「こんな。自由すぎる女優を、もっと自由に捨てるなんて、なかなかのチャレンジャーだわ。」
驚くほど静かにワイングラスを置く 礼愛(れあ)は、僕からの別れを知っていたかのようだった。
牧野礼愛。
この女優は知性的にして感性が飛び抜け、型破りにして調和を重んじ、特に仕事仲間らに対しては、こだわらない付き合いの中でささやかな心遣いを忘れない女だ。
この10年は沢山の映画に出演し、人々の切り取られた時間を演じ切り、あらゆる映画ファンの心を動かしてきた。
しかし一体なぜ、僕は彼女と別れて行く?
そんなはずではなかった。
この三年半も、思いつきで一緒に暮らしたわけではない。しかしほんの思いつきの出来事でそれを終わらせようとしていた。
そうだ、ほんの思いつきでその事は始まったのだ。
れあはその発端を知らないはずなのに、ワイングラスに継ぎ足される緋色の液体は動揺しているように揺れた。
「レア、っていうのはね、ギリシャ神話でゼウスの母親の名前なの。
私達には、ゼウスみたいに全知全能の子供が生まれたかも知れないのに、残念ね。
ホントに別れても後悔しないよね?」
明るく言っているのかも知れないが、
僕には夜の底に立っている彼女が見える。
それは昔、れあがまだ今ほど認知されていなかった頃、都内の小さなホールで赤貧の娘役を演じた事があり、舞台の上に裸足で立ち、神に自身を問う演技で小さなスポットライトだけが彼女を照らしていた、その時、
あぁ、この人は本当は心以外の何も持っていない、ほんとうにこんな人なんだろうなぁ、と何故か感じた事を思い出していた。
その時彼女はひとりぼっちで何もなく、闇の底に裸足で立っていた。
あの日、
あの日、
彼女はもう21歳になっていたと思うが僕は18になったばかりで、物書きの父に連れられ、初めて舞台というものを見に行った。その日だった。
あの時 れあを見て、初めて女優というものを目のあたりにして、僕は心臓を鷲掴みにされ床に叩き付けられた気分だった。
しかし父には何食わぬ態度を取りながら、その小劇場で見た芝居を何年も忘れる事は出来なかった。
やがて自分が役者になり、偶然に彼女と出逢い、そしてその女(ひと)の方から自分に近づいて来るなどその時には思いもしていなかった。
窓の外は相変わらず雨が止まない。
静かだが、止まない事を決めているような頑なな、雨だ。
僕はその小劇場へ父と行った事をついに彼女に話す事はなかった。
自分の原点だと思われるのが嫌だったのか、
それとも大切にしたい思い出だったからなのか。
どちらも違う気がする。
着の身着のままの君を知っている、と悟られたくなかったのかも知れない。
何も持っていない君を愛しているのだと、
知られたくなかった。
そんな君を君と逢う遥か昔から大事に思っていたと、言えるはずもなかった。
「あたり前すぎるけど、別れの理由を聞いておこうかな?」
ワインの空瓶をゆっくりと窓枠に置きながら れあは言った。
本気か?
本当に知りたがっているのか。
それとも・・・。
僕は何と答えるのだろうか。ごく穏やかに話しをするつもりでいた、しかし。
支度してきた答えはもう、とうに頭の中からふっ飛び、かたちのままの別れなど現存しないのだと思い知らされるのだった。
「ずいぶん、、、れあには、世話になったと思う。駆け出しの僕を、厳しくも優しく導き、育み、愛してくれた。」
握った手のひらはふりほどかれ、言葉は遮られた。
「経過はいい。過去もいい。今の気持ちを話してよ。」
「話してよ・・・。話してよ、話してよ、話してよ!!」
一緒に暮らしていて、ヒステリックになった事など一度もない。
れあの中に、こんな熱い思いが隠されていたのが意外だった。
「好きな人がいる、、、。」
「え?」
それは反射的な言葉だった。言うつもりなどなかった、言葉を選び、真実を隠し、
上手に別れて、僕はU.S.A.での仕事に向かう事が出来たはずだった。
れあをヒステリックにせず、仕事の話に責任を負わせ、なし崩し的なやり方で自然消滅に近い別れが出来たはずだった。
まずい事になった、きっと良くない展開になって行く、もしかしたら取り返しのつかない騒ぎになるかも知れない。
雨が止まないまま、時間が夜に堕ちていく。
れあはどんな気持ちでこの夜を過ごすのだろう、取り返しのつかない言葉で僕は自分に茫然としていた。

