前回も 『お久しぶりです』でした。


その後 また ぽっりぽつりとでも

投稿しようと思っていたのだけど


結局 また『お久しぶりです』に

なってしまった。


夫との夫婦の話や 華恵さんの事より

介護のことを書くことが多くなるかも…

なんて思っていたけど


介護のことも 書くことなく

桜をみるのを楽しみにしていた父は

桜を見ることなく 他界しました。


既に49日の法要も終え 骨も墓に納め

父が亡くなった後の慌しい日々も過ぎ

いつもの日常にもどってきています。


私は 父が亡くなった後も

ほぼ毎日 実家に顔を出しています。


闘病中も 今も感じるのは

もしかしたら 父の闘病生活が短かったから

尚更なのかもしれませんが

私の両親は 

私が『こんな夫婦になりたい』と憧れた

本当に素敵な夫婦だって事。


私は両親のような夫婦に なれなかった事が

悲しく悔しく感じずにはいられません。


やり直しているのだから 

まだ最後まで わからないって?


やり直して5年目…華恵さんを思い出す事は

前よりも減りましたが

フラバもあるし 思い出して眠れない日や

涙がとまらくなったり 

消えてしまいたくなる時も なくならない。

近くに華恵さんが居るのだもの、

忘れることはないし 

夫との間にできた溝は一生埋まらない

…ような 気がしています。


書く余裕ができたら

私の両親の話を書きたいと思っていました。


また 向日葵の種の

ダラダラと長い まとまりのない

とりとめのない文章になると断言できますが

お付き合いいただけると幸いです。





去年の12月

父が病院から帰ってきました。


病院では 『本当に家で介護するんですか?』

と何度も確認され

『想像以上に大変ですよ。

 他の病院に転院させることも選択肢の1つに

 考えてみてください』

と言われましたが 母も 私も妹も

父を家に帰す事に気持ちは決まっていました。


もし父が このまま元気になることが難しく

介護の状態が続いたとしても

母が自ら父を病院に預けようと言うか

私達が見ていて 

続けば母が倒れると感じたりして

このまま母に介護を続けさせたくないと

決断することがない限り

母の事を できる限りサポートし支え

父が喜ぶように何でもしてあげたいと

私も妹も思っていましたし


自分たちも後悔が残らないように

可能ならば 父の最後の時は

父の自慢の我が家で静かに迎えさせてあげたい。

その為に精一杯 やれることをしようと

妹と互いに意思を確認しあっていました。



父は家に帰りたがっていたし

一日も早く母は父を

家に帰してあげたいとおもっていました。


ただ1点母が心配したのは

介護に慣れない状態で

医療機関が年末年始に長期休みに入る事。 

その間 父が体調を崩したら…という事でした。


ですから その時の父の退院は

その不安を除くように病院と相談し

とりあえず 年末には一度病院に戻ると

決めての退院でした。


自宅介護する時は定期的に診てもらえる

訪問医の先生がいないとだめなのですが

まだ訪問医療をしてくれる医者を決めておらず

病院からは 本当に家で介護ができるのか

介護しながら考える期間にしたらと言われた

お試しのような退院でした。

病院が心配したのが当然のように

その時の父の状態は家で介護するのは

大変な状態だったと 今はわかります。



もう自力で歩くことどころか 

起き上がることもできなくなった父は

介護タクシーで帰ってきました。


部屋に父の顔を見に行くと

慣れない移動で疲れた顔をしていました。


それでも『おかえり』と言うと 

細く弱々しくなった父でしたが

少し口角があがり

久しぶりの我が家を喜んでいるようで

父の顔をみる母の顔も嬉しそうでした。


父が帰ってきてからの 少しの時間数時間

つかの間の 穏やかな時間でした。


それからまた入院するまでの

家での生活は ほんの2週間ほどでしたが

介護が大変だと 知るには充分な時間でした。