藍はパパである本多さんから、不倫疑惑はないと思うと告げられても納得できなかった。

 

 ユキオを名乗る男からの電話を受けたのは、藍自身であったし、そこでユキオは、ハッキリとお寺でのデートと漏らしてしまったのである。そして、ユキオもママも互いに友達だと語っている。藍には、ユキオのバリトン風の声と親し気な喋り方から、どうしてもただの友だち関係ではないような直感を得たのである。そもそも、ママにその電話の話をしたら、慌ててパパには内緒にしていてくれと言ったわけである。

 

 どう考えてもあやしい。

 

 どう考えてもあやしいが、パパの言う通り何でもない関係である事を証明したい欲求もあって、少しママの行動を独自に調べてみようと思ったのである。どうも、ママは週の半ばに一回、平日の夜十時頃まで留守にすることが分かっていた。

 

 ママはどこに行っているのか、きっとユキオに会っているに違いないが、藍は高校時代からのボーイフレンドである賢太に協力を願い、一緒にママを尾行してみることにしたのである。

 

 12月の水曜日のことであった。雪ちゃんが瀟洒なコートを羽織り、よそ行きの出で立ちで、丸ノ内線新宿御苑駅に降り立ったところまで確認できた。腕時計の針は午後7時に近い時間帯を示していた。

 

 改札を出て、地上出口から伊勢丹方面に向かって足早に歩く雪ちゃんを尾行する藍と賢太であったが、二人は、雪ちゃんが、妙な路地に入り込むのに気づいた。新宿の大通りから少し横道に入っただけであるのに、路地を曲がると急に人の気配が少なくなり、薄暗い不思議な空間へと変貌しているのである。

 

 繁華街ではあるのだが、どうも普通の繁華街とは雰囲気が違うのである。

 

 「なんか、不気味な通りだね。」

 

 藍が呟くのに呼応して、賢太が言った。

 

 「ここって、もしかして新宿二丁目に続く入口じゃないか。」

 

 「新宿二丁目?」

 

 「知らないのか、ゲイが集まる街だよ。でも、今はゲイというよりLGBTの聖地みたいな感じだって、雑誌で読んだことがあるけどね。」

 

 藍は予想もしない展開に驚嘆した。

 

 ゲイって、どういうことなんだろう。

 

 雪ちゃんを追ううち、暗い路地から一転。艶めかしい不思議色のネオンに抱擁された目抜き通りへと出た。午後の7時にならんとする時間帯は、二丁目界隈ではまだ朝である。街全体がピンク色の開幕ベルを鳴らし始めたような趣きで、藍も賢太も未知との遭遇に緊張した。

 

 コンビニの隣のバービル2階に向かってコートの裾を翻した雪ちゃんであり、遠目でその店を確認した藍と賢太は顔を見合わせる。

 

 「お母さん、どうもホモバーに入ったみたいだね。俺たちも行く?」

 

 賢太はあまり乗り気のしない顔で藍を見た。

 

 「うんうん、今夜はやめとこ。それより、何か食べようか。」

 

 自分のために働かせてしまった賢太に申し訳ないような気持になり、何かご馳走しようと思った。そして、二人は素早く近場の大衆食堂を見つけて入店したのだが驚嘆した。

 

 一目でそれと分かる何組ものゲイのカップルに囲まれるようにしてテーブル席に着いた二人は、なんだか怖いような気分になってきた。男たちの視線は藍ではなく賢太に向けられているのを、二人ともひしひしと感じた。

 

 冬なのに半袖の白いポロシャツ姿のウェイターが微妙に男女不明な口調と仕草で注文を聞きに来た。

 

 チャーハンを食べながら、藍は黙考した。

 

 ママは何しにこんなところに来ているんだろう。おそらく、さっきママが入った店も似たような店なんだろう。そうすると、突然、先程の店を覗きたくなった藍である。

 

 「今日はここでバイバイしよう、アタシ、一人でさっきの店に行ってくるから。」

 

 腰を上げる藍に、そういうわけにもいかないよと賢太も腰を上げた。もう一度、元来た道を戻り、雪ちゃんが入店した2階の店を見上げる二人であった。

 

 腕時計を見ると、あれから1時間がゆうに過ぎている。

 

 行こうか、先頭に立った藍は恐る恐る階段を上がり、茶系統の厚いドアの前で立ち止まった。

 

 会員制というプレートの上にアルファベットで店の名が刻まれていた。

 

 その店名を見るや、藍は思わず、キャッという悲鳴を上げたのであった。

 

 「YUKIO」、その店名を見て、藍はすぐに以前ママと自分とを間違えてデートの話をしてきた男の店なんだと気づいたのである。

 

 二人は、おそるおそる厚いドアノブに手をかけ、雪ちゃんがいるはずの店内を薄っすら覗くように身を乗り出したところで、頭上の呼び鈴が静かに鳴った。

 

 ここから、二人はママとユキオの驚異の世界を知るのであるが、それは何もホモバーの店主と客との関係を示した単純なものではなかった。

 

 

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 時は昭和最後の年。

 

 バブル時代の絶頂期、世界中の金が日本に集まるといわれ、東京の土地価格でアメリカ全土が買えるという言葉が広まった。事実、三菱地所によるニューヨークのロックフェラーセンター買収など、日本の企業がアメリカの象徴的な不動産を買い占める動きもこの時期にあり、アメリカの新聞記事に自由の女神像が右手を高々と上げた着物姿の芸者像にとって代わる風刺画が掲載されたのもこの頃だった。しかし、この狂乱の時期、多くの日本人は父を失うという悲しみに襲われた。まさに昭和時代を象徴する最大の人物、昭和天皇の容態悪化の報道が刻々と暗雲になって列島に襲ったのであった。

 

 本多さんが帰宅した金曜日の夜も朝から入院した天皇陛下の容態についてのニュースが流れていた。

 

 長野から新宿までの列車の中で、彼の頭の中は天皇陛下には申し訳ないが、今夜、妻の不倫疑惑について、どのように問いただそうかという思いでいっぱいだった。黙然と右側に展開する夜の車窓を見つめながら、ふと奇妙な歌のメロディーが脳裏に木霊した。

 

 それは、数年前に大ヒットしたテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」の主題歌である「恋におちて」であった。こらえきれない恋の想いに駆け出しそうになる自分を必死に思いとどめるシーンである、「ダイヤル廻して手をとめた♫」というフレーズが幾度も彼の脳裏に流れるうち、ふと思った。そういえば、今、自分が使っている不倫という言葉は、あのテレビドラマを契機とした生まれた言葉ではなかったか。確かに、それ以前は普通に浮気ないし不貞という言い方をしていたが、わずか数年で不倫という言葉はすっかりと定着していることにあらためて気づいたのである。

 

 ふざけたドラマだったな、急に苦々しくなった本多さんであった。

 

 JR中野駅に着いたのは、今夜は少し遅く九時をまわってた。娘の藍には、今夜はパパがママに酒とユキオを名乗る男との交遊について問いただすと宣言していたから、彼女は早々に横浜のワンルームマンションに帰っているはずであった。

 

 「お帰りなさい。」

 

 雪ちゃんは玄関口で嬉しそうに本多さんを見やるや、いそいそと手料理が盛られたダイニングテーブルへと促す。

 

 嬉しくてたまらないという風情に、それが当たり前の日常ではあるものの、疑惑を抱いていただけに、少しだけ拍子抜けする本多さんである。

 

 「お腹すいたでしょ。先にお風呂入る、どうする?」

 

 ここのところ、彼女の性的シーンを脳裏に描くことが多かったせいか、妙にその身体に目が向く。絶えて忘れていた妻に向ける感情であった。白いニットの下を想像しては、最近、全身が丸みを帯びているような気がした。

 

 性的嫉妬に紙一重のものがあるのは、自分もその女と関係をもっている場合である。錯綜した複雑な心理状態が、本多さんに屈折したリビドーをもたらしたのかもしれない。

 

 しばらくして、一緒に遅い食事をとったのであるが、案の定、娘は夕方には帰ってしまい、雪ちゃんは今まで待っていたのだという。彼女が缶ビール、本多さんが特製の水で薄めた少量の梅酒で乾杯するや、夢見心地の幸色を全身に浮かべる雪ちゃんであった。

 

 なんか変な気持ちになってきた本多さんである。こいつ、ホントに不倫なんかしてるのかな。夫婦の幸せな会話が、やがて購入を予定している伊豆の別荘の話に及ぶや、ユキオを名乗る男の話や不倫疑惑についてなど、すっかり忘れてしまった本多さんであった。

 

 そういえば、娘がいない週末の夜は初めてであった。その晩、二人は新婚時代に戻ったかのように一緒に入浴して、一緒に寝た。

 

 結局、本多さんの雪ちゃんに対する疑惑は霧散したというよりも、心の中でシロと判断したのであった。ただ、ウオッカの飲み過ぎが原因で生活が乱れているのは事実であるので、彼は優しく注意しただけであった。雪ちゃんは正直に最近自分は呑み過ぎだという事実を認めた上で、昼間から呑むことだけはやめると誓うのであった。

 

 翌週、本多さんは信州の社宅へ戻り、藍のワンルームへ電話を掛けた。

 

 「どうも、ママは不倫なんてしていないようだな。俺たちは三人は一体だよ。」

 

 受話器の向こうで、藍は不満そうな声で呟いた。

 

 「でも、アタシはなんか納得できないな。それに、パパ、なんでユキオのこと聞かなかったのよ。まあ、いいや。これからは、アタシが少し調べてみるわ。」

 

 そのまま二人の会話は終わったのであるが、それからしばらくの日が経って、本多さんは藍から、雪ちゃんについての非常にミステリアスな話を聞かされることになるのであった。

 

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 今年の言葉というか目標は、以前にも書いたことがあるけれど、座右の銘の実現です。

 

 座右の銘というのは、「早く明日になればよい」という言葉です。

 

 これは、私が精神的に死んでいた頃、20歳代の頃かな。有名な大学教授が新入学生に贈った言葉です。どういうことかというと、その有名な大学の先生、若い頃、ヨーロッパに留学した際に指導教授が夜寝る前に、その先生に、早く明日になればよいと言ったのだそうです。どういう意味かと訊ねる先生に、指導教授は嬉しそうに明日になれば今日の研究の続きができるからさと答えたのだそうです。いたく感動した先生は、以来、常に自分は早く明日になればよいと思えているかと自問しては頑張って来たのだという。だから、新入学生諸君、夜寝る前に早く明日になればよい、そういう気持ちで学業に精を出してほしいと訓示したということです。

 

 20代の私は、書物でその話を知った時、これこそが自分の理想の生き方であるが、自分には絶対にそのような心境になれるわけがないと思っていました。精神の多くの部分が壊死、もしくは元からなかったかのような気持ちだったからで、長い間、いつか自分もそうなりたいと憧れだけで歳月は流れてきたということです。

 

 ところが、2年位前から人生に奇跡のような事が起きはじめ、なんとなく、毎日が充実するようになってきたのです。だから、今年は、この言葉を根底に置き、日々を過ごしていきたいと思います。

 

 この言葉を実現しゆくには、とにかく人生目標を持つことですね。そして、常識の範囲内で自分らしく生きる事だと思います。

 

 常識、前進、目標、愛、信仰。夜寝る前に早く明日になればよいという言葉には、私の場合、あまりにも多くの意味が内包されているんですよね。

 

 それでは、皆さん、今年もよろしくお願いしますm(__)m

 

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