薗子と逢うまで24時間を切ってしまった。








今日はU.S.Aでの仕事の流れ、困り事の場合の、事務所や担当の連絡先などの軽い打ち合わせがあった。
どうやらこの業界の人間に、緊急な相談事がある場合、何でも対応してくれる日本人がいる事も知った。




又、向こうに借りてもらった部屋は1Kにしては広い、ただ環境はあまり良くない、などの話しを聞く。




夜になり、珍しく家族で食事に出たが、
母親は今回の事で、少し衝撃を受けていたようだった。

(アメリカ行きの話ではない、女と別れた話だ。海外は本人も何年も暮らしている。)

父は涼しい顔でコース料理を平らげ、ワインのボトルを2本開けていた。
いつになくご機嫌で、僕の御栄転をノーテンキに喜ぶ父がフシギだった。
父にしてみれば、男は仕事、恋愛など二の次と言う考えなのだろう。


僕にとっては、
恋と仕事は別々のものではなく、一本の線の上に両方が危なげに乗っているものだ。

分けて考える事など、出来ない。




明日。




僕は薗子を見るだろう。




そんな話も出来ないうちに、

「向こうでの食事にお気をつけなさいね、」
と心配ばかりする母親に父は、



「そんな事、君は心配する必要ないさ。」
とまだビールを注文し、ただ笑うだけだった。












「起きてるか!!」



耳元で叫ぶ紳の声に起こされた。

イヤホンで音楽を聴きながら寝て、寝ぼけたまま電話を取ったらしい。
初めてイヤホンで聴くヤツの声がバカでかい事を知る。




「横浜に12:00だろ?道が渋滞するかも知れん。
早めに来いよ、俺は約束のカフェに行っているぞ。」


何だ、寝坊の紳から朝7:30に電話だ。


昨夜、両親と食事をした後アルコールが回っていて、紳に逢いたいと電話したら、新しいガールフレンドと飲んでいる、明日逢えるだろ。と断られた。



ヤツはその事を気にしているんだろうか、




それとも。









本当に僕の事を心配してる?




まさか。


彼に恋愛の光と影など、
有頂天の幸せと深い奈落の闇など、
理解できるわけがないだろう。






「何だ、スッキリした格好をしているな。」



紳は本当に時間より早く来ていた。
「9:30 瀬田な。」


と言っていたのに、9:20  彼はもう、コーヒーをすすっていた。紳との数え切れない待ち合わせの中で、ヤツが先に来ていた事など、ただの一度もないと記憶している。




「眠れないのではないかと思っていたが、
紳の電話をもらうまで撃沈していたようだ。」

「何気に両親と食事に出かけるというのも気を使うだろ。」


と彼はわかったような口をきいていた。


紳は幼い頃父親が病死して、母は看護師として働き詰めだった。
しかし、ウチの母が僕と一緒に遊ぶ紳を見てバレエをやらせるように紳の母に言ったのだ。
多分、忙しい母親から少しでも子供を預かってあげられれば、という思いと息子のライバルがいれば息子もバレエが上達して一流になるかも知れないという思いだったかも知れない。彼の2才年下の妹もレッスンに来ていた。



しかし母の予想に反して、
紳は稀に見る才能とバレエに対する勘とセンスの良さ(母の解説)
天性のものと他には見せない努力との両方で、人の心をわし掴みにする(母の批評)
事がわかり、そのうち母の熱意は全て紳に傾けられた。

紳の妹はバレリーナには向いていなかったが、彼女が16才の時手作りの美しい服を着ているのを見て、厳しいデザイン専門学校へ通わせ、母のバレエ団の専属衣装デザイナーにさせた。



そんなわけで、紳の母親や妹は今でも母にとても感謝しているが、
僕はたまにこれで良かったのか、と思う。


それは紳が時折、俺の人生はお前の母君に してやられた、などと言うし、(もちろん、冗談だ。)
紳が忙し過ぎて、次第に年取って行く母親のそばにいてあげられない事も気になる。



今の華々しい活躍を見て、紳がバレエ以外にゆく道があったとは、とうてい思えないが、
舞衣 (紳の妹の名だ。まるでコスチュームデザイナーになるために生まれたような名だ) は、うちの母にレールを敷かれた感がある。



鉄は熱いうちに打て、と言うでしょう?と母は言っていたが、
人の家の子供たちを熱いうちにおとぎ電車に仕上げて、自分が敷いた線路以外を走らせない教育をしてしまったのではないか、



と考えてしまう時がある。



だから紳は自分の母親に精一杯の気を使っているのだろう。
今は母親は舞衣と暮らしているが、その舞衣自体、去年の衣装デザインコンテストで賞を獲り、母のバレエ団だけでなく、今やダンス、演劇、ショースケート等の仕事も忙しい。


そんなわけで、紳の母親には申し訳ないと思うばかりだ。
女手一つで必死に育てたのに、子供たちは自分に構えないほど忙しいとは。




しかし、女同士は僕には全く理解不能だ。
相変わらず小さな病院でチャキチャキ看護師をして働いている紳の母親は、うちの母をどんなに感謝してもしきれないと言い、休みの日にはお互いに息子の悪口などを大声で喋り、盛り上がっている。







新しく出逢った紳の女友達の話しを聞いたりしているうちに、カフェの時計は10:30をまわっていた。



ここはトレーニングジムに隣接しているため、日曜の朝も早くから一汗かいた人々がジュースバーにやってくる時間になっていた。




「駅まで送るか?」




まだ早めではあるが
紳が言う。
なぜ、こんな早めに言う?



しかし確か紳は、道が混むぞと言っていた。
もしかしたら・・・。



「紳、頼む。  横浜までついて来てくれ。」




「送ってくれ、だろ?」



「いや、ついていてくれ。ギリギリまで一緒にいてくれ。」



何だか心臓の音が頭の中に聞こえていた。




「しかし、女の事でそんなにドキドキ出来るなんて、羨ましい限りだぜ。」

車のバックミラーを微調整しながら彼は言う。


僕は、
あんな事 ( れあが部屋を出て行ってしまうような。)になってしまったから、手紙の彼女が想像と違っていたら、ああヤッパリ、、、
と落ち込むだろうし、
想像以上だったとしても、これでいいのだろうかと先を勘ぐる事になるのかも、とつぶやいた。




お前は面倒くさい。


紳は言う。



そうかも知れないが、第三京浜を飛ばし過ぎだろ。
そんなに、車線変更しなくていいよ。


今度逢う女子がお前が思っているのと違っていたら、
「又、アメリカからTelするね。」
ハイ、終わり。
 想像以上の女だったら、
「遊びに来る?アメリカに。向こうを少し案内するよ。」
旅費はお前持ちだ。



どう?
簡単だろ。


僕は紳みたいに簡単じゃないよ。


俺だって、きっと簡単じゃなかった、昔の昔はね~。




そうだ、中学の頃紳には大好きな女の子がいて、悩み抜いて告白した。そうしたらそのコは好きな人がいると言い、それが僕だった。


よくある話しだが、僕はその子に全く興味がなかった。
僕の事を見ているとも思っていなかった。
存在自体希薄だったと言ってもいい。
隣のクラスだ。



しかし、紳はひどく傷ついたに違いない。
それ以来、誰かを真剣に好きになった事などないような気がする。



「恋など遊びだ。」



「愛など身投げだ。」



紳はあの頃から女性に対しては別の人格になってしまった。



僕のせいだ。




その思いは今も僕の中から消えてはいない。





だが、そういう生き方をして来たから今の俺がある。
と、彼は言う。女にうつつを抜かしていたら今はない、と。



だから、女に対する歴史が変わったのがお前のせいなら、仕事での成功もお前のおかげって話しになるだろ?


ところがどっこい、どちらも違う。どちらも俺のおかげだ。俺が俺をプロデュースしてる、と

紳は言っていた。




「いかん、もう、出口だな。」.

「もう?」




早かった。
紳との時間はいつでも楽しく早いが、今日は時間が早く過ぎて欲しくなかった。






初めてだった。
高速の出口を出る時、別の世界の入り口に入って行くような気がしたこの感覚は。




とうとう。




ここまで来てしまった。





何故かそう考えていた。







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れあが一緒に暮らした部屋から消え

ひどく落ち込みはしたが





きっと、人々はこんな身体の一部を失ってしまうような出来事に皆出逢いながらも日々を過ごして行っているのだと、
当たり前とも思える事柄に、畏敬の念を抱く。








彼女は父が言うように、
僕の心の初恋の女性(ひと)であり、
俳優へ行く道の指標であり、
憧れの女でもあり、
何より僕の心の中では、大好きな負けず嫌いの少女だった。
貧しく傷だらけで不遇の中でひとすじの光をいつも見つめている、そんな
僕の会った事のない、とても稀な人だった。



けれど、僕の中からもう、彼女は羽ばたいて行ってしまったみたいだ。


僕は事実上 れあを振ったかの様だったが、
現実は彼女に捨てられたのではないか、




紳が聞いたら怒り狂ってしまうような考え方かも知れないが、


僕はふと、そんな事を考えていた。





しかし考えれば考える程に、どこか心は落ち着いて行った。
僕が離れたのではない、
彼女が僕にケリをつけたのだ。



僕が思っているほど、彼女は僕を評価していなかったのではないか。
僕は僕なりの愛を貫いていたつもりだったが、




もっと、愛していると言うべきだったか。
もっと、女優の彼女を賞賛すべきだったか。
もっと努力してもっと金になる仕事をすべきだったか。




そんな事はない、
そう思いながらも 珍しく仕事がオフである今日、僕は孤独の中にいるのも現実だった。




公園に出てみようか。



空は抜けるように高く、
晩秋は僕の孤独をさらに追い詰めてゆく。

舞い散らかし、乾燥した木の葉の中に立っている僕は、くるくる回りながら木の葉の中にフェイドアウトして行く。






れあ、君と生きたかった、
君とこれからの、、すべてを、、一緒に、
、見たかった。
もっと、君と居たかったのに、



許してくれ。








どこでどうしたのか、夕刻が近づいていた。
秋の日は早い。





8時頃から僕を送る会があったっけ。
仕事仲間やら、役者友達やら、スタッフ
やら色々だ。



何だか憂鬱な気分だ。

れあの事も薗子の事も




話せるメンバーなどいない。



紳に逢いたかった。
何も話さなくていい、紳のそばに居たかった。









パーティー会場は、坂の途中にある赤坂のリストランテを貸切ってのものだった。


僕が定刻に現れると、皆はサプライズするために、既に殆どの人々が集っており、
花束やらクラッカーやらのぼりなどが支度してあった。




そこでの話題は向こうでの仕事や生活の話に終始していたが、中には れあは仕事をどうするのか、とか完全に遠距離生活をするのかなど、立ち入った話しになる人物もいた。

そういう人々は僕と仲も良く、仕事がらみで聞いておいた方が都合がいい男性が多く、女性の役者や業界人は何故かその話しは訊ねて来ない。



しかし、僕は向こうでの彼女との生活について返答するのに、しどろもどろしていた。





そんな僕に助け船を出すように、大きく活けられた華の陰から、俳優の福澤暦(ふくざわ れき)が現れ、


「来週発売の週刊誌に二人の記事が、出るのか?」

と、ビールグラスを両手に持ち、片方を僕に押し付けるようにした。



彼流の優しさだ。



黙って返答を聞こうとする数人と、人に呼ばれた振りをして席を外す紳士達と、何も知らず挨拶に来た人々で僕の周りに二重くらいの輪が出来ていた。

非常に苦手な空間が訪れ、
それぞれの温度差がバラバラな人々を、嫌でない気分ひとつに僕はまとめなくてはならない。




「部屋を引き払ったという噂が出ている。」



と、先輩俳優の レキが言うと、
周りの人々は静かになり、ますます
やりづらい空気感に包まれて行った。

しかも、、
週刊誌の話しを僕は知らなかった。








「ですね、とりあえず、生活が、離れ離れになってしまうので、お互いちょっと距離を置いて、お互いの事を考えるのに大切な時間を作ろうと、話し合って決めたんですが。」




嘘つき!




お前はうそつき野郎だ!




心の中で誰かが言っている。



彼女を傷付けておいて、まだ自分を擁護しているのか!





別れの理由は僕がアメリカへ行くからじゃない、二人で話し合って決めたわけでもない、二人で予定してあの部屋を引き払ったわけでもない、、、



って、言うべきか?
僕が振ったんだよ、他の女が気になって、
文通してた女子が気になって、
だから何年も一緒に暮らした女を捨てたのさ、
皆さん、新しい女とのこの先を乞うご期待!




とでも、言うべきか⁉︎!




ふざけないでくれよ!



いい加減にしてくれ・・・。






「まぁ、お互いを見つめなおす、本人達の気持ちを本当の意味で確かめる、結婚についても考えるのに、とてもいい機会なんじゃない?」



空気を割って入り、レキが言った。

場はなんとなく、和やかな雰囲気が広がって行くのが、感じられた。


正直助かった。


僕の発言と週刊誌の内容があまりにもかけ離れていたらどうしよう、などと動揺していたが、
今後週刊誌にどのような記事が出ようとも、本人および福澤暦から発信のコメントは、意味を持つに違いない。
少なくとも、この業界内には。





本当はあのバカ男に振られたのよ、
と、  れあが言いたければ言えばいい。



それは、今後の彼女サイドの話しだ。






スタンディングパーティーで、沢山の種類のグラスを空けたが、少しも酔えなかった。





しかし、二人の別れについて言及出来る場を持てた事は逆によかった。




あのまま、適当な答えをしてゴシップに至ったら、
パーティーに来てくれた大切な仲の人々に、
本当に適当なヤツと思われるか、
本心を明かさない注意人物と思われるか、
表向きだけの、友達になるには適さない人間と思われるか、
果ては、
実は女関係にだらしない、女性の事など大して真剣に考えてもいない男、
と思われたかも知れない。



取り敢えず、別れを説明しておいてよかった、
ゴシップも出る事がわかっていて良かったのだ。



同じ事務所に親切な先輩俳優がいて、僕は救われた。





足をひっぱるヤツもいないではないが、たいがい周りの人々に恵まれていて、
こんな風に有難いと思う事ばかりだ。


そんな人々に向けて、
これからも、こんな僕をよろしくお願いします、と挨拶をして
終わりは気分のよいパーティーになった。




帰りのタクシーの中で、




紳がバレエ仲間と六本木で飲んでいる、
画像付きのLINEが来ていた。




「 明後日、逢えるんですね。
    嬉しいです。」




薗子からのメールも来ていたのを見る。


いつも。


彼女の短い言葉の中には優しさがあふれている。









パーティーの時間が押して夜が更けていた。



紳は合流しないかと誘って来ていたが、






僕はあらゆる車のテールライトが流れているのをぼんやり、やり過ごしながら、




ひとり帰路についていた。




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紳、助けてくれ!



夕刻になり、ようやく電話に出た紳にすがりつくような思いで僕は声を出していた。




何だ、お主のおかげで映画をもう1本見損なったぞ。
などとふざけている紳に


紳、お願いだ、僕を責めないでくれ、仕方がなかったと言ってくれ、時間が僕をそこへ導いたと、きっと又いい展開になる日も来るさと、自身を持って前へすすめと言ってくれ、肩を抱いてくれ、








堤防が決壊したかのようにたて続けに
喋った。



おやおやおや、
どうした坊や。
まぁ、会って話しを聞こうじゃないか。



バカにした素振りを見せながら実は紳は僕の動向をひどく気にしている。



えっと~、お前どこにいる?
俺がそこに行くわ。



後で気づいた事なのだが、僕がバカな事をしたらかなわない、電車は使わせない方がいいという配慮だったのか。



まさか、僕もそこまでは行っていなかった。
僕がひらりとやったら、皆に迷惑をかける。電車で移動する人々も、親にも友人にも仕事関係者にも事務所にも(事務所は迷惑どころの話ではない。金がらみになる。)ましてや れあにも。死にたいのは れあの方だ。



薗子にもだ。
れあが引っ越して僕が死ぬ?
じゃあ来週約束している薗子は何なんだ。
これ以上の自分勝手が許される訳がない。



有楽町あたりからやってくる紳は中央線で来るのだろうか。




僕は中野のブロードウェイの中にいた。
なぜか、ここに来てしまっていた。




僕に鉄道を使わせない、


紳はそこまで僕を思っているのだ、思ってい過ぎだが、何だか胸が熱くなった。




そんな紳は僕に逢うなり、



死んだ鳥のような目をしているぞ、と言う。

死んだ魚とは言うが、死んだ鳥の目は見たことがない。
大体 鳥が死んでいる場合、ふつう、目はつぶっていないか。



オイオイオイ、お前がそんなすがりつくような態度をすると、ありし日の自由研究の工作を思い出すぜ。



そう言えば小学五年の夏休み最終日に紳を呼び出し、助けてくれと言った事を思い出した。
考えていた工作が失敗し、材料の殆どがダメになった。
どうしたらいい?動揺する僕に、ヤツはリビングの中を見回し、これ使っていいか?と音叉を手に取った。それを自作の木箱に穴を開けて糸で吊り、そのすぐ下にハトロン紙を貼った。そして表側に機械の様な絵を丁寧に書いて、

これで良し!だぞ。

と得意気に言った。



これは何⁈  と聞く僕に紳は

宇宙と交信する道具!  と答え

家での実験通り、学校でも ラ の音をピアノで弾くとハトロン紙が


ビーーッ‼︎

と鳴るのであった。

クラスの皆はこの作品に大いに感動し、唯一ロン毛を縛って登校する事が許されていたらしい図画工作教諭のストレンジャーも、手を叩いてブラボー!と叫んでいた。


しかしこれが紳の作品である事は自分達二人しか知らない事実だった。



他は全て僕の成績が勝っていたが、工作だけは紳の方がズバ抜けていた。僕が教壇から見た、あの作品が発表された時の椅子にそっくり返った紳の得意そうなツラ構えはまだ脳裏に焼き付いている。





又、あの得意気な顔になるのだろうか、僕が紳に泣きつくのはあの時以来だ。





僕らは込み入った話しをするため、カラオケルームへと移動した。



こんな所へ来るのは高校以来じゃないか。
何か歌おうぜ。


とてもそんな気分じゃないな。


当然、紳はもっとそんな気分じゃないはずだ、ウソツキのまばたきが増えている。








れあの部屋がカラになっていた事を話す。



だからお前はバカだと言っただろ?
もっと簡単に考えていたんだろ、又逢えるとか。
礼愛はそんな間抜けじゃないぞ、お前みたいにおメデタくてノーテンキな女じゃないぞ。
この事に、ガッカリしてるのか?
落ち込んでる?
笑わせないでくれよ、あー誰が聞いてもお笑いな話しだよ。
それでお前が今にも泣きそうな顔をしてる?
いい加減にしろ、礼愛はお前のお袋さんじゃないぞ!!
何十年も一緒にいるが、今日はもう、情けなさがMaxだぜ!!!
お前ほどサイテーな男を見たことがない。




紳は怒りまくっていた。
得意そうな顔どころじゃない。
   


折しも隣の部屋から

女々しくて女々しくてツラいよ~~ぉ。

と聞こえている。



少しして冷静になった紳は、ポツリと


しかしあの部屋を出て行くとはな~~。
お前の動揺も全くわからんではない。


と、考え込んでいるようだった。



紳は紳で、何度もぼくらの部屋に遊びに来ていた頃への思いがある。
一緒に朝まで酒を飲んでいた。
音楽をかけて皆でサンバを踊ったり、
仲間でハロウィンパーティーをしたり、
ケーキを焼いて日曜午後のお茶をした事もある、その当時の紳のガールフレンドも一緒に。


ここは、この部屋だけは、
パリみたいだ。とのたまい、窓からわずかに見える東京タワーを
あれがエッフェル塔だったらなー。と
遠くを見る目をしていた紳だった。



僕は二人の部屋は映画 ゴーストのニューヨークの部屋みたいだと思っていた。
れあはデミ・ムーアには似てないけど。




しかし、もう何もなかった。



あの部屋に何もない事が想像できるか 紳、と尋ねてみる。



「出来ないな。     想像もしたくもない。」



何だか涙ぐんでいるようだ。
少し意外な反応に戸惑った。
僕も泣いていないのに、
紳が泣くのか。



けれどきっとそれは
紳が自分の芸術への情熱を傾けて止まない時期の
皆が、集まってバカな事をやっている時間が楽しくて仕方ない頃への懐かしい思いなのだと、


勝手に理解する事にした。




お前はカラの部屋を見に行っちゃいけなかった、そうだろ?
俺なら行かない。鍵を返す、終わりだ!



なぜ、紳はそんなに親身になる?
確かに。あの空白を見て、僕は自分も空白になってゆくのを感じた。


しかし、見に行かなければ、もっと別の後悔があっただろう。
そして自分の心の中に、自分でも気づかない未練があったのもこの事によって気づかされたのだ。




いつか、
女優 牧野礼愛が、どこかへ住まいを移したと人づてに聞くのだろう。それはU.S.Aに渡ってからの事かも知れない。



けれどそれは、自分の知っている部屋に住んでいる れあではなく、

自分が知らない部屋に住んでいる全く知らない牧野礼愛という女だと気づかされてしまった。




もう、



れあはどこにもいない。

虫のいい話しだが、引っ越しをするのは、もう少し待って欲しかった。

だからどうというのではない。


せめて僕がアメリカへ行ってしまってから。



バカか!

紳は言う。それなら礼愛がもっと寂しい思いをするんだ。
あの部屋で、海の向こうへ行ってしまったお前を思って。
突然振られてひどい目にあった彼女が、なぜそんな悲しい思いをしなければならないんだよ、自分の事だけ考えるのはやめろ!
お前がなぜそんなにネガティヴなエゴイストになっているのか、

今回だけはわからん。いつものお前じゃないぞ。





僕らには僕らしかわからない事もあるよ。

ぽつりと呟いた。



そうだな。

紳は珍しく神妙になっていた。




れあはある頃から、僕が一生を共にしたい れあじゃなくなっていたんだ、彼女自身、僕と結婚したいと望んでいる女でもなくなっていた。


何がどう変わったというわけでもない。
態度も言葉も優しいままだ。結婚の話も相変わらず時折出ていた。


だけど、わからないんだ、どうしても。
どうしてこうなったのかも。



何かが、違う、ってやつか。
まぁ男と女、どちらかがマンネリして別れる時はそんなもんだ。
お前は手紙の彼女が気になっていたんだろ?





僕は紳とは違うよ。




とだけ言った。

数々の女性と華やかな恋愛をして、(ルーマニア人もいる、東南アジアの女性も。)ミュージシャンやモデルやもちろんバレリーナもいる。
そんな沢山の彼女たちとほとんどトラブルもなく別れ、今でも友達のように付き合っている紳の器用さは、あの頃の工作にも匹敵する。



そんなヤツと僕とは女性観が全く違うはずだ。


れあと暮らし出してからもただの一度も他の女性と浮気をした事はない、あの世田谷喫茶店事件を除いては。





手紙の彼女とも逢う事がためらわれる




と紳に打ち明けると、



「それは行け。 自分を確かめるためにも、自分にケリをつけるためにも、海外に行く前に色々ケジメをつけるためにも、行っておかないと後々後悔するぞ。」



そうだ、そうだった。
れあが引っ越してしまう前はこの事にもっと前向きだったはずだ。
すべて
自分が決めた事、自分が蒔いた種だ。
グズグズしていては先へ進めない。




もぬけのカラのようになりながらも紳に背中を押されながら、

今度の日曜手紙の彼女に逢うが、その前に一緒にいてくれと頼んでみる。



早起きは苦手だが、朝カフェでもするか、と紳は微笑んだ。
早く帰国したおかげで、数日は稽古もない、お前はラッキ~ボーイだ、とこじつけて笑っていた、そして、




お前には俺がいる。



いつだって、、、いるぞ。



紳の乱暴な優しさに目を見る事も出来ず頷くだけだった。




その晩中野の焼き鳥屋で軽く一杯やり、
まだ宵の口のうちに別れる事になった。





海外に航空便で送る荷物を何箱かつくらなければならない事を忘れていたからだ。




木曜日の夜も、繁華街ではこれから飲む人々が流れていた。