(リ・デザイン-日常の21世紀)
・「リ・デザイン」とは身近なモノのデザインのやり直しである。それは見慣れたものを、まるではじめてそれに触れるかのように見る試みであるといってもいい。馴染みすぎて見えなくなっているものこそ切実な環境であり、その中に潜むデザインの本質を、新鮮に感じ直してみる工夫である。
・ゼロから新しいものを生み出すことも創造だが、既知のものを未知化することもまた創造である。
・アートは個人が社会に向き合う個人的な意思表明であって、その発生の根源はとても個人的なものである。デザインは基本的には個人の自己表出が動機ではなく、その発端は社会の側にある。
・リ・デザイン点で提案されたデザインはそれぞれ明確なアイデアの切り口を持っていて、それらと既存のデザインの間には明らかな考え方の差異がある。まさにこの差異の中に、人間が「デザイン」という概念を持ち出して表現しようとしてきた切実なものが含まれているはずなのである。
・トイレットペーパーを四角くすることでそこに抵抗が生じる。ゆるい抵抗の発生はすなわち「少資源の機能を生むわけであるが、資源を節約しようというメッセージも一緒にそこに発生する。さらに、丸いトイレットペーパーだと積み重ねた際に隙間がたくさん生じるが、四角いとそれが軽減され、運搬やストックの時の省スペースに貢献する。
(ハプティック-五感の覚醒)
・ハプティックとは、触覚的な、あるいは触覚を喜ばせる、という意味であるが、ここでは人間の「感じ方」に着目していく姿勢に対して掲げられた標語のようなものとして用いている。形や色、素材やテクスチャーを操作するのはデザインの重要な一側面だが、デザインにはもう一つ重要なステージがある。それは如何に作るかではなく、「如何に感じさせるか」という側面。人間のセンサーを創造的に覚醒させていく「感じ方のデザイン」といってもいいかもしれない。
・展覧会HAPTIC。最初の写真は展覧会のロゴの一部、Hのクローズアップである。豚の毛をシリコンの表面に植えて描いた。少しゾクゾクしていただけただろうか。
・赤ん坊がこの世に生まれ落ちてから、徐々に感覚を機能させ始めるプロセスを考えると、諸感覚の結びつきが理解できるかもしれない。よく「目が見えない赤ん坊」というが瞼にシャッターが下りているわけではない。ちゃんと目のレンズから光が入ってきて網膜は露光し、そこから脳に伝達信号が送られているはずだ。だから、「目が見えない赤ん坊」というのは、正確にいうと眼が機能していないのではなく、脳に送られた信号の意味がわからないという状態である。
・グラフィックデザイナーは、その昔、文字を書くトレーニングとして1mmの間に10本の線を引かなくてはいけないと言われた。今日ではコンピューターのおかげで理屈の上では1mmの間に100本でも1000本でも線は引ける。しかし、これは技術の問題というよりも感覚の練度の問題である。1mmの間に10本の線が引けるということは、そこに1mmを10分割して見る目があったということである。トレーニングを経なければ絶対に手に入らない感覚というものがあるのだ。そのような練度の高い感覚をコンピューターにつなげば大いなる力が生まれるだろう。ところが、不器用な太い指のような目で、1mmの間に100本の線を引ける道具を手にしても無意味なのである。
(センスウエア-人類をその気にさせる媒質)
・常に人間の近くにあり、感覚を鼓舞する媒質を、僕は「センスウエア」と呼び始めている。「ウエア」はハードウェアとかソフトウェアの「ウエア」である。たとえば、石器時代の「石器」はセンスウエアである。
(無印良品-なにもないがすべてある)
・生産プロセスの合理化は今日誰もが発想することだが、簡素化することがチープさにつながらず、そこにむしろ美意識を発生させている点に無印良品の独創性がある。
・無印良品の思想はいわゆる「安価」に帰すものではない。コストを下げることに血眼になって大切な精神を失うわけにはいかない。また、労働力の安い国で作って、高い国で売るという発想には永続性がない。世界の隅々にまで通用・浸透する究極の合理性にこそ無印良品は立脚すべきである。
・紙の無漂白という点についても、多くの紙は大量に漂白のプロセスを通るので、未漂白のパルプを用いることが必ずしもコスト減につながらず、場合によっては特別扱いがコスト高を生むという矛盾に行き当たる。ベビーパウダーなど、未漂白のパウダーの方が漂白されたパウダーよりも高くなってしまうという現象である。生のまま、無垢のままが高コストにつながる時代である。
・無印良品は突出した個性や特定の美意識を主張するブランドではない。「これがいい」か「これでなくてはいけない」というような強い嗜好性を誘発するような存在であってはいけない。幾多のブランドがそういう方向性を目指すのであれば、無印良品は逆の方向を目指すべきである。すなわち「これがいい」ではなく「これでいい」という程度の満足感をユーザーに与えること。しかしながら「で」にもレベルがある。無印良品の場合はこの「で」のレベルをできるだけ高水準に掲げる事が目標である。
・現在、僕たちの生活を取り巻く商品のあり方は二極化しているようだ。ひとつは新奇な素材の用法や目をひく造形で同時性を競う商品群。希少性を演出し、ブランドとしての評価を高め、高価格を歓迎するファン層を作り出していく方向である。もう一つは、極限まで価格を下げていく方向。最も安い素材を使い、生産プロセスをギリギリまで簡略化し、労働力の安い国で生産することで生まれる商品群である。無印良品はそのいずれでもない。最適な素材と製法そして形を模索しながら、「素」あるいは「簡素さ」の中に新しい価値観あるいは美意識を生み出すこと。また、無駄なプロセスは徹底して省略するが、豊かな素材や加工技術は吟味して取り入れる。つまり、最低価格ではなく豊かな低コスト、最も賢い低価格帯を実現していく事。それが無印良品の方向である。
(アジアの端から世界を見る)
・何かを否定するだけのメッセージを作ることには僕は興味がない。デザインは何かを計画してく局面で機能するものであるからだ。環境の問題であれ、グローバリズムの問題であれ、どうすればそれが改善に向かうのか、一歩でもそれを望ましい方向に進めるためには何をどうすれば良いのか。そういうポジティブで具体的な局面に、粘り強くデザインを起用させてみたいと考えている。そういう意味では、僕の万博はまだ終わっていない。
(新しい情報のかたち)
・僕は答えよりも問いが重要だと考えてきた。誰も考えなかった問いを発見する事が創造である。独創的な問いが生まれれば、答えは必然的に独創的である。
・元来、知識とは思考の「入り口」に過ぎない。些細な知識を発端として交わしあうことで互いの思考を運動させ合うのが会話であり、断片でしかない知識を対話や思索で練り合わせることで僕らは未知のイマジネーションを伸ばす事ができるのである。