駿河の国で寄り道(57)「安倍町・駿府96ケ町(15)」 | れいんぼうの部屋

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釣り以外の記事の方が増えています。

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」では「駿府96ケ町」を巡っている。

 

 

今回は「駿府96ケ町」の「安倍町」周辺を探索してみる。

 

大御所となった徳川家康が駿府城の改修と町づくりのために呼び寄せた職人や商人を区画ごとに住まわせた96区画の街並みを「駿府九十六ヶ町」と呼んだ。

 

前回、浅間神社の門前町「宮ヶ崎町」周辺を探索した。

 

 

今回も浅間神社の近くから巡る。

 

浅間神社から「県道27号井川湖御幸線」へ出て南へ80m程に「安倍町」の町名碑がある。

 

 

〇安倍町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「安倍町」(あべちょう)
静岡浅間神社の南西、安倍川上流域や井川方面に通じる街道の起点に位置する町です。
町名は、徳川家康に仕え数々の武勲を立てた安倍大蔵元真の居宅があったことに由来するとも、古くからこの辺りが、「安倍郡」の中心であったからとも伝えられています。
「駿河記」によると、安陪郡の中心にあった「安倍市」は平城京遷都(710年)と同じ頃に開設されたと考えられています。駿河国の産物や中央都市からの様々な品物が交換・売買された安倍市は、物流交流の中心地として繁栄しました。
元禄5年(1692)の「町数等覚帳」では、34戸、241人が住んでいたとされます。

 

 

安倍町の町名碑から「県道27号井川湖御幸線」を300m北上した所に材木町の町名碑が立っている。

 

〇材木町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「材木町」(ざいもくちょう)
駿府城の西に位置した町です。慶長年間(1596~1615年)、静岡浅間神社建立の際、安倍川の河原に積み置かれた余りの材木を売買するよう命じられ、やがてこの地に木材を商売とする人々が居住したことから材木町と呼ばれるようになったと、「駿河雑誌」(江戸時代に書かれた駿河国の地誌)は伝えています。江戸時代を代表する地誌の一つである「駿河国新風土記」には、延宝年間(1673~1681年)の頃は井宮町と呼称されていたとの記録があり、いつから材木町として一つの町として形成されるようになったのかは分かっていません。
町内には、安陪山中から切り出す材木を安倍川に流し、集まった材木を材木税としてその十分の一を取って保管する材木役所や、五石びきの水車小屋が二つ存在していました。

 

 

坤櫓前の中堀端にある古地図モニュメントに、材木町の文字を見ることが出来た。

 

〇古地図モニュメントの「材木町」部分

 

 

安倍町の町名碑まで戻った先の「安倍町」交差点を右折。

県道354号、通称「安西通り」へ入ると50m程の道路脇に「安西町」の町名碑がある。

 

〇安西町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「安西一丁目」(あんざいいっちょうめ)
古代の安倍市の西側にあたることや安倍町の西にあることなどから「安西」と称されていたようです。安西は1~5丁目まであり、1丁目は最も東に位置します。
寛永年間(1624~1644)の記録によると、特に安西1、2丁目は「本安西町」と言われていたようです。
安西1丁目は材木町に近く、木挽、大工、桶、指物など木工関係の職人が多く住む町で、元禄5年(1692)の「町数等覚書」では44戸、304人が住んでいたとされています。
また、元治元年(1864)の第1次長州征伐の際は、材木屋源兵衛ら1丁目の商人たちが、合わせて350両を献納したと伝えられています。

 

 


 

次回は「茶町通り」周辺を訪ねる。