・なぜビジネスパーソンが「哲学」を学ぶべきなのか?理由は大きく、次の4つになります。①状況を正確に洞察する。②批判的思考のツボを学ぶ。③アジェンダを定める。④2度と悲劇を起こさないために。
・①状況を正確に洞察する。哲学者の残したキーコンセプトを学ぶことで、この「いま、何が起きているのか」という問いに対して答えを出すための大きな洞察を得ることができる。
・近代の教育システムに慣れ親しんでいる私たちから見ると、年次別のカリキュラムや教科別の授業を辞めてしまうというフィンランドの教育は、大変「新しい」もののように見えるが、実は長い時間軸で考えてみると、実は「古い」ものであることが多くある。ただし「古いもの」が「古い」まま復活したのでは、単なる後退ということになってしまう。この時、古いシステムは、何らかの発展要素を含んで回帰してくる。
・②批判的思考のツボを学ぶ。哲学の歴史は「提案→批判→再提案」という流れの連続で出来上がっている。ビジネスでもまた、変化する現実に対して、現在の考え方や取り組みを批判的に見直して、自分たちの構えを変化させていく。かつてはうまくいった仕組みを、現実の変化に適応する形で変更していく。「自分たちの行動や判断を無意識のうちに規定している暗黙の前提」に対して、意識的に批判・声察して知的態度や切り口を得ることができる、というのも哲学を学ぶメリットの1つである。
・③アジェンダを定める。なぜ「課題を定める」ことが重要かというと、これがイノベーションの起点となるからである。
・社会から「イノベーター」と認められている人々に数多くのインタビューを実施した結果、彼らは「イノベーションを起こそう」と思って仕事をしているのではなく、必ず具体的な「解決したい課題」があって仕事をしている。イノベーションの停滞が叫ばれて久しいが、停滞の原因となっているボトルネックは「アイデア」や「創造性」ではなく、そもそも解きたい「課題=アジェンダ」がないということである。
・イノベーションというのは、常に「これまで当たり前だったことが当たり前でなくなる」という側面を含んでいる。これまで当たり前だったこと、つまり常識が疑われることで初めてイノベーションは生み出される。一方で、全ての「当たり前」を疑っていたら日常生活が成り立たない。そのため重要なのは、よく言われるような「常識を疑う」という態度を身につけるということではなく、「見送っていい常識」と、「疑うべき常識」を見極める選球眼を持つということである。そしてこの選球眼を与えてくれるのが、空間軸・時間軸での知識の広がり=教養である。
・④2度と悲劇を起こさないために。これまで人類が繰り返してきた悲劇を、私たちは今後も繰り返していくことになるのか、あるいはそこで払った高い授業料を生かし、より高い水準の知識を発揮する人類、いわばニュータイプとして生きていけるかどうか、過去の悲劇を元にして得られた教訓を、どれだけ学び取れるかに関わっている。

(「人」に関するキーコンセプト。「なぜ、この人はこんなことをするのか」を考えるために)
1. ロゴス・エトス・パトス
〜論理だけでは人は動かない。
・「ロゴス」とはロジックのことであり、論理だけで人を説得することは難しい。一方で論理的に無茶苦茶だと思われる企てに人の賛同を得ることは難しい。つまり、「論理」は必要条件であって、十分条件ではない。
・「エトス」とはエシック=倫理のことであり、いくら理にかなっていても道徳的に正しいと思える営みでなければ人のエネルギーを引き出すことができない。
・「パドス」とはパッション=情熱のことであり、本人が思い入れを持って熱っぽく語ることで初めて人は共感する。
・人を動かすためには、「ロゴス」「エトス」「パドス」が必要である。
・一方で、上記の技術を使い、言葉巧みに弁論を振るって、人を動かしてしまう技術というのは、人心を誤らせるという危険性もあるということを知っておくべきである。

2. 予定説
〜努力すれば報われる、などと神様は言っていない。
・予定説とは、ある人が神の救済にあずかれるかどうかは、あらかじめ決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことは、全く関係がない。
・現在、予定説を認める教派は少数派であり、これをキリスト教の普及的な教義だと考えるのは誤りである。この予定説は、主にプロテスタントを中心に見られる教義である。
・救済に預かれるかどうか全く不明であり、現世での善行も意味を持たないとすると、人々は虚無的な思想に陥るほかないように思われる。しかし、全能の神に救われるようにあらかじめ定められた人間であれば、禁欲的に天命を務めて成功する人間だろう、と考えて、『自分こそ救済されるべき選ばれた人間なんだ』という証を得るために禁欲的に職業に励もうとした。というのがヴェーバーの論理である。
・現在の人事制度は、「努力→結果→評価→報酬」という、一見すれば極めて合理的でシンプルな因果関係で構築されている。しかし、多くの人が昇進する人、出世する人はあらかじめ決まっているような予定説的側面を感じており、不協和音が生じている。因果応報を否定する予定説が、資本主義の爆発的発展に寄与しているとするのであれば、何のために莫大な費用と時間をかけて「人事評価」というものを設計し、運用しているのか、改めて考えるべきなのかもしれない。
・自分の努力に対して正確に相関する報酬を受け取れる。そういうわかりやすいシステムであれば、人間はよく働く。そう思っている人がすごく多い。雇用問題の本を読むと大体そう書いてある。でも僕は、それは違うと思う。労働と報酬が正確に数値的に相関したら、人間は働きませんよ。何の驚きも何の喜びもないですもん。(中田樹・中沢新一『日本の文脈』)

03. タブラ・ラサ
〜「生まれつき」などない、経験次第で人はどのようにでもなれる。
・タブラ・ラサとは、ラテン語で「何も書かれていない石板」という意味である。
・何事も、実際に存在するものに対する私たちの考え、つまり現実世界についての理解は、感覚を通して得られた経験により直接的に導かれるか、あるいは間接的に経験から導き出された要素が元になっている、ということである。
・その人が何を言おうとしているかをより正確に理解しようとする場合、その人が何を肯定しているかというよりも、何を否定しているかを知る方がより重要な場合がある。
・ロックは、経験に頼らずに世界を正確に認識することは可能だというデカルトの考え方と、人は生まれながらにして前世で得た知識を有しているというプラトンの考え方を明確に否定した。これは、生まれた時は、誰の心の状態も白紙なのであれば、人間に生まれつき優劣はない、ということになる。つまり、教育によって人間が出来上がるということを言っている。

04. ルサンチマン
〜あなたの「やっかみ」は、私のビジネスチャンス
・ルサンチマンとは、「弱い立場にあるものが、強者に対して抱く嫉妬、怨恨、憎悪、劣等感などの織り混ざった感情」で、わかりやすく言えば「やっかみ」である。
・ルサンチマンを抱えた個人は、その状況を改善するために次の2つの反応を示す。①ルサンチマンの原因となる価値基準に隷属、服従する。②ルサンチマンの原因となる価値判断を転倒させる。この2つの反応は、共に私たちが自分らしい、豊かな人生を送るという点で、大きな阻害要因になり得る。
・①ルサンチマンに囚われた人は、そのルサンチマンの原因となっている価値基準に隷属、服従した上で、それを解消しようとする。しかし、このような形でルサンチマンを解消し続けても「自分らしい人生」を生きることは難しい。自分が何かを欲しているという時、その欲求が「素の自分」による素直な欲求に根ざしたものなのか、あるいは他者によって喚起されたルサンチマンに駆動されているものなのかを見極めることが重要である。
・②ルサンチマンの原因となる価値判断を転倒させる危険性は、ルサンチマンの原因となっている劣等感を、努力や直線によって解消せずに、劣等感を感じる源となっている「強い他者」を否定する価値観を持ち出すことで自己肯定するという考え方に縋りつく傾向があることである。

05. ペルソナ
〜私たちは皆「仮面」を被って生きている
・ペルソナとは、元来は古典劇において役者が用いた「お面」のことである。ユングは「ペルソナとは、1人の人間がどのような姿を外に向かって示すかということに関する、個人と社会的集合体との間の一種の妥協である」と説明している。
・「自分」と「ペルソナ」の不一致はネガティブであるとは一概には言えず、人が所属する組織やコミュニティによってその役割があり、その役割に適した「ペルソナ」を持つことで、人格のバランスを維持している。

06. 自由からの逃走
〜自由とは、耐え難い孤独と痛烈な責任を伴うもの
・自由であることには耐え難い孤独と痛烈な責任を伴う。これらに耐えつつなお、真の人間性の発露と言えるような自由を希求し続けることによって初めて人間にとって望ましい社会は生まれるはずだが、自由がその代償として必然的に生み出す、刺すような孤独と責任の重さに多くの人々は疲れ果て、高価な代償を払って手に入れた「自由」を投げ捨ててナチズムの全体主義に傾斜することを選んだ。
・人間の理想である、個人の成長、幸福を実現するために、自分を分離するのではなく、自分自身でものを考えたり、感じたり、話したりすることが重要であること。さらに、何よりも不可欠なのは「自分自身であること」について勇気と強さを持ち、自我を徹底的に肯定することである。
・本当に私たちは、組織やコミュニティからの束縛を受けない、より自由な立場になったとして、本当により幸福で豊かな生を送ることができるようになるのでしょうか。フロムの分析を元に考えれば、それは「自我と教養の強度による」ということになる。自由というものが突きつけてくる孤独と責任を受け止めながら、より自分らしい生を送るための精神力と知識を育む必要がある。

07. 報酬
〜人は、不確実なものにほどハマりやすい
・ドーパミンシステムは、予測できない出来事に直面した時に刺激される。ツイッターやフェイスブック、メールは予測できない。これらのメディアは変動比率スケジュールで動いているため、人の行動を強化する効果が非常に強い。
・なぜソーシャルメディアにハマるのか?それは「予測不可能だから」というのが、近年の学習理論の知見がもたらしてくれる答えである。

08. アンガージュマン
〜人生を「芸術作品」のように創造せよ
・「私はどのように生きるべきか?」という問いに対して、サルトルは、「主体的に関わることにコミットする」というような回答をしている。コミットするものは2つあり、1つは、私たち自分自身の行動である。2つ目は「世界」である。
・私たちは外側の現実(「世界」)と自分を二つの別個のものとして考える癖がありますが、サルトルはそのような考え方を否定している。外側の現実は私たちの働きかけによって「そのような現実」になっているわけであるため、外側の現実というのは「私の一部」であり、私は「外側の現実の一部」で両者は切って離すことができないということである。だから、その現実を「自分ごと」として主体的に良いものにしようとする態度=アンガージュマンが重要になる。
・ところが現実は、多くの人はその自由を行使することなく、社会や組織から命じられた通りに行動する「クソ真面目な精神」を発揮してしまうというのがサルトルの指摘である。いわゆる「成功」というのは、社会や組織の命じるままに行動し、期待された成果を上げることを意味するが、サルトルは「そんなものは何ら重要ではない」と断定している。自由であるということは、社会や組織が望ましいと考えるものを手に入れることではなく、選択するということを自分自身で決定することだ、とサルトルは指摘している。

09. 悪の陳腐さ
〜悪事は、思考停止した「凡人」によってなされる
・「システムを無批判に受け入れるという悪」は、我々の誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしている。
・通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられているが、アーレントはむしろ、それを意図することなく受動的になされることにこそ「悪」の本質があるかもしれない、と指摘している。

10. 自己実現的人間
〜自己実現を成し遂げた人は、実は「人脈」が広くない
・人間の欲求を次の5段階に分けて構造化した。
第一段階:生理の欲求
第二段階:安全の欲求
第三段階:社会欲求と愛の欲求
第四段階:承認(尊重)の欲求
第五段階:自己実現の欲求
・私たちは一般に、知人や友人が多ければ多いほど良い、と思う傾向がある。マズローの考察によれば、成功者中の成功者である「自己実現的人間」は、むしろ孤独気味で、ごく少数の人とだけ深い関係を作っている。このマズローの指摘は、ソーシャルメディアなどを通じてどんどん「薄く、広く」なっている私たちの人間関係について、再考させる契機なのではないかと思う。

11. 認知的不協和
〜人は、自分の行動を合理化するために、意識を変化させる生き物
・「共産主義は敵である」という信条と「共産主義を擁護するメモを書いた」という行為の間に発生している「不協和」のストレスを解消するために、どちらかを変更しなくてはならない。「共産主義を擁護するメモを書いた」というのは事実であって、これは変更できない。変更できるとすれば「共産主義は敵である」という信条の方であり、こちらの信条を「共産主義は敵だが、いくつか良い点もある」と変更することで、「行為」と「信条」の間に発生している不協和のレベルを下げることができる。これが米兵捕虜の脳内で起きた洗脳のプロセスである。

12. 権威への服従
〜人が集団で何かをやる時には、個人の良心は働きにくくなる
・アイヒマンの実験において、明らかに生命の危険が懸念されるレベルまで実験を続けてしまったのはなぜなのか。一つ考えられる仮説としては、「自分は単なる命令執行役にすぎない」と、命令を下す白衣の実験担当者に責任を転嫁しているから、と考えることができる。実際に、多くの先生役の被験者は、実験途中で逡巡や葛藤を示すものの、何か問題が発生すれば責任は全て大学側で取るという言質を白衣担当者から得ると、納得したように実験を継続した。
・アイヒマンの実験は、人が集団で何かをやる時こそ、その集団の持つ良心や自制心は働きにくくなることを示唆している。現在の日本ではコンプライアンス違反が続出しているが、このような時代だからこそ、アイヒマンの実験結果が示すものについて私たちは考えてみる必要がある。
・人は権威に対して驚くほど脆弱だというのが、アイヒマンの実験の結果から示唆される人間の本性であるが、権威へのちょっとした反対意見、良心や自制心を後押ししてくれるちょっとしたアシストさえあれば、人は自らの人間性に基づいた判断をすることができる、という事である。これは、システム全体が悪い方向へ動いているという時「これは間違っているのではないか」と最初に声を上げる人の存在の重要性を示しているように思う。

13. フロー
〜人が能力を最大限発揮し、充足感を覚えるのはどんな時か?
・「フローの状態にある」というのは、幸福の条件と考えることができる。しかしながら、実際はあまりに多くの人は「無気力」のゾーンで生きている、とチクセントミハイは嘆いている。「無気力」のゾーンを抜け幸福な人生を送るために「フロー」のゾーンを目指すことを考えた時、「スキルレベル」も「挑戦レベル」も一気に高めることはできない。まず、「挑戦レベル」を上げ、タスクを取り組むことで「スキルレベル」を上げていくしかない。いうことは、幸福な「フロー」のゾーンに至るには、必ずしも居心地の良いものではない「不安」や「強い不安」のゾーンを通過しなければならない。

14. 予告された報酬
〜「予告された」報酬は、創造的な問題解決力を著しく毀損する
・「ろうそく問題」とは、テーブルの上にロウがたれないように蝋燭を壁につける方法を考えて欲しいというもの。画鋲を入れているトレーを「画鋲入れ」から「ろうそくの土台」へと転用するよう着想を得ないと解けない問題である。
・報酬、特に「予告された」報酬を与えることによって、創造的に問題を解決する能力は向上するどころか、むしろ低下してしまう。
・人が創造性を発揮してリスクを冒すためには、「アメ」も「ムチ」も有効ではなく、そのような挑戦が許される風土が必要だということであり、更にそのような風土の中で人が敢えてリスクを犯すのは「アメ」がほしいからではなく、「ムチ」が怖いからでもなく、ただ単に「自分がそうしたいから」ということである。

(「組織」に関するキーコンセプト「なぜ、この組織は変われないのか」を考えるために)

15. マキュベリズム
〜非道徳的な行為も許される。ただし、より良い統治のためになら。
・マキャベリは「君主論」の中で、どんな手段や非道徳な行為も、結果として国家の利益を増進させるのであればそれは許される。
・リーダーの立場にある人であれば、状況次第では歓迎されない決断、部下を傷つける決断を迫られる時がある。それでもリーダーは、それがビジネスであれ、他の組織であれ、家族であれ、自分が長期的な繁栄と幸福に責任を持つのであれば、断じて決断し、あるいは行動しなければならない時がある。ということをマキャベリズムは教えてくれる。

16. 悪魔の代弁者
〜あえて「難癖をつける人」の重要性
・悪魔の代弁者とは、多数派にたいして、あえて批判や反論をする人のことである。ここで言う「あえて」とはつまり、もとより性格が天邪鬼で多数派の意見に反対する人ということではなく、そのような「役割」を意識的に負うという意味である。
・ミルは著書「自由論」において、健全な社会の実現における「反論の自由」の大切さについて、繰り返し指摘している。市場原理によって価格がやがて適正水準に収斂するように、意見や言論もまた、多数の反論や反駁をくぐり抜けることで、やがて優れたものだけが残るという考え方は、優れた意見を保護し、劣った意見を排除するという統制の考え方と真っ向からぶつかり合うことになる。
・集団における問題解決の能力は、同質性とトレードオフの関係にある。どんなに個人の知的水準が高くても、同質性の高い人が集まると意思決定の品質は著しく低下する。悪魔の代弁者は、多数派の意見がまとまりつつある時に、重箱の隅をつつくようにして難癖をつける。この難癖によって、それまで見落とされていた視点に気づくことで、貧弱な意思決定に流れ込んでしまうことを防ぐ。

17. ゲマインシャフトとゲゼルシャフト
〜かつての日本企業は「村落共同体」だった
・テンニースによれば、人間社会が近代化していく過程で、地縁や血縁、友情で深く結びついた自然発生的なゲマインシャフトは、利益や機能を第一に追求するゲゼルシャフトへシフトしていく。さらに、社会組織がゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと変遷していく過程で、人間関係そのものは、疎遠になっていくと考えていた。
・今日では、少なくとも大企業におけるゲマインシャフト的な要素はすでに完全に崩壊しており、やがてアメリカに象徴的に示されるような完全なゲゼルシャフトに移行すると考えられる。

18. 解凍=混乱=再凍結
〜変革は、「慣れ親しんだ過去を終わらせる」ことで始まる。
・組織の中における人の振る舞いは、「環境」によって決まる。レヴィンは「個人と環境の相互作用」によって、ある組織内における人の行動は規定されるという仮説を立て、今日ではグループ・ダイナミクスとして知られる広範な領域の研究を行った。
・「解凍=混乱=再凍結」のモデルは、個人的および組織的変化を実現する上での三段階を表している。
第一段階の「解凍」は、今までの思考様式や行動様式を変えなければいけないことを自覚し、変化のための準備を整える段階である。「なぜ今までのやり方ではもうダメなのか」「新しいやり方に変えることで何が変わるのか」という二点について、「説得する」のではなく「共感する」レベルまでのコミュニケーションが必要となる。
第二段階の「混乱」は、以前のものの見方や考え方、あるいは制度やプロセスが不要になることで引き起こされる混乱や苦しみが伴う。したがって、この段階を乗り切るためには変化を主導する側からの十分な実務面、あるいは精神面でのサポートが鍵になる。
第三段階の「再凍結」は、新しいものの見方や考え方が再結晶化し、新しいシステムに適応するものとして、より快適なものと感じられるようになり、恒常性の感覚が再び蘇ってくる。この段階では、根付きつつある新しいものの見方や考え方が、実際に効果をあげるのだという実感を持たせることが重要になる。
・この「解凍=混乱=再凍結」のモデルが「解凍」から始まっているところに注意しなければならない。私たちは、何か新しいことを始めようという時、それを「始まり」の問題として考察するが、何か新しいことを始めようとする時に最初にやるべきなのはむしろ「今までのやり方を忘れる」ということである。

19. カリスマ
〜支配を正当化する三つの要素「歴史的正当性」「カリスマ性」「合法性」
・人をして主体的に「支配される」ようにするためには、「歴史的正当性」か「カリスマ性」が必要だ、というのがヴェーバーの主張であるが、残念ながらそのような属性を持つリーダーは数が少ないため、組織の数という需要に対して供給が圧倒的に不足している。したがって「支配の正当性」を担保するためには、多くの場合「合法性」に頼らざるを得ない。しかし、先述した通り「合法性」というのは、要するに権限規定とそれを破った場合の罰則規定というシステム、わかりやすく言えば「官僚機構」に支配の正当性を依存する仕組みであるから、「権限移譲」という大きなトレンドとは完全に矛盾することになる。結局のところ、私たちは、この数少ない「カリスマ性を持った人物」をどれだけ「人工的」に育てられるかどうかということにチャレンジしなくてはならない、ということになる。

20. 他者の顔
〜「わかりがあえない人」こそが、学びや気づきを与えてくれる
・レヴィナスのテキストから汲み取れることは「他者とは、なかなかわかり合えない相手」ということである。
・自分の視点から世界を理解しても、それは「他者」による世界の理解とは異なっている。この時、他者の見方を「お前は間違っている」と否定することもできるでしょう。実際に人類の悲劇の多くは、そのような「自分は正しく、自分の言説を理解しない他者は間違っている」という断定のゆえに引き起こされている。この時、自分と世界の味方を異にする「他者」を学びや気づきの契機にすることで、私たちは今までの自分と異なる世界の味方を獲得できる可能性がある。

21. マタイ効果
〜「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるであろう」
・「マタイ効果」とは、条件に恵まれた研究者は優れた業績を上げることでさらに条件に恵まれる。
・会社における教育投資でも、社会資本としての教育機会であっても同じことであるが、私たちは「より費用対効果の高い子」に教育投資を傾斜配分してしまう傾向があり、そのため初期のパフォーマンスの結果によって出来る子は更に良い機会が与えられて教育される結果、更にパフォーマンスを高める一方、最初の打席でパフォーマンスを出せなかった子をますます苦しい立場に追いやってしまう、ということをしがちである。人を育てるにあたって最初期のパフォーマンスの際をあまり意識せず、もう少し長い目で人の可能性と成長を考えてあげることが必要である。

22. ナッシュ均衡
〜「いい奴だけど、売られたケンカは買う」という最強の戦略
・繰り返し囚人のジレンマにおいて、最も良い結果が得られるプログラムは、初回は「協調」を出し、二回目は前回の相手と同じものを出し、以下それをひたすら繰り返す、という極めてシンプルなものである。このプログラムの特徴は、まず協調し、相手から裏切られない限り協調し続け、相手が裏切った場合は即座に裏切り返す、裏切った相手が再び協調に戻れば、こちらも協調に戻るという寛容さを持っている。

23. 権力格差
〜上司は、自分に対する反対意見を積極的に探せ
・過去の航空事故の統計を調べるも、副操縦士が操縦桿を握っている時よりも、機長が操縦桿を握っている時の方が、はるかに墜落事故が起こりやすいことがわかっている。この問題は、組織というものが持っている、不思議な特性が現れている。組織を「ある目的を達成するために集められた2人以上からなる集団」と定義すれば、航空機のコックピットというのは最小の組織であると考えることができる。組織の意思決定のクオリティを高めるには「意見の表明による摩擦の表出」が重要である。そのため、副操縦士が操縦桿を握っている場合、上役である機長が副操縦士の行動や判断に対して異議を唱えることは自然に出来ることだと考えられる。一方、逆のケースでは、機長が操縦桿を握っている際、目下である副操縦士は機長の行動や判断に対して反対意見を言うことに、何らかの心理的抵抗を感じるはずである。そして、その心理的抵抗から、自分の懸念や意見を封殺して始末また結果が、「機長が操縦桿を握っている方が、事故が起こりやすい」という統計結果に出ていると考えることができる。
・日本は比較的権力格差の高い国にあたる。権力の格差の大きさによる具体的な影響には、2つの示唆がある。1つ目の示唆は、コンプライアンスの問題である。組織の中で、権力を持った人によって道義的に誤った意思決定が行われようとしている時、部下である組織の人々が「それはおかしいでしょう」と声をあげることができるかどうか。ホフステードの研究結果は、我が国の人々は、他の先進国の人々と比較して、相対的に「声を上げることに抵抗を覚える」度合いが強いことを示唆している。2つ目の示唆は、イノベーションに関する問題である。組織の中において相対的に弱い立場にある人の方が、パラダイムシフトにつながるようなアイデアを持ちやすいということを示唆している。したがって、そのような弱い立場にある人々が、積極的に意見を表明することで、イノベーションは加速すると考えられるわけだが、日本の権力格差は相対的に高く、組織の中で弱い立場にある人は、その声を圧殺されやすい。
・以上の2つを踏まえれば、組織のリーダーは、部下からの反対意見について、それが表明されれば耳を傾けるという「消極的傾聴」の態度だけでは、不十分だということが示唆されている。より積極的に、自分に対する反対意見を、むしろ探し求めるという態度が必要なのではないか。

24. 反脆弱性
〜「工務店の大工さん」と「大手ゼネコンの総合職」はどちらが生き延びるか?
・半脆弱性とは、「外乱や圧力によって、かえってパフォーマンスが高まる性質」のことである。
・この「反脆弱性」を、組織論について言えば、意図的な失敗を織り込むのが重要だということになる。ストレスの少ない状況になればなるほどシステムは脆弱になってしまうので、常に一定のストレス、自分自身が崩壊しない程度のストレスをかけることが重要である。なぜかというと、その失敗は学習を促し、組織の創造性を高めることになるからである。

(「社会」に関するキーコンセプト。「いま、何が起きているのか」を理解するために)
25. 疎外
〜人間が作り出したシステムによって人間が振り回される
・疎外というのは、人間が作り出したシステムによって人間が振り回されるようになる、ということである。
・マルクスは、彼の著書『経済学・哲学草稿』の中で、資本主義社会の必然的帰結として、4つの阻害が発生する、と指摘している。
1つ目は、労働生産物からの疎外である。自らの労働によって生み出した商品であるにもかかわらず、自分のものではなく、さらにはそれが世に出されることによって、自らの生活が影響を受けること。
2つ目は、労働からの疎外である。「労働というのは人間にとって創造的な活動であるべきだ」と考え、これが賃金労働制によって歪められていると指摘した。人間は労働をしている間、自己を感じることができず、労役から解き放たれて初めて独立した自分となることができるようになる。
3つ目は、類的疎外である。人間は「種類」に属しており、そこで健全な人間関係を形成する生き物であるが、分業や賃金労働によって、健全な人間関係は破壊され、労働者は資本家が所有する会社や社会の、いわば「機械的な部品=歯車」となっている。
4つ目は、人間からの疎外である。これをわかりやすく意訳すれば「人間らしさからの疎外」ということになる。資本主義社会において、労働者である人間の価値は、「生産性」だけが問われるようになってしまう。こうなってしまうと、人間の興味は、どれだけ短い労働で手っ取り早く稼ぐか、ということになり、人間らしい「労働の喜び」や「贈与の喜び」は失われてしまい、むしろ「他人からいかに奪うか」「他人をどうやって出し抜くか」に専心するようになる。
・阻害というのは目的とシステムの間に想定された主従関係が逆転し、システムが主となって目的を従属化させるということである。

26. リバイアサン
〜「独裁による秩序」か?「自由ある無秩序」か?
・ホッブスが、血で血を洗うピューリタン革命の真っ只中で人生を送ったため、「自由ある無秩序」ではなく「独裁による秩序」を望んでいた。

27. 一般意志
〜グーグルは民主主義の装置となりえるか?
・市民全体の意思を「一般意志」という概念で定義し、代議制にも政党政治にもよらない「一般意志に基づいた統治」こそが理想であるという考えを提唱しました。
・ICTの力によって古代ギリシアの直接民主制を、より洗練された形で復活させることができるかもしれない。これは熟議の下手な日本人にとって明るいビジョンであるが、ボトルネックとしては「誰が一般意志を汲み取るシステムを作り、運営するか」という問題である。市民全員の一般意志を吸い上げるためのシステムとアルゴリズムがごく一部の人によって制御されるのであれば、そのシステムから出力される一般意志が本当に市民のそれを代弁するものであるかどうかは誰にも保証できない。むしろ、そのような「極端な情報の非対称性」を孕んだシステムが絶対的な力を持てば、「絶対権力」に墜する可能性がある。
・1968年、地中海で実施された軍事演習を終えたのちに行方不明になった原子力潜水艦スコーピオンを捜索するにあたり、数学者、潜水艦の専門家、海難救助隊などの分野の知識を持った人たちを集め、スコーピオンにどんなトラブルが発生し、その結果どのようにして沈降し、海底に衝突したかについてのシナリオを作成させた上で、これらの断片的な予測をベイズ確率によって重ね合わせていき、最も濃い点となるポイントを推測沈没地点とした。参加したメンバーの中で、最終的に算出した地点を選んだものは誰もおらず、最終的に書き出された推測沈没地点は、純粋な集合的なものであって、手段の中の「誰か」の予測に収斂したわけではなかったが、この集合的な推測は極めて正確であった。このエピソードは、集合的な意思決定がうまく機能すると、その集団の中にいる最も賢い人よりもクオリティの高い意思決定が可能になるということを示している。

28. 神の見えざる手
〜「最適な解」よりも「満足できる解」を求めよ
・主体的に最適解を求めるための技術である論理思考が猛威を振るう現代において「何が正解かはよくわからない、成り行きに決めてもらおう」と考えるのは、思考の放棄ではないかと思われるかもしれない。経営管理に携わる立場であれば、徹頭徹尾自分の頭で考える態度を、美徳と考えこそすれ、愚行と考える人はいないはずである。しかし、全ての最適解を自分で導出できる、と考えるのは知的傲慢と言える。
・「神の見えざる手」というのは、ヒューリスティックな解を生み出す一種の知的システムとして考えることができる。モノゴトの関連性がますます複雑になり、かつ変化のダイナミクスが強まっている現在のような社会において、最適解をオプティマルなアプローチによってイタズラに求めようとせず、「満足できる解」をヒューリスティックによって求めるという柔軟性も求められているのではないか。

29. 自然淘汰
〜適応力の差は突然変異によって偶発的に生み出される
・どのような形質がより有利なのかを事前に知ることはできない。自然淘汰という仕組みは、いわばサイコロを振るようにして起きたさまざまな形質の突然変異のうち、「たまたま」より有利な形質を持った個体が、遺伝によってその形質を次世代に残し、より不利な形質を持った個体は淘汰されていくという、膨大な時間を必要とする過程だということ。
・餌を見つけた蟻のフェロモンの道を完全に追尾する優秀ありだけのコロニーよりも、間違えたり寄り道したりするマヌケアリがある程度存在する場合の方が、餌の持ち帰り効率は中長期的に高まる。最初につけたフェロモンのルートが、必ずしも最短ルートでなかった場合、マヌケアリが適度に寄り道したり道を間違えたりする、つまりエラーを起こすことで、思わぬ形で最短ルートが発見され、他のアリもその最短ルートを使うようになり、結果的に「短期的な非効率」が「中長期的な高効率」に繋がるということである。

30. アノミー
〜「働き方改革」の先にある恐ろしい未来
・アノミーとは「無連帯」である。
・社会の規制や規則が緩んでも、個人は必ずしも自由にならず、かえって不安定な状況に陥る。規制や規則が緩むことは、必ずしも社会にとって良いことではない。
・重要なのは、会社という「タテ型構造のコミュニティ」が、自分にとってもはや安全なコミュニティではあり得ない、ということを認識した上で、自律的に自分が所属するコミュニティを作っていくのだ、という意思を持つことだと思う。家族もソーシャルネットワークも職業別のギルドも、それを作り上げる、あるいは参加してメンテナンスするという意思がなければ成立し得ない。そうすることでしか自らがアノミーの状態に陥ることを防ぐことはできない時代にきているのではないか。

31. 贈与
〜「能力を提供し、給与をもらう」ではない関係性を作ろう
・モースが「贈与」を問題にした理由は、近代以降のヨーロッパ社会が、贈与という慣習を失ってしまったために、経済システムから人間性が失われてしまった、ということを批判するためである。
・モノゴトの価値を説明する枠組みは「労働価値説明」と「効用価値説」の2つがあるが、この枠組みでは「贈与」という行為をうまく説明することができない。

32. 第二の性
〜性差別はとても根深く、血の中、骨の中に溶け込んでいる。
・私たちにまず求められるのは、日本は極めて強いジェンダーバイアスに支配された国であること、そしてそのバイアスに我々自身が極めて無自覚であるため、多くの人がこのようなバイアスから自由であると錯覚し、そしてその残酷な無自覚さが、女性の社会進出を妨げる最大の障壁になっているということを心しておくことである。

33. パラノとスキゾ
〜「どうもヤバそうだ」と思ったらさっさと逃げろ
・パラノはパラノイア=偏執型、スギゾはスギゾフレニア=分裂型を指す。パラノ型の人は、「アイデンティティ」に偏執し、他者からはいわゆる「一貫性のあるわかりやすい人格・人生」ということになる。スギゾ型の人は、「アイデンティティ」が分裂し、固定的なアイデンティティに縛られず、自分の美意識や直感の赴くままに自由に運動し、その時点での判断・行動・発言と過去のアイデンティティや自己イメージとの整合性にこだわりはない。
・パラノ型の人は環境変化に弱い。会社の寿命がどんどん短くなっている現代で、自分のアイデンティティをパラノ的に固持しようとすることは自殺行為になりかねない。
・スギゾ型の人は「必ずしも行き先がはっきりしているわけではないんだけど、ここはヤバそうだからとにかく逃げる」というマインドセットである。ここで重要になってくるのが、「危ないと感じるアンテナの感度」と「逃げる決断をするための勇気」ということになる。往々にして勘違いされているが、「逃げる」のは「勇気がない」からではなく、逆に「勇気がある」からこそ逃げられるのである。
・日本の社会では未だに、一箇所に踏みとどまって努力し続けるパラノ型を礼賛し、次から次へと飽きっぽく変位転遷していくスギゾ型を卑下する傾向が強い。しかし、こういった「パラノ礼賛、スギゾ卑下」の職業観が日本のイノベーションを停滞させる要因の一つとなっている。

34. 格差
〜差別や格差は、「同質性」が高いからこそ生まれる
・「公正」が望まれているのであれば、私たちの組織においても社会においても、公正が実現されるはずである。しかし、そうなってはいない。なぜなのか。一つの有力な仮説は「本音では誰も公正など望んでいないからだ」ということである。
・江戸時代における封建社会では、社会的な身分の違いは出生によって決まっていた。このような社会では、社会の下位層に属している個人は上位層に属しているそれとの比較を免れるため、羨望も劣等感も感じない。そもそも「比較する」ということがないからである。ところが、社会的な制度として身分の差がなくなれば、建前上、誰もが上位層に所属することができるようになる。自分と同じような人があのような素晴らしい立場にある以上、似たような出自や能力を持っている私がそのような立場に立てないのはおかしい。これが「公平性が阻害されている」という感覚に容易に結びつく。
・序列の基準が正当でない、あるいは基準は正当であっても評価が正当になされていない、と信じるおかげで私たちは自らの劣等生を否定することができる。もし、社会や組織が公正で公平であるのであれば、その中で下位に位置付けられる人には逃げ道がない。

35. パノプティコン
〜「監視の圧力」を組織でどう飼いならすか
・なんらかの圧力をかけることが必要だという局面において、必ずしも実際に監視=モニタリングが必要なわけではないということである。実際の監視よりも「監視されている」と本人に感じさせるような仕組みの構築が重要だということである。
・実際に監視をしていない場合でも、監視の圧力が生まれてしまう可能性がある。この監視の圧力は当然ながら規範的な思考や行動へと人を促すことになるが、そのような規範に大多数の人が従うような組織ではイノベーションは期待できない。
・重要なのは、必然的に生み出されるこの圧力を、組織の課題や方向性と整合した形でうまく「飼い慣らす」ということである。

36. 差異的消費
〜自己実現は「他者との差異」という形で規定される
・古典的なマーケティングの枠組みでは、消費の目的は次の三つとされている。①機能的便益の獲得、②情緒的便益の獲得、③自己実現的便益の獲得である。例えば、ノートブックパソコンや携帯電話であれば、20年前はスペックやら重量やらが主な選択要因であったが、やがてデザインや素材感といった情緒的因子がより重要視されるようになり、ついにはそのブランドや商材が持っているパーソナリティやストーリーが重要になる。
・自己実現的消費は、市場成長の最終段階において発現するのが通例だが、そのときの「自己実現」が、内発的に規定されるものではなく、言語と同じように「他者との差異」という形で規定されるのであれば、その商品なりサービスが、どのような「差異」を規定するのかについて、意識的にならない限り、成功する商品やサービスの開発は難しい。

37. 公正世界仮説
〜「見えない努力もいずれ報われる」の大嘘
・「努力は報われる」という主張には一種の世界観が反映されていて非常に美しく響きます。しかしそれは願望でしかなく、現実の世界はそうではないということを直視しなければ、「自分の人生」を有意義に豊かに生きることは難しい。


(「思考」に関するキーコンセプト。よくある「思考の落とし穴」に落ちないために)
38. 無知の知
〜学びは「もう知ってるから」と思った瞬間に停滞する
・最初の「知らないことを知らない」という状態はスタート以前ということになる。「知らない」ということすら「知らない」わけであるから、学びへの欲求や必要性は生まれない。次に、何らかの契機から「知らないことを知っている」という状態に移行すると、ここで初めて、学びへの欲求や必要性が生まれる。その後、学習や経験を重ねることで「知っていることを知っている」という状態に移行する。そして最後は本当の達人「知っていることを知らない」という状態になる。つまり、知っていることについて意識的にならなくても、自動的に体が反応してこなせるくらいのレベルである。
・本当に自分が変わり、成長するためには、容易に「わかった」と思うことを、もう少し戒めてみてもいいと思われる。

39. イデア
〜理想に囚われて現実を軽視していないか?
・プラトンが唱えたイデアを、平たく表現すれば「想像上の理想形」ということになる。
・犬と猫の写真を見せて、それぞれに分けるということは、人間の子供にもできる簡単なことであるが、これを人工知能にやらせようとすると非常に難しい。私たちはどのようにして「猫」を「猫だ」と判断し、「犬」を「犬だ」と判断しているかは、遡求的に言語化することがなかなかできないからである。

40. イドラ
〜「誤解」にはパターンがある
・人間の認識能力には頼りないところがあり、誤りを導いてしまうケースにはどのようなパターンがあるのか?ベーコンが提示したのが「4つのイドラ」である。
①種族のイドラ(自然性質のイドラ)。わかりやすく言えば錯覚。
②洞窟のイドラ(個人経験のイドラ)。自分の受けた教育や経験など、狭い範囲の材料をもとに決めてしまう、という誤謬。
③市場のイドラ(伝聞によるイドラ)。言葉の不適切な使用によって生じるイドラ。いわゆるミスコミュニケーション。
④劇場のイドラ(権威によるイドラ)。高名な哲学者の主張など、権威や伝統を無批判に信じることから生じる偏見。
・これらの「イドラ」について知っておくことは2つの点で重要である。1つ目は、自分の主張と根拠の認識が、4つのイドラのどれかによって歪められていないか?という観点。もう1つは、他者の意見に反論する際、主張の根拠となっておる前提が、これら4つのイドラによって歪められていないか?という観点である。

41. コギト
〜一度チャラにして「疑えないこと」から再スタートしてみよう
・「我思う、ゆえに我あり」とは、「存在の確かなものなど何もない。しかし、ここに全てを疑っている私の精神があることだけは疑いえない」ということである。
・一体、確実なものなんてあるのか?目に見える現実だって錯覚や夢かもしれないと考えれば、確実とは言えない、これを「方法論的懐疑」と言いますが、そうやって全てを疑っていったとき、最後に「疑っている自分がいる」ということだけは疑えないことに、デカルトは気づいた。この「確実な地点」から、厳密に考察を積み重ねていけば、神や協会といった権威に頼ることなく、自分の力で真理に至ることができるのではないか、これがデカルトの「我思う、ゆえに我あり」というシャウトの骨子である。

42. 弁証法
〜進化とは「過去の発展的回帰」である
・弁証法とは、「対立する考えをぶつけ合わせ、闘争をさせることで、アイデアを発展させる」というやり方である。
・一見両立しないような二つの命題を統合的に解消するというのが弁償法の考え方であるが、この時、ジンテーゼは「螺旋的発展」によって出現することを覚えておくと良い。
・このような「螺旋的発展」のイメージを掴むことで、未来を予測することも可能になる。弁証法による螺旋的発展は、古いものがより便利になって復活するということであるため、これから先、現れてくるものについても、過去のなにがしかが主にICTの力によって効率性・利便性を高めて復活してくる、と考えることができる。
・昔からあったものなのに、非効率性ゆえに一時的に社会から姿を消したものが、別の形態をとって社会に発展的に復活してくる、と考えればさまざまな具体的なアイデアが浮かんでくるのではないか?

43. シンフィアンとシニフィエ
〜言葉の豊かさは思考の豊かさに直結する
・私たちは通常、「モノ」という実在があって、それに対して「コトバ」が後追いでつけられたように感じている。しかし、本当にそうなのであれば、モノの体系と言語の体系が文化によって異なることが説明できないとソシュールは指摘している。
・この指摘は2つの点で重要である。
1つ目は、私たちの世界認識は、自分たちが依拠している言語システムによって大きく規定されている、ということを示唆する。私たちは言葉を用いて思考するが、その言葉自体がすでに何らかの前提によっているとすれば、言葉を用いて自由に思考しているつもりが、その言葉が依拠している枠組みに思考もまた依拠するということになる。私たちは本当の意味で自由に思考することができない、その思考は私たちが依拠している何らかの構造によって大きな影響を不可避的に受けてしまう、これが構造主義哲学の始祖と呼ばれるのはそのためである。
2つ目は、語彙の豊かさが世界を分析的に把握する力量に直結する、ということを示唆する。同じ日本語を用いる集団の中で、より多くのシニフィアンを持つ人とより少ないシニフィアンを持つ人を比べてみた場合、ソシュールが指摘するように、ある概念の特性が「他の概念ではない」ということなのであるとすれば、より多くのシニフィアンを持つ人は、それだけ世界を細かく切って把握することが可能になる。

44. エポケー
〜「客観的事実」をいったん保留にする
・エポケーとは、先述した「Aを原因として、Bという結果がある」という考え方を「一旦、止める」という点に該当する。簡単に言えば、エポケーとは、「客観的実在をもとに主観的認識が生まれる」という客体→主体の論理構造に「本当にそれで正しいのか」という疑いを差し向けるということ、確かにそのように思えるけれども、一旦それはカッコに入れておこうということである。
・エポケーの考え方は、対話できる余地を広げることができる。私たちが持っている「客観的な世界像」は、そもそも主観的なものでしかあり得ない、その世界像を確信するものでもなく、捨て去るのでもなく、いわば中途半端な経過措置として、一旦「カッコに入れる」という中庸の姿勢=エポケーの考え方は、このような時代だからこそ求められる知的態度なのではないかと思う。

45. 反証可能性
〜「科学的である」=「正しい」ではない
・本当の意味で「科学的である」ということは「反論の可能性が外部に対して開かれている」ということであり、さらに言えば、科学理論というものは「反証可能性を持つ仮説の集合体」でしかない、ということである。よく「これは科学的に検証された」などと枕詞をつけて、主張の正当性を意固地になって訴えるばかりで、反論に耳を傾けようとしない人がいるが、ポパーに言わせれば、そういう態度こそ科学の名に悖るということになる。

46. ブリコラージュ
〜何の役に立つかよくわからないけど、なんかある気がする
・用途市場を明確化しすぎるとイノベーションの芽を積むことになりかねない一方、用途市場を不明確にしたままでは開発は野放図になり商業化は覚束ない。
・現在のグローバル企業においては、「それは何の役に立つの?」という経営陣の問いかけに応えられないアイデアは、資金供給を得られないことが多い。しかし、世界を変えるような巨大なイノベーションの多くは、「何となく、これはすごい気がする」という直感から導かれて実現しているのだということを、我々は決して忘れてはならない。

47. パラダイムシフト
〜世の中はいきなり「ガラリ」とは変わらない
・パラダイムとは、「一般に認められた科学的業績で、一時期のあいだ、専門家に対して問い方や応えかたのモデルを与えるもの」であり、パラダイムシフトとは、この「一時的にモデルを与える科学的業績」が、新しいものへと代替わりすることを指している。
・パラダイムシフトに関連して、クーンが発見したいくつかの示唆深い点があり、
1つ目は、どんなパラダイムにも優れた説得力があり、その時代に問われる難問のほとんどに対して答えることができる、にもかかわらず、根本的に間違っている可能性がある、という点である。例えば天動説。
2つ目は、クーンによれば、異なるパラダイムにはあまりにも深い溝があるため、対話すら発生しないということである。異なるパラダイムの間には優劣を判断するための共通の基準がない、ということである。これを「共約不可能性」という。

48. 脱構築
〜「二項対立」に縛られていないか?
・脱構築というのは簡単に言えば二項対立の構造を崩す、ということである。

49. 未来予測
〜未来を予測する最善の方法は、それを「発見」することだ
・未来というものは予測するよりも、むしろそれをビジョンとして思い描くべきものだ、という考え方でかる。そもそも専門家の予測というのは「外れるのが当たり前だ」ということである。

50. ソマティック・マーカー
〜人は脳だけだなく身体でも考えている
・アントニオは、適時、適正な意思決定には理性と情動の両方が必要であるという仮説、いわゆるソマティック天動説マーカー仮説を唱え