気になっていた謎の吉田麗華について、ふとした偶然から奇妙な形で再会し、その謎が氷解するのを得て幸次は気分がよかった。

 

 早速、ルミにその顛末を話すと、彼女も興味深く耳を傾けてくれた。

 

 「凄い再会話ね。でも、陳さんって、昔とてもお世話になった人なんだよね。やはり、予想した通り、その名前は幸次さんには春の訪れのような目印だったわけね。」

 

 ルミは店内のベッドルームで、自分のことのように喜んでいた。

 

 「陳さんって、もう結婚しているのかしら。」

 

 「十年前最後に会ったときはしていなかったけれど、この前の返信では結婚したと言っていたね。」

 

 「そうなのね。でも、その吉田麗華さんって名前には、幸次さんを幸せに導くようなイメージを感じるわ。」

 

 それきりルミは黙ってしまった。

 

 正月明け、幸次は年賀状を兼ねて吉田麗華にメール送信を試みた。先代の父は年始の挨拶や盆暮れの贈答などには、ことのほかうるさく、それは幸次も見習っているのだが、今の時代年賀状というのは益々その存在感を弱めている。親しい人にはメールで済ますようになって久しい幸次である。

 

 吉田麗華には、昨年の夏に掃除をしていたらメモ用紙を見つけたことから年末にテレビでその勇姿を見つけたことまでを詳細に伝え、自分も貴女を見習って益々頑張ろうと思っている内容文を送信したのである。

 

 返信はすぐにきた。

 

 今、私は人生絶好調だ、近々マイホームを購入する予定でもあると書かれており、最後に迎春の定型的挨拶文で終わっていたが、数日後また彼女の方からメールがきた。

 

 それから、幸次と吉田麗華とのメール交換は始まったのであるが、ルミが予言したように、吉田麗華のメール文にはとにかく底抜けの明るさと前向きな思考態度が行間から湧き上がっていて、こういうところに幸の源はあるのかなと感じる幸次であった。

 

 つまり、明るくなりたかったら明るい人と付き合え、バイタリティ溢れる人間になりたかったらバイタリティ溢れる人と付き合え、そういう自分の希望を実現するのに人との付き合いを媒介にするところが、幸次独特の人生哲学でもあった。

 

 今の自分が希求してやまないことは二つだけだ。一つは今の会社を少しでも大きくし、最後は他の事業展開を試みたいという仕事に関する野望であり、もう一つは一刻も早く理想の女性と結婚し家庭をつくりたいということである。

 

 この二つをもって幸せとなすという幸次の目標が、似たタイプである吉田麗華とメールで話すたびに身近に感じられるのである。

 

 そして、遂に吉田麗華から福音のような鈴が鳴った。

 

 「幸次さん、もし現在付き合っている人がいないのならば、私の古くからの友人である日本人女性を紹介したいのですがいかがでしょうか。」

 

 その話が出たのは、三月に入ったばかりの底冷えのする時季である。

 

 三月は、幸次の業界においては一番の繁忙期であったので、四月に入り、まだ桜の余韻が残る頃に、ぜひ紹介していただけないだろうかと返信した幸次である。

 

 吉田麗華から結婚相手を紹介云々というメールをもらってから、彼は夜ベッドの上で妙なことを考えるようになった。それは、愛のキューピッドというのはどういう人がなれるのだろうかということである。キューピッドというのはローマ神話における恋愛の神であり、ビーナスの子である。放った弓が正確に恋の起因となるわけで、少なくとも恋を第一目的にしない人間の紹介者は該当しない。昔、自分にお見合いを勧めた実父や名倉社長が該当しないのは言うまでもないことを考えると、なんだか可笑しくなった。キューピッド自体も自分から見て、愛すべき存在でないと駄目だと思った。そして、簡単に現れる存在であっても変だと思った。

 

 やはり、吉田麗華は自分にとっての愛のキューピッドでありうる存在のような気がした。

 

 

 

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