僕が今、恋をしている女性とは、もし偶然のチャンスがなければ、逢う事にもならなかったはずだ。



1年前の秋、
相変わらずスクープ雑誌に僕らの記事が出ていた。
れあと一緒に暮らし出してから半年に一度は破局説が掲載されるから、もう気にも止めていなかったし、全く、式の相談までしている二人に何てこった、というだけの話しだった。


内容など見もしない。
見もしないはずだった。しかし、今回は珍しく れあのほうから 「気にしないでね。あとで話す。」というメールが届いていた。


え?
れあが何か喋った事でその記事になっている?
そう思い大急ぎで車の中で記事を見たが、そうではなかった。
「牧野礼愛 過去に大物P(T)との交際が発覚、同棲解消、破局!」とすでに見出しに出ていたのだ。
そんな話しは他からも彼女の口からも聞いた事はなかった。


そんな事は気にもしていなかった。
れあから説明を聞くまでもない。
しかし何故このような見出しになったのか、
今までの、「すれ違いの二人、破局か。」
というのとは、違っていた。


僕は少しイラついていた。れあにではなく、イラつく自分にだ。そして業界に。

事務所でマネージャーを待っている間に、イライラしながらデスクの整理をしていた。



その時。
ファンレターのようなものとして仕分けされていた箱の何通目かに、目を止めた封筒があった。
丁寧に書き込まれた僕の名。
封書の端に小さな押し花が貼り付けられていた。
その日、僕は沢山の封書を開封したが、
何故か、ありふれた言葉で僕を応援し僕の健康を気遣ってくれているある女性の手紙が
こころの一箇所に貼り付いて取れなくなってしまっていた。



マネージャーが息をあげて僕のデスクにやって来て、記事の事実はありましたかと聞く。
僕はないよ、と答え、インタビューは受けますかと訊く彼に、帰って彼女に聞いてからにすると答えておいた。



記事を見た直後より、何故か心は穏やかだった。何故か胸の一カ所を小さな炎が照らしているようだった。
それは幼い頃にチェコの街角、雪の降る晩に古いアパルトマンの出窓に灯っていたローソクを模した電球の明かりのようだった。
母はバレエ公演に招かれた時、何故幼い僕を共産圏の国に一緒に連れて行ったのだろう、幼い僕がもうプラハに行ける機会がないかも知れないからと後々言っていたが、その後間もなくチェコスロバキアは独立した。
僕は大人になり、何故か母が護身のためにその時僕を連れて行った気もした。僅か6才の僕は形だけでもナイト(騎士)だったのかも知れない。


マネージャーに見つからないように、その晩僕は、花のファンレターをコートの胸ポケットに入れていた。



それは一年足らず前のある晩の事だった。






「あら、来てたんだ。」

母が言う。

「あの人のお気に入りのお酒をこんなに飲んだのね、平気?」
年季入りのワイルドターキーらしい。



僕は歯を磨きながら言った。
「今日も帰るよ、明日も帰る。その次もね。」
「え?  聞こえないわ、何?」
「アメリカに行くまで、ずっと帰るよ。親孝行だろ~?」


母は淹れようとしていた緑茶の湯呑みを軽く倒した。


「何?何かあったの?」
母は人並みにうろたえていた。


「忙しいからもう仕事に行くよ、話はあとで。」

僕は大急ぎで支度をして実家を出たが、
今日はとりたてて忙しくもなかった。
もう少しすると父が起きて来る。
さらにややこしくなるだろう。


午後まで仕事はない。
それまで、身近な人々に答える別離の理由を模索しなければならない。





僕は入った事のないカフェに寄っていた。






代官山のBARは思いのほか静かだった。





三年半暮らしたあの部屋に小一時間一人で居たのだろうか。
タクシーを拾うのにも道が渋滞していて少し時間がかかった。

それにしてもまだここは宵の口なのだ。
いつも僕がやって来るのは仕事がはねた後の遅い時間で
店の暗さの中にはそこそこの人がいる。

今はまだ静かな店の中で、シャイなマスターと他愛のない話をしていた。


氷の中に炎が燃えているように見えるクリスタルのローソク立て。それはカウンターの上で不測のゆらめきをしている。


そうだ、れあも氷の中に炎が揺れているような女だった。


けれど僕と暮らした数年は、彼女の中に炎も裸足の少女も見かける事はなかった。

では一体何故、僕は見えない彼女の一面を見ていたのだろうか、
それは今でも説明する事は出来ない。


今夜のスコッチは干し草の薫りがした。
広い草むらの中にたった一人でいるような錯覚に陥り、目眩がする。
バーボンは僕を饒舌にするが、スコッチは 寡黙にするのかも知れない。
マスターがグラスを磨き続けているが、一体どの位の時間が過ぎたのだろうか。


夜更けになると後ろのテーブル席に数人の客たちがやって来た。
若いグループのようだが、この店はいとまをする時にテーブル席の客の顔を見る事はほとんどない。カウンターとの間にパーテーションのようなものがあるし、カウンターのすぐ脇がドアになっている。ドアの脇にもちょっとした壁がある。


「じゃあね。」という僕に対してマスターは

「お大事に。」と頭を下げた。

この店に来る時はいつも独りだし、今夜も何も変わらない筈なのに、何かを感じたのだろうか。




実家へ帰る前に連絡を入れようと思っていたが、母に説明をする面倒をためらっているうちに夜更けになってしまった。

れあと暮らしていても時に気まぐれに実家に泊まる事があったので、とりあえずは誰も何とも思わないだろう。
実家に泊まる時も一言ことわりを入れれば、れあは疑ったり詮索したりする事もなかった。



これからはもう、ことわりをする相手はいない。





自分が蒔いた種だ。
別れは僕から言った。
きまぐれか?
思いつきか?
結婚が面倒になった男のエゴか?
マンネリか?



中学に上がる頃越して来たこの家も二十年が経ち二階の窓に樹木のざわめきが聴こえるようになっていた。
わずかに街灯のひかりが樹々の間から見える。


アメリカに渡るまであと1か月を切ってしまった。
わずかだがここで親孝行をしよう。




そして、自分がその先どうなるのかはもう一人の女性の存在にかかっていた。




一体なぜ、こんな事になってしまったのかはわからないが僕は珍しく運命に流されていた。
逆らう事を考える暇もなく。
辿りついたらここにいたというのが現実だ。



その女性とは来週逢う約束をしている。



都内でありながらも夜更けの静寂をたたえているこの街で、いつ僕が帰ってもそ知らぬ振りで暖かく迎えてくれるこの部屋で、僕は父の埋蔵酒をストレートで飲みながら
プライベートが何ひとつ確約されていない
明日を思っていた。





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大変な言葉を口にしてしまったという僕の後悔をよそに、れあの反応はその言葉の後、急に落ち着いていった。



それは、まるで熱した鉄板に冷たい水を大量に流した時のようだった。
鉄板は蒸気をあげ、すぐに常温に戻っていった。


「そんな人がいるんだね。逢ってる事も知らなかった。」


れあは花瓶に挿した花を触っていた。


まさか、その女性(ひと)に逢った事がないとは言えるわけもなく、自身の行動を考えれば考えるほど、自分でも納得の行く答えは得られそうもなかった。



「その女性(ひと)は若いの?
私よりも若い?」

れあにしては俗な質問だった。

「多分ね。」

そんな事は問題ではないと言いたかったが
今は何をどう説明しても、プラスの材料になりそうもなかった。

「わかった。」

れあは低い声で、つぶやいた。


「だけど、貴方がここを出て行くのを見るのは嫌。
私が出掛けている間に行って。カードキーは、貴方の持ち物を全部運び出した後で、マネージャーにでも届けさせて。」

花瓶の花が揺れている。

「僕は持って行くものはないよ。」
「服たちは置いて行かないで。」
「そうだった。」


そんな会話を交わしたあと、彼女は女友達に電話をしていた。
四ツ谷のリストランテで待ち合わせをしていたようだ。



れあがコートを羽織りながら出て行くとき、花が揺れ、ドアが静かに閉まって行った。


僕が女優の牧野礼愛を直に見るのはこれが最後になる、何故かそんな予感がした。
何故だかはわからなかったのだが。



窓枠に浅く腰を乗せて漠然と表に目をやる。


道でタクシーを拾うのかと思っていたが、
数分後、アパルトマンの前にハイヤーがつけられ、小さなカラフルな傘が折りたたまれ、ハイヤーの中に消えた。
ヘッドライトに小雨が照らされている。


ワインを飲まなければ、愛車のグリーンのポルシェで出掛けていたはずだ。

「ごめんね。」

僕はカーテンの隙間から、言えなかった言い訳を沢山投げかけていた。

ほんとうに、ごめん。
僕は他に例を見ない大バカ者だ。
説明する言葉など何一つ見当たらない。


れあとの生活は仕事ですれ違っても、月に一度でも食事に行ければ埋め合わせる事が出来た。
今までの他の女たちとは違う、彼女は限りなく自由で我儘ではあっても、僕にそれを振りかざす事はなかった。
そして去年の今頃は、式の直前まで様々な所で待ち伏せをするパパラッチをどうかわし、ハネムーンでどこへ逃げようか、ふたりで画策していた。







なぜこんな事になり、僕はどこへ行くのか。
混乱する思考は自分を没にする。


落ち着くため、見納めと思われる部屋を廻り、僕は寝室の抽斗しの中から気になっていた一枚の写真を再び手に取った。
それは、彼女のメイク道具の並んだマホガニーのアンティーク家具。
面取りが丁寧に施されている楕円形の鏡。その下にあるいくつもの抽斗のひとつに隠されていた。


そこには、地味だがセンスの良いワンピースを着た女性が包み込むような笑顔で映っていた。
僕は何故かあの晩、撮影から帰宅した彼女に気付く事も出来ないほど写真に見入っていた。

一枚は女性の写真。
もう一枚は古いヨーロッパ映画に出て来るような民家の部屋に質素なスーツを着たその女性と歳の頃十才くらいの利発そうな少年が映っていた。



「人の抽斗しを覗くなんて・・・。珍しい事をしているね。」

「誰なの?」

「叔母と甥っ子よ。海外に住んでるわ、
話さなかったっけ?」


れあは何とも思っていないようだった。


しかし後に、僕の母親が僕と彼女の結婚話が持ち上がった時、軽く彼女の素性を調べたと言って来たあの朝、

「大変よ、あの方、養女ではないの?
大きな会社のご令嬢というのは世間で有名な話だけれど、5才になる前に今のお家の娘さんになっているわ。」

「どうでもいいだろ。」
「良くないわ、私は今、名の知れたバレエ学校の指導者、貴方のお父様は作家でJペンクラブの役員よ、どうでもいいわけないわ。」

  母はこういう事になると面倒臭い。
昔パリのバレエ学校を出て日本のバレエ団に呼ばれ、プリマを張っていた頃はこんな風ではなかったはずだ。
彼女の自由思想は、今や持っているものの多さに押し潰されてしまったのだろうか?

人はいくら富や名誉を手にしても、柔軟でユニークな発想を失ってはいけない。

「大体が、お洒落じゃないだろ!」

僕は母に、考えていた独り言を声にして言ってしまっていた。

「何を考えているの、今、おしゃれの話なんかしていません!」

「そうだった。しかしマスコミに今までその話が出て来ないなんて、母君の思い過ごしだろ?」
「それがね、探偵事務所も頭を抱えていたわ。養女になった経緯が複雑だし。
彼女のお父様という方が教会の牧師さんで、彼女が4才くらいの時に事故で亡くなっているの。でも、実はその当時自殺ではないかと噂されていたって。聖職者は自殺なんかしてはいけないでしょ。」
「何故自殺なんかするんだよ。」
「もしかしたら奥様以外の人を好きになっていたかも知れないって。」

ちょっと、ドキリとさせられる内容に母はワイドショーのリポーターみたいな目つきになっていた。
その後、そのお相手の人妻の方も自殺しただとか、彼女の母親が教会を人手に渡して海外に渡っただとか、彼女を養女にした社長夫妻は、一度海外に住まいを移した形にして彼女を養女にとってから帰国したとか聞かされたが、
僕の心にあったのは、18才の僕が小劇場で見た彼女は本物だったという思いだけだった。


あの小さなスポットライトの中の彼女は、
資産家の社長の娘として生まれ、どんな習い事でもさせてもらい、歌、バレエ、英語、絵画など、運転手の送り迎え付きで通っていたという、インタビュー番組で れあ自身が語り、世間の知るところによる4才以降の彼女ではなかった。


あの時のあの人は、父がよその女性を好きになって自殺を図り、母がそのために家も夫も職業も失い、彼女と乳飲み子を連れて海外に逃げ、幼い娘は知り合いの家の養女に出された。そんな過去を持つ娘の芝居だった。


だから彼女は闇の底に裸足で立っていた。


僕の母の興信所事件の後、この写真を真剣に見るのは初めてだった。
確かに れあに良く似ている。


4才までの彼女の過去は、女優としての傷になるのだろうか。
写真に微笑む れあの母の姿はとても暖かく優しい。僕は彼女の温かく優しい傷を愛していた。
もう、伝える事は出来ないけれど、多分僕が好きだったのは、世間がモニターで認めているところの
凛として厳しく、隙がなく強い、しなやかで美しく、完璧で男前の彼女ではなく、
傷だらけの小さな女の子の彼女だったのかも知れない。


その小さな女の子は、自分に自信がないけれど、常に上を向こうとしていた。
弱い者の痛みを知り、その人にわからないように手をさしのべている。泣いている者のこころが解り、知らないふりをしながらいつも一緒に泣いている、そんな彼女だ。


高飛車な鼻持ちならない女、と言って憚らないのは、女優の彼女を過大評価している業界人たちのいつもの口グセだ。


写真を静かに抽斗しに仕舞う。



僕も今夜は誰かと飲みたかった。本当は母の弟子で幼なじみでもある紳と飲みたかったが、シン・ナカガワは今夜まさに、パリでの公演の最終日であり、プリンシパルの帰りは5日も先になる。



僕も今日は車をやめておこう。
明日出来る限りの服を実家に移さなくてはならない。



小雨の中でタクシーを拾い、代官山のBARに向かった。







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