エピローグ 未来に触れる手

春の匂いがした。

大学のキャンパスは、新しい時間で満ちている。

谷咲潤は、白い箱を抱えて歩いていた。

模型だ。

あの日から作り続けている。

変わったことが一つだけある。

もう——未来は動かせない。

それでも潤は、以前より迷わなくなった。

展示室の扉を開ける。

「お、来た来た。」

池崎智香が手を振る。

相変わらず美人で、相変わらず手先は壊滅的だ。

だが今は、美術教育を専攻している。

「遅いよ潤!配置もう決まっちゃう!」

「ごめん。」

箱を開ける。

中にはジオラマ。

高校の校舎だった。

グラウンド。

体育館。

渡り廊下。

そして、小さな人影が四つ。

智香が覗き込む。

「……これ、私たち?」

潤は頷いた。

城は遠くの大学へ進み、サッカーを続けている。

山本は警察官を目指していると聞いた。

みんな、それぞれの未来を歩いている。

あの頃みたいに、同じ場所にはいない。

それでも。

不思議と寂しくはなかった。

「ねえ潤。」

智香がジオラマを指差す。

「この子だけ、ちょっと前に出てる。」

見る。

小さな人影。

確かに、半歩だけ前にあった。

潤は触れていない。

触れた記憶はない。

胸が、わずかに鳴る。

試しに手をかざす。

動かそうとは思わない。

ただ、見つめる。

——動かない。

潤は小さく笑った。

「たぶんさ。」

「これは未来じゃなくて、“意思”だよ。」

智香が首をかしげる。

「なにそれ。」

「誰かが前に進もうとした跡。」

その瞬間。

潤は理解する。

あの三秒の正体を。

未来を変える力なんかじゃなかった。

可能性に気づく力だった。

人は毎秒、無数の選択をしている。

気づかないだけで。

あの力は——

ただ、それを少しだけ見えやすくしていただけ。

「潤、なんか顔大人っぽくなったよね。」

「そう?」

「うん。高校のときより、ずっと。」

潤は窓の外を見る。

春風。

揺れる木々。

世界は予測不能だ。

でももう、怖くない。

なぜなら。

未来は決まっていないから。

どこへでも行ける。

そのとき、智香が笑った。

「ねえ潤。」

「次はさ、もっと大きいの作ろうよ。」

潤も笑う。

「いいね。」

もう未来を動かそうとは思わない。

代わりに——

自分の足でそこへ行く。

潤はジオラマの中の小さな自分を見る。

半歩前に出た少女。

あれはきっと、

あの日の自分だ。

三秒を失った日。

本当は、手に入れていた。

未来を恐れない心を。

潤はそっと呟く。

「未来に触れる手は、もうここにある。」

胸に手を当てた。

鼓動が答える。

進め、と。