両親と小学生の弟3人は、私ひとりで火葬した。集めた瓦礫の上にトタンを乗せ、そこに家族を並べた。両手に、炭のようになった家族とその血のりが、べっとりとついた。「私に残されたものはこれだけ」、両手両腕に何度も擦り付けた。燻った瓦礫は直ぐに勢い良く燃え始めた。涙は出なかった。
https://x.com/iam90yearsold/status/1820744230236794901?s=46
門柱に寄りかかった真っ黒に焼けた父、その大きく開けた口には、爆風の瓦礫がいっぱいに詰まっていた。茶の間だった場所に2番目の弟、廊下だった場所に末の弟を抱きかかえた母、どちらも両手で持ち上げられるほどの黒いかたまりになっていた。焼け残った5cmほどの布切れで、それが誰かがわかった。
https://x.com/iam90yearsold/status/1820740229025951950?s=46
家は爆心地から200m、8月9日の原爆で両親と小学生だった弟3人を亡くした。軍需工場にいた私と、2歳下の妹だけが生き残った。妹は、8月1日の空襲で機銃掃射を受け、あまりの恐怖で、地区の大きな横穴に籠ったきり出て来なかった。だから9日に生き残った。
https://x.com/iam90yearsold/status/1820672636885835809?s=46
1945年、私は報国隊で軍需工場に通っていた。8月9日の朝、ある事で機嫌を悪くしていた私に、母は玄関で「怒らないで行きなさい、プンプンしないで。これが最期かも知れないんだから」と言った。150mほど歩き、角を曲がる時、振り返ると母は手を振っていた。そんな見送りをした事はなかったのに。