タクシーがとばす東京0時の街は思い出になってしまうのだろうか。



来月の僕はもうこの街にいないのだ。



いつも夜の都内の明かりは、 僕を丁度いいくらいの孤独に連れてゆく。

それは、

誰もが無関心をよそおいながらも何気ない距離で他人を見つめている。
そんな人々がひしめき合っている事で、
孤独の中の安心が、白くオーラの様に広がっているのが日本の繁華街だからだ。



ロスの街はきっと違うだろう。


きっと、
夜あてどもなく一人歩きをするなどという事はなくなってしまう。



窓の外はさらに冷え込んでいるらしい。
ガラスが曇ってくる。
マネージャーへの電話は3コールくらいで繋がった。


「遅くなって悪い。何かあったか?」

同い年のマネージャーは何時でも何事も腹を割って話せる仲だが、彼の方は一線をひいてばかりいる。



「実は、衣装その他の引き上げが終わり、ご実家のクローゼットに収めましたので、今日牧野さんのところにカードキーをお返ししようとお伺いしたところ、
彼女はどうやらお引越しをなさったようでしたが。
キーを管理人さんの所にお返ししようと思いましたが、一応貴方にお伺いしてからと。」



そうか、じゃあキーは明日、僕の実家に持って来てくれ、


何も驚いていない風を決め込みながら、僕はそれしか言わなかった。
胸の中がひんやりした。
マネージャーのヤツに一線をひいているのは自分の方じゃないか。
声が震えるのを悟られたくなかった。



本当は今夜のうちに、あの部屋を訪ねてみたい。だが冷静になれ、と言い聞かす。


電気はもう止まっているのだろう。



たった5日ほどの間に れあがあの部屋から出て行った、4部屋の荷物を全部片付けて行ったというのか。



何を動揺する?
そんな事で?
お前はもう彼女と別れたんだろ?
今さら彼女が引越ししようがしまいが
大した話しじゃないだろ?
と人は思うだろう。
もう一人の自分だってそう思っている。



しかし僕は自分が考えていたよりずっとこの出来事に衝撃を受けていた。
と言うよりはこんな出来事は予想もしていなかった。



その晩はうたた寝程度しか出来ずに朝を迎えた。
マネージャーから何気ない素振りで部屋着のままキーを受け取ると、大急ぎでひとり着替えて、れあの住まいへ向かった。


車の運転に注意を払う。


動揺しているからだ。




キーを開け、ゆっくりとリビングへ向かった。



彼女の好きだった



サムライウーマンの残り香が




わずかに。



しかし、






何もなかった。





本当に何もなかった。


まさか。


自分と知り合う前から、大好きなものに囲まれて暮らした れあの部屋はもう、どこにどの家具が置かれていたのかも思い出せない。記憶の引き出しからも削除されてしまうほどに空白化している。



消えた。




けはいも面影も笑顔も会話も食事も音楽もいさかいも れあの不満も僕のくだらない冗談も揺れていた花瓶の花も雨の日のDVDもふざけてばかりいたベッドルームもパックをしたまま襲来して来たバスルームも雪の積もったバルコニーもあの日投げつけられた雪玉も隠れん坊にうってつけのウォークインクローゼットも熱を出した日にそっとおでこに当てたタオルが入っていた冷蔵庫も説明書きやト書きや落書きでいっぱいの台本も、すべての想い出もいまは




何もない。




こんなに大好きだった部屋を出て行くほど、れあは傷ついていた、


知らなかった。



僕と別れてもそのままあの部屋に住んでいるのだろうと、勝手に思っていた。
れあは呆れ返るほど冷静な女だ。
ひょっとして想定外の行動は、僕への復讐なのか。
復讐するほど傷ついているという事か。




たとえば、本当にたとえばの話だが、もしも僕がいつか何かにひどく落ち込む出来事に会い、この部屋のベルを押したら れあがインターホン越しに、「どっかへ飲みに行こうか?」と言ってくれるのではないか。


今まではそんな思いが僕のこころのどこかにあったかも知れない。(そんな事はあり得ないし、あったとしても、アメリカから帰る2年半以上も先の話になるのだが。)



そんな場所が胸のどこかに存在するのと蜃気楼になってしまうのとでは現実はまるきり違う。



アメリカ行きが決まり、どうしようかと れあに相談した時、


「貴方はやるに決まってるでしょ。こんな経験なかなか出来ないしね、
わたしは大丈夫。仕事の合間を見てちょいちょい通うからね。あー、向こうに行ける時間がいっぱい増える!有名な世界的スターにも会えるかも?
楽しみ~~。」


などと語っていた。


でも現実は遠距離ラブみたいになるよ、大丈夫?と聞くと


だって2年半でしょう?   新鮮に感じるかもね。あっと言う間だよ~。


と言っていた。




僕はどうしたのだろう、どこへ行くんだろう。
一体何がどうした?



天井の高いガランとしたパリのアパルトマンのようなその部屋をあとにして、
僕は残り僅かの仕事の始末に出掛けた。




頭の中がコンフューズしている。





車を降りても足元がふらつく。
プロダクションに出入りする人々に、何かがあったのかと悟られてはならない。



ビルの入り口で深呼吸をして、トイレで鏡を見た。
自分の心を見る事が出来たら廃人かと思うだろう。
しかしちょっと見には、やや疲れているくらいにしか見えなかった。



だが




僕は別れた女の行動に衝撃を受けて動揺し、
すべてにいっぱいいっぱいでボロボロになった
カカシみたいだったが、



プロダクションに入れば、
U.S.A行きを控えて前途洋々な、中堅どころになった俳優
を演じなければならない。





こめかみが痛くなり冷や汗が出る。




今日の予定が終わったら紳に電話をしよう。



夕方までヤツは映画館にいるかも知れない。
日本語の映画が見たい、と言っていた。





電話がつながるか不安で目眩がした。





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紳に誘われて行ったBarの客席は煙草の煙に包まれセピア色に曇っていた。




そこでは、




女優牧野礼愛の話は出ず、僕が映画のオーディションに一応通り、アメリカへ渡る事になっている日程の話に終始していた。



僕は華々しくも、当然ではあるが脇役に抜擢され、僭越ではあるがハリウッドの登竜門をくぐる事となった。



今回は2年半の契約で、脇役とはいっても、主役の俳優の相方の様な重要な役柄であり、
主役のオーストラリア出身の俳優は、以前日本の重鎮俳優と通訳と僕とスタッフ数人で浅草を案内し、両国で相撲を見て、恵比寿でディナーをした事もある。




当然僕としてはアメリカ行きに前のめりにならざるを得ない。
事務所を介してのオーディションも、そんな出来事が功を奏していたのかも知れない。



仕事となればハリウッドステージなどぺえぺえの僕は甘やかしては貰えないだろうが、小学校は4年間インターナショナルスクールへ通わされていた事もあり日常英語に不自由もなく、主役俳優とも顔見知りのため、不安はない。



実は小学校5年からは近所の紳と同じ所に通いたくてセントリリーインターナショナルスクールを退学した。本当はそこの小学校の方が家から近かったのに。


それなのに、紳は今でもその頃に一緒に遊んだ僕のクラスメイトのイギリス人やスイス人と仲が良い。
僕の方は学校をやめたと同時に友達は日本人一辺倒になったというのに。



紳はタンカレーのジンをあおりながら、世界を知っておいた方がいいぞ、などと言っている。酔いが回って舌が絡まっているし、フルボリュームの声だ。



「俺は日本で天才少年とささやかれ調子に乗っていたが、中学の時お前の母君にパリやモスクワに連れて行かれ、かなり打ちのめされたぞ。あれは完全にやられる。おのれを、否定されるぞ!」


などとハイテンションで説教する。


バレエだけやってきた紳が、中学生で世界を見て驚くのと、
小学校の頃から多国の子供達と過ごし、何気なく外国人の言動を見聞きしてばかりいた僕が、
30半ばになろうとして、才能に溢れた外国人を見て、驚くとか打ちのめされるとかなどあり得ない。
もう既に打ちのめされ、なめし皮のようになっている僕にプライドなど残されていると紳は思っているのだろうか。




煙だらけの酒場で自分達を見つけ、ひそひそやっている若者達がいる。


「帰ろうぜ、紳。」


支払いをして通りに出る。
道で車を待つ間、紳は通りの片隅で何度もターンをキメていた。長い腕を開いて回り、素晴らしい踊りっぷりだったが、
僕は少し離れた場所にいた。



夜を渡る風はさらに冷え込み、酒が急速に醒めるのを感じずにはいられなかった。




そんな時、タクシーの中でマネージャーからの着歴に気づいた。もう三時間も前になる。
紳との時間が楽し過ぎて気付きもしなかった、いつもはない事だ、三時間とは。


しかし、きっと仕事の話ではない。


一度だけか。



しかも留守電もメールも入っていなかった。



分からないが、少し胸騒ぎがした。



紳をマンションまで送ったあと、タクシーの中からマネージャーに電話をしてみる。
指先が震えた。



それは夜風にも増してさらに、酒が全く醒めてしまうような出来事のお告げだった。



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紳は やはり待ち合わせの割烹料理店に30分近く遅刻してやって来た。




彼は仕事に遅刻する事はけしてないが、プライベートでは滅多に定時にやって来ない!



僕は、仕事で移動に思わぬ時間を要してしまうと、たまにやらかす。
しかし、プライベートで遅刻はしない。



紳の方が正しいに決まっているが、彼は有名なバレリーナであり、開演が遅れるなど許されない事であるため遅刻をしない。

僕は収録の仕事がほとんどなので、たまにだが、頭を腰と平行にして現場入りする事がある。



しかし、紳はプライベートの待ち合わせに遅刻しても、頭を低くする事など全くなく、


「やー、久しぶりだな、早かったな、」

などと言っている。


ここの天麩羅屋の座敷に、僕らはもう、厨房横の勝手口から入ることが許されていて、客席を通らないから紳の顔を見る客などいない。なのに、ヤツはサングラスだ。


しかも、紳はバレエに詳しい者にしか知られていないが、TV出演の多い僕は既に面が割れている。なのにコイツはサングラスに帽子。まぁ、グローバルには紳の方が有名ではあるが、
キザなヤツだ。


しかし、そんなキザも含めて幼い頃から僕は紳が大好きだ。紳の方はどうか知らないが、そんな事はもうどうでもいい。



パリ公演での他愛ない話しを聞いているうち、思わぬ話題になって行った。


実はパリ公演に行った直後、向こうの有名なバレエ団の振り付け師が、ランスという街の出身で、れあの幼い頃を知っていると言い出したらしい。
少し日本語を話せる彼が、
「ニホンのゆうめいなジョユさん、小さい時、ウチの近くスンデマシタネ。同じセンセのグループでバレエやってた事もある。」
それが牧野礼愛なのではないかと、通訳出来るほと日本語の堪能なフランス人バレリーナの女性の仲介によって分かって来たという。




紳にしてみれば、れあがフランスで幼少期を過ごし、その後誰かの娘になったなどという話は寝耳に水の話題であり、
もっと、詳しい話しを聞くべく、公演の休演日に観光を兼ねてランスへ行ったのだと言う。




「知らなかっただろ?」


と聞く彼に、


「いや、知っていた。」



とだけ答えると、紳は一瞬絶句する程驚いていた。
彼にしてみれば、僕と れあはもうじき結婚する、知っておくべき事は知る必要があると思って聞き込みをするつもりで行ってくれたのだろう。


「知っていたし、もうそれ以上知る必要もなくなった。」


と、答えた。


「まさか、別れたのか?!」
慌てる紳は、その事が原因だと思っている。


しかし紳は話しを続けた。
ランスは古くからの教会が沢山残されているとても美しい街で、 れあの母親はある時日本から4歳くらいの女の子と生後半年くらいの赤ん坊を連れて街から少し離れた教会にやって来たという。


ここで、教会の様々な手伝いをするため、隣の敷地の小さな家を借りて住んでいたらしい。



4歳の東洋人の女の子は人目をひくほど愛らしく、教会に来る人々に一様に可愛がられていたという。


町の小さなバレエ教室へ通い、踊る事がとても好きで才能もあったという。


しかしある日、町に日本から叔母という人物がやって来て れあの母子の近所に住み、しばしば行動を共にしていたのを見かけていたが、半年ほど経ったある日、その女性と少女はその家から姿を消したというのだ。



その数ヶ月前、少女はあんなに好きだったバレエもやめて家に引きこもっていたとも周りの人々から聞いた。
振り付け師も日本語堪能なバレリーナもその他照明係の男性なども、紳と一緒にランスの観光に同行したため、色々な事を聞く事が出来たと言っていた。








もしかして、僕と れあが、あのまま結婚する事になっていたら、僕はその話しをもっと詳しく聞きたいと思ったのだろうか。



いや、それはないだろう。
結婚する事になれば、いつか追々、生い立ちや思い出を細かく知る事になっただろうし、ますます聞く必要もない。
紳の心遣いは、いずれ徒労に終わるものだった。


今はさらに、聞く意味もない。
ただ、
バレエを辞めた理由について、

彼女の左腕の、肘の内側の少し下にコウモリのような形の紅いあざがあり、
それがある日、バレエ着の袖がめくれあがった瞬間に他の少女に笑われてしまい、
れあは泣きながら帰ったという。


イツモ、ナガイソデのウエアを着てたので、ナゼ??
オモッテました。ホカノ子ミジカク、でもカノジョはナガイ、キニシテたのかな?


と、振り付け師が言っていたという。



「蝙蝠のかたちの紅い痣、覚えがあるか?」

紳は生真面目な顔をして僕を覗く。



こんな時の紳はますます好きだ。
日頃ふざけすぎのくせをして、いきなりマトモになって、瞳を覘く。
女だったらいっぺんにハートを持って行かれるだろう。

しかしこの時ばかりは、僕の方が余裕があった。

「記憶にないなぁ、コウモリだなんて。
全く、覚えがない。」


れあは、見かけより二の腕が太い、と言いわけして半袖やノースリーブをあまり着たがらない。
バスも一緒に入らない。
と言うより彼女は冬でもシャワーの人間だ。



本当に記憶がなかった。




そして、
紳だけには、本当の事を話した。


ファンレターをもらった女性を次第に好きになって行った事、

彼女に癒されて行った自分がいた事、

彼女と逢おうとして失敗した事、

れあと偶然に遭遇したため、彼女を傷つけてしまった事、

今後彼女をもっと好きになり、逢う事を決めた時は れあと別れてから行くと決めていた事、


そして、


逢う事を重ねる条件が揃って行った時には、きっと彼女との結婚を実現したい、と



紳に話した。




「バカか?」


紳はイカっていた。
「バカか、お前はガキか。小学校の頃からバカだと思っていたが、これほどとは思わなかった、何か れあともっと決定的な事があったのか、そうじゃないだろ、こないだまでいい感じだったのにいきなり頭がおかしくなったのか、夢でも見てるつもりか、そんなんはバレエの中だけで沢山だ。
イヤ、バレエストーリーだってもう少し現実的だし。
れあの気持ちを考えた事あるか、会ってもいない女をそんな風に好きになるなんて、中坊(中学生の事だと思う、多分。紳はたまに不良になれる。)と変わらない、いいのか、本当にいいのか、冷静になれ。



冷静になっていないのは、紳の方だったのだが、その動揺ぶりは予想を遥かに超えていた。


「来週末、その女性と逢うよ。」

僕はさらりと言った。

それしか出来なかった。




紳の心配は有難いが、

自分の中で自分を導いて行くもの。
自分にしかわからない自分を納得させるもの。
自分の事を必ず待っていると思うもの。
それが、僕をつき動かしているという事。


今夜は、紳にそれをうまく伝えることは無理だと思った。


そうだ、
れあとは平穏でありながらも、何故か時の流れの中で僕を待っている場所からするりといなくなってしまったような気がしていた。


僕が薗子を好きになっていったから勝手にそう思っているだけなのだろうか。



「行くぞ!」


気付くと紳が支払いをしていた。


「貴様のおかげで天麩羅の味がわからなかった。
バーはお前のおごりだぞ!
もう、女の話は終わりにして未来の話しでもしようか。」


紳はさっぱりしている。
それとも
カラ元気なのか。



裏通り、勝手口に車を呼んでもらっている。
紳も薄着だが、僕も負けない。
ビルの吹き下ろし風で酒が醒めると紳が言った。
僕は酔っていなかった。