駿河の国で寄り道(58)「茶町・駿府96ケ町(16)」 | れいんぼうの部屋

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」では「駿府96ケ町」を巡っている。

 

 

今回は「駿府96ケ町」の「茶町」周辺を探索してみる。

 

大御所となった徳川家康が駿府城の改修と町づくりのために呼び寄せた職人や商人を区画ごとに住まわせた96区画の街並みを「駿府九十六ヶ町」と呼んだ。

 

 

「呉服町通り」を北西に向かい本通を越えて直進すると「茶町通り」と名を変える。

 

現在の町名「金座町」にある「日本銀行」と「スルガ銀行」の間を北上し信号を越え30m。

放置自転車の保管庫(茶町自転車等保管庫)の前に茶町の町名碑がある。

 

〇茶町の町名碑

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「茶町」(ちゃまち)
町名の由来について、江戸時代の地誌『駿国雑誌』には、「左右の商家、安陪足久保の茶をここに集め、精粗を撰て府中に出す、故に名とす。」と記されています。茶町は古くから安倍山中で生産した茶を売買する商人の町でした。
元禄5年(1692)の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の家数及び人数は茶町一丁目が家数24軒、人数156人、茶町二丁目が家数24軒、人数95人でした。
茶町周辺は、今も茶問屋が軒を並べ、「お茶所 静岡」の伝統を支えています。

 

茶町通りを茶町の町名碑から200mほど北西に進んだ右側歩道に「上桶屋町の町名碑」がある。

 

〇上桶屋町の町名碑

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「上桶屋町」(かみおけやちょう)
江戸時代に編まれた地誌「駿河記」などによると、当時この場所で桶屋業が営まれていたことに町名は由来するようです。
徳川家康が駿府城に在城していた頃、林惣右衛門という桶職人の棟梁が上桶屋町に居住しており、駿府城内の台所で使用する桶を作っていました。惣右衛門の子孫も代々桶職人の棟梁を引き継ぎ、駿府城内の御用を務めたことから、この町ではほとんどの公的な負担を免除されていました。
元禄5年(1692)の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の家数は23軒、人口は143人ということです。
天保13年(1842)に作成された「上桶屋町絵図」をみると、うなぎの寝床のように間口に対して奥行きの深い、当時の城下町に共通する特徴を持った街並みとなっています。

 

「上桶屋町の町名碑」から茶町通りを北西に100m進んだ信号機の手前、左側の歩道に、「土太夫町の町名碑」がある。

 

 

〇土太夫町の町名碑

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「土太夫町」(どだゆうちょう)
江戸時代に編まれた「駿国雑志」などの地誌によると、静岡浅間神社の神職に仕えた土太夫という者が住んでいたとあり、町名はこれに由来するようです。
古く修行のために富士山に登る人々は、静岡浅間神社に参詣し、登山の際に浅間神社が作った木綿の袈裟を着用することが習わしでした。この袈裟は代々浅間神社の神職が作っていましたが、戦国時代(永禄年間)に門弟の土太夫の家からも作ることになったという記載が『駿河国新風土記』にあります。
元禄5年(1692)の「駿府町数並家数人数覚書帳」によると、当時の家数28戸、人口は197人でした。
江戸時代後半の「駿府町会所文書」によると、茶商売で利益を上げた土太夫町の茶商人が駿府の有力者となり、駿府全体の町政を担うまでになっていました。

 

 

「土太夫町の町名碑」から茶町通りを更に北西へ50m進んだ右側に内科医院があり、入口看板脇に「柚木町の町名碑」がある。

 

〇柚木町の町名碑

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「柚木町」(ゆずのきちょう)
町名の由来については二説あり、昔安西との間に堤があり柚子の大木が植えられていたため(『駿河記』)とも、この地にあった福壽山大林寺の境内にあった柚子の大樹が大林寺の現在地(安西)への移転後もそのまま残されたため(『駿国雑志』)ともいわれています。
元禄5年(1692)の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の柚木町の家数は11軒、人数は72人で、駿府の中でも規模の小さな町でしたが「柚木町」の名は現在も残されています。

 

 

茶町通りは小さな町が連なっていて300mの間に4つの町内が並んでいた。

 


 

次回は「土手通り」周辺を訪ねる。