記録は、誰のものか
暗闇の中で、音だけがしていた。
カリ……カリ……
鉛筆の先が紙を擦る音。
ゆっくりと意識が浮上する。
ここはどこだ。
白い天井。
知らない部屋。
体を起こそうとして、違和感に気づく。
軽い。
いや——違う。
現実感が薄い。
視界の端が、わずかに滲んでいる。
夢の中みたいに。
机の上に、黒いノートが置かれていた。
見覚えがある。
震える手で開く。
そこに書かれていた最初の一文。
観測対象:相沢 湊
喉が凍る。
ページをめくる。
そこには、これまでの出来事がすべて記録されていた。
健太が消えた日。
榊が異変に気づいた瞬間。
潤が「世界は上書きされる」と呟いた夜。
そして——
琴乃の文字。
間違いない。
あの、整った筆跡。
ページの最後。
新しいインク。
観測者移行を確認。
記録を継続する。
理解が追いつかない。
そのとき。
背後で、椅子が軋んだ。
振り向く。
少女が座っている。
ショートカット。
見覚えのある横顔。
「……白石?」
少女はゆっくりこちらを見る。
でも。
目が合ったはずなのに。
反応がない。
まるで——
俺が見えていない。
胸がざわつく。
「白石、俺だ。相沢だ」
届かない。
琴乃はノートに何かを書き込んでいる。
静かに。
淡々と。
感情を切り離したみたいに。
ページを覗き込む。
そこに書かれていたのは——
観測者は、完全に観測対象へ移行した。
彼はこちらを認識しているが、
私を観測することはできない。
心臓が強く打つ。
つまり。
俺はもう——
向こう側の存在。
「なあ……嘘だろ」
声が、空間に吸い込まれる。
その瞬間。
琴乃の手が止まった。
ゆっくり顔を上げる。
そして。
何もない空間を見つめて、こう言った。
「……相沢くん?」
呼吸が止まる。
見えていないはずなのに。
琴乃の目から、涙が一筋こぼれた。
「変だな……」
小さく呟く。
「もう観測できないはずなのに」
ノートに、新しい文字が浮かび上がる。
観測不能領域に、反応あり。
世界がわずかに揺れる。
そのとき、初めて気づく。
部屋の壁一面に、黒いノートが並んでいることに。
何十冊も。
いや——何百冊。
すべてに名前が書かれている。
知らない名前。
知らない人生。
知らない消失。
そして中央の棚に、一冊だけ。
まだ真っ黒なノート。
表紙に、ゆっくり文字が滲む。
観測者:未定
背筋が凍る。
琴乃も、それを見ていた。
震える声で言う。
「終わってない……」
静寂。
やがて彼女は、ノートを強く抱きしめた。
そして、誰にも聞こえないはずの声で呟く。
「大丈夫」
「私が覚えている限り、相沢くんは消えない」
その言葉だけが、はっきり届いた。
世界が、少しだけ輪郭を取り戻す。
——理解する。
存在とは、記録ではない。
誰かの記憶だ。
鉛筆が転がる。
カタン、と音が響く。
ノートの最後のページ。
新しい一文が現れる。
観測は、連鎖する。
窓の外で、誰かの笑い声がした。
まだ始まったばかりみたいに。
この物語を読んでいるあなたは、
今——誰を観測していますか?