平城宮の東南角に隣接する約30,000m2を占めていた邸宅から

ずいぶん離れたところに埋葬された長屋王。

 といっても、『続日本紀』には生駒山に葬られると記されて

 いるのみ。

 伝承によって明治34年に平群町梨本を宮内庁が治定する。

訪れた時、真新しい花束がひとつ供えてありました。

悲劇の宰相「長屋王」といわれる所以でしょうか。

 

天皇の命によって編纂された歴史書『続日本紀』(797年)の

第10巻に長屋王の変の顛末が記されています。

 『続日本紀』

 文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで

 95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。

 第10巻は聖武紀二 神亀4年正月~天平2年12月まである。

 

神亀6年(728)2月10日

 左京の人漆部造君足、中臣宮処連東人等が

 長屋王の謀反を帝に密告。

 その夜、使いを遣わせて三関(鈴鹿・不破・愛発)を

 固く守らせる。

 宮廷の軍隊が長屋王邸を囲む。(数百名)

 ※君足は従七位下、東人は無位です。

 

神亀6年2月11日

 舎人親王、新田部親王、大納言多治比真人池守、

 中納言藤原武智麻呂、(藤原4兄弟の長男)

 右中弁小野牛養、少納言巨勢宿奈麻呂等を

 長屋王邸に遣わし、其罪を窮問する。

 

神亀6年2月12日

 長屋王、自邸で自害。

 吉備内親王、下膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王等、

 自ら首をくくって自殺。

 

神亀6年2月13日

 長屋王吉備内親王、生馬(いこま)山に葬られる。

 

神亀6年2月21日

 密告者の

 漆部造君足 外従五位下に昇進。
 中臣宮処連東人 外従五位下に昇進。

 

天平10年7月10日

 左兵庫の官人である大伴子虫が

 右兵庫の長官中臣宮処連東人と

 話が長屋王のことに及んだ時、

 口論となり斬殺す。

  ※大伴子虫はもと長屋王に仕えていました。

 

編年体の勅撰史書『続日本紀』ですが、

わずか4日間で天武天皇の孫で左大臣の長屋王が

この地に眠ることになってしまったのは周到に

仕組まれたことなのでしょう。

本の中では「東人は長屋王の事を誣告せし人なり」と

記されています。