてのやさしさであり、喜捨がそれを眼差す視座となるか。
もしそうなら、慈悲喜捨を体現することの、限りなく遠いことよ。人には出来ぬことのように思う。
この苦界において、一切(が苦)=一切皆苦を慈しみ、しかもこの苦界そのものに対する執著を離れている。
これを体現する人が仏菩薩であるならば、どのような修行を経てそこに至るのか、善知識とは何か、真実について、再び求め考究せねばなるまい。あるいは道をゆきて学び、その真実をついに見なければならない。