その大学の社会人向けカルチャー講座は当時にしてはかなり規模の大きいもので、一言でいえば「死生観を通して人生の意味を考える」というような趣旨であったと記憶しています。

 

 まあね、それなりの金額をかけて、そういう講座に休日参加すること自体、経済的にも社会的にもあまり困った立場になかったのだろうと思われるかもしれませんが、そうでもなかったとだけ言っておきます。

 

 それはさておき、当時は人生について体系型的思考を有していた私でして、どういうことかというと初めに基本あり、あとは枝葉の問題を基本にのっとって解決していくべきだという考え方をしていたのです。これは後に私の個性においては誤っていたことに気づきますが、当時は人生とは何か、それなりの自分の人生観を築くことが大事な事であり、体系的思考に対する問題的思考をおざなりにしていたということになります。まあ、三十代は若いからね。

 

 話を進めますと、「死生観」という講座があり、有名な宗教学者の先生が講義をしてくれたのですが、そこで私は人生において最大の授業を受ける事になるのです。

 

 もうずいぶん昔の話ですし、今手元に講義録もレジュメも残っていないので、朧げな記憶を基に話を進めます。

 

 先生は、最初になぜ人間は死を怖れるのかということから話を進めていました。私たちを安心させるつもりだったのかどうかは知りませんが、現代社会において死に際しての痛みを怖れる必要は殆どなくなりつつあると言っていました。最先端医療やホスピスの具体例を挙げ、痛み緩和の現代医学という言葉を口にしていたものです。死に際して痛みがないという事が分かっていたとしても、それでも正常な意識ある人間が死を怖れる理由というのは、結局、得体の知れない恐怖だというふうに言っていたような記憶があります。得体の知れない死の恐怖というのは何か、それは連続性の断絶だと言っていたのは今でもはっきり覚えています。連続性の断絶とは何か、それは今まで自分は生きてきた、しかし明日からそれがすっかり途絶えてしまう、まるで地の底へ続くような絶壁を目前にしたようで、痛くはなくても一体全体これは何だということなのだと私は解釈しました。

 

 そこから、有名なキューブラー・ロスの死を受容するまでの五段階の精神状態や仏教における死生観等について、先生の該博が発揮されるのですが、私が本当に感銘を受けたのは、そこから先の話です。

 

 どうしたら、人は死の恐怖を免れる事が出来るのかという講義に進んだ時です。