駿河の国で寄り道(59)「研屋町・駿府96ケ町(17)」 | れいんぼうの部屋

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」では「駿府96ケ町」を巡っている。

 

 

今回は「駿府96ケ町」の「研屋町」周辺を探索してみる。

 

大御所となった徳川家康が駿府城の改修と町づくりのために呼び寄せた職人や商人を区画ごとに住まわせた96区画の街並みを「駿府九十六ヶ町」と呼んだ。

 

 

現在の町名「金座町」に「日本銀行」と「清水銀行」が並んでいる。

両銀行の間を通っているのは「茶町通り」。

「茶町通り」に入り、一つ目の信号機の角、1階が店舗のビルの一画に、花に囲まれた「町名碑」がある。

 

 

〇上魚町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「上魚町」(かみうおちょう)
上魚町は徳川家康の大御所時代には、中央の通りを挟んで南側を後藤庄三郎光次が拝領し、光次が江戸に移るまではここを金座として「駿河小判」と呼ばれる金貨を鋳造していました。また北側は、駿府城築城の作事方中井正清が拝領していました。
「駿河雑誌」によれば、家康の在城の時、下魚町から魚商人を移住させたとされ、町の南側には魚問屋、北側には青物問屋が軒を連ね、さながら「流通センター」のような役割を果たしていました。
元禄5年(1692)の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の上魚町は、南側が家数38軒、人数203人、北側は家数4軒、人数70人でした。
上魚町は昭和3年に金座町となりましたが、それ以後も「かみんたな(上の店)」と呼ばれていました。

 

 

上石町の町名碑は「茶町通り」と「土手通り」の交差点にある。

交差点を南進すると50mに「静清信用金庫」があり、道路脇に「研屋町」の「町名碑」がある。

 

 

〇研屋町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「研屋町」(とぎやちょう)
慶長12年(1607)徳川家康が駿府城に在城の頃、京都伏見から移ってきた研師たちが駿府城内巽櫓の槍刀剣の研ぎなどを行うため、屋敷地を賜ったことが研屋町の町名の由来です。研ぎの御用を担っていたことから、研屋町はほとんどの公的負担を免除されていました。研屋町は安倍川扇状地の砂礫層のため、地盤がよく清く澄んだ水が湧き出るほどで、刀剣の研磨に適していたと考えられています。駿府の職人町と武家屋敷地の境に位置する町でした。明治維新後の廃刀令のため、研師の多くは転業し、承認・職人など110戸ほどの町になりました。
昭和20年6月の静岡空襲で町内は焼失しましたが、戦後の復興と区画整理事業を経て、今日の町並みとなっています。

 

 

「研屋町」の「町名碑」から更に「土手通り」を南下すると200mで国道362号線に出る。

更に100mの路地に左折すると「福泉寺」がある。

 

「福泉寺」周辺の町名が「大工町」


〇福泉寺

 


 

〇「福泉寺」前の電信柱に「大工町」の文字が書かれている。

現在の町名も「大工町」。

 

 

〇上大工町の町名碑

 

 

 

駿府96ケ町のうち
「上大工町」(かみだいくちょう)
上大工町は、駿府城大手門の南西に位置し、駿府で古くから大工が集住していたことに由来する地名です。江戸初期の上大工町は現在の大工町の一部を指します。
この町は、江戸時代以前からある古い地名として伝わっています。慶長14年(1609)以前は、隣接する大鋸町と同様、西方に延びた町でしたが、徳川家康が行った町割りにより、上大工町の地名の一部が、現在の新通2丁目に移され、新通大工町と呼ばれました。
「上大工町絵図」によると、天保13年(1842)時点で、上大工町内61戸のうち30戸の職業が大工職でした。駿府の大工は駿府城内の修理(「駿河記」)や、札之辻町や新通川越町に掲示されていた高札(決まりなどを板に書き、みんしゅうにしらせたもの。)の修理を担い、本来、町人が負担する金銭や労働などが免除されていました。
元禄5年(1692)の「町数等覚帳」では32戸、234人が住んでいたとされています。

 

 

坤櫓前の中堀端にある古地図モニュメントにも「大工町」の文字を見ることが出来た。

 

〇古地図モニュメントの「大工町」部分

 

 

「福泉寺」から100m足らずの場所に「玄忠寺」があり、門の脇に「西寺町・大鋸町」の町名碑がある。

 

 

〇西寺町・大鋸町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「西寺町大鋸町」(にしてらまちおおがまち)
徳川家康公による駿府城下の町割りに伴い、この地に木挽き(製材)を職業とする人達が住んでいたことから名付けられました。
大鋸とは、製材する時に用いた大型の鋸のことです。
大正時代まで行われた玄忠寺境内での相撲は、駿府の名物でした。
旧「西寺町」を併せた範囲が、現在の「大鋸町」となっています。

 

 

 

次回は「96ケ町」の総集編。