駿河の国で寄り道(56)「宮ヶ崎町・駿府96ケ町(14)」 | れいんぼうの部屋

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」では「駿府96ケ町」を巡っている。

 

 

今回は「駿府96ケ町」の「宮ケ崎町」周辺を探索してみる。

 

大御所となった徳川家康が駿府城の改修と町づくりのために呼び寄せた職人や商人を区画ごとに住まわせた96区画の街並みを「駿府九十六ヶ町」と呼んだ。

 

 

 

浅間神社の門前となる「浅間通り」の蕎麦屋の前に「宮ケ崎町」の町名碑はあった。

 

〇宮ヶ崎町の町名碑

 


説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「宮ケ崎町」(みやがさきちょう)
宮ヶ崎町は、古くから静岡浅間神社に鎮座する7社のうち大歳御祖神社の門前町として発展してきました。
町名の初見は、戦国時代の文献資料「永禄13年(1570)正月廿日武田晴信判物」(静岡浅間神社文書)です。
同資料には市(いち)についての記述も見られます。
江戸時代に入ると駿府九十六ヶ町のひとつに数えられました。
元禄5年(1692)の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の家数は46軒、人数は384人でした。


 

 

浅間通りから一本北の道路、麻機街道の起点に近い寿司屋の前に「御器屋町」の町名碑はある。

 

〇御器屋町の町名碑

 


 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち

「御器屋町」(ごきやちょう)
御器屋町の町名は江戸時代初めに御器(食物を盛る蓋つきの椀)を作る職人が居住したことに由来するとされています。
「元禄5年駿府町数井家数人数覚帳」によると御器屋町の家数は27軒半、人数193人を数えました。
江戸時代の地誌「駿国雑誌」には、徳川家康公が駿府に在城していた当時、この町の職人の手による「浅木御定器」を献上していたと記されています。御器の献上は徳川頼宣公(家康公の10男)・忠長公(3代将軍家光公の弟)の時代もつづき、このことにより諸役御免の恩恵を受けていました。
また、町内にはかつて以心寺という寺院があり、現在の安西小学校の前身として寺小屋教育が行なわれていたと言われています。
現在、御器屋町は西草深町・宮ケ崎町の一部となっています。

 

 

 

伝馬町の華陽院で撮影させてもらった古地図で浅間神社の門前町である「宮ヶ崎町」周辺を見てみる。

 

 

「宮ケ崎町」から北へ続く道に「御器屋町」や「草深町」が書かれているのを見ることが出来る。

 

〇草深町は町名碑を見つけることが出来なかった。

 

〇草深町

以前に読んだ「町名の由来」が書かれた本から書き写した内容を読む。

城の建設以前の安倍川は幾筋も分かれて流れていたが、その東よりの筋がこの草深辺りを通って南安東村方面へ流れており、草が生い茂っていたことからこの名がある。
徳川家康が町割りと称する区画整理のような事業を行わせた「駿府九十六ケ町」の一つとして数えられていた。

江戸時代の中頃までは上草深町・下草深町に分けて呼ばれていた記録がある。

 

浅間神社の石鳥居のすぐ脇に西草深公園がある。

第15代徳川将軍の徳川慶喜公が明治になってから住んだ屋敷がこのあたりにあった。

 

〇西草深公園徳川慶喜公屋敷跡看板

 


 

説明看板を読む。

<草深町>
駿府<徳川慶喜公(西草深公園看板)>
「草深町」は、「駿府96ケ町」の一つで、現在の西草深公園の東側に、二筋の通りに面して一画を占めていました。明治6年(1873)に一帯の武家屋敷を含めて「西草深町」となり、昭和44年に御器屋町などを併せて現在に至っています。
駿府城に近い草深町の近辺には、慶安4年(1651)に駿府城の警護や城下の治安維持にあたった加番の一つ「二加番」や与力・同心などの武家屋敷が配置されていました。
草深地区には江戸時代初期に徳川家康公に仕えた儒者「林 羅山」の屋敷があり、また明治維新期には静岡学問所頭であった向山黄村をはじめとする学問所の著名な学者が名数居住していました。
西草深公園には浅間神社の社家の屋敷があり、明治2年(1869)6月に静岡藩主となった徳川家達公が社家新宮兵部の屋敷に移り住みました。
徳川幕府第15代将軍徳川慶喜公葉、大政奉還の後慶応4年(1868)2月から謹慎生活に入り、同年7月に駿府宝台院に移り住みました。
宝台院での謹慎生活が解かれた慶喜公は、明治2年(1869)に紺屋町の元駿河代官屋敷に移り、さらに明治21年(1888)には西草深町に屋敷を構えましたが、東京に戻る明治30年(1897)まで政治の世界を離れ、一市民として過ごしました。
静岡での慶喜公は、狩りや写真を好み、油絵をたしなみ、明治10年代から自転車を購入して市内を乗り回って市民の話題となるなど、多種多様な趣味と共に西洋的な生活を謳歌した当時の最先端を行く文化人でもありました。
中でも静岡で習得した写真撮影の技術から生まれた作品は、各地の風景、生活ぶりを伝える貴重な歴史資料ともなっています。
慶喜公が東京に戻った後の徳川邸は「葵ホテル」となり、さらに、明治37年(1904)には日露戦争の捕虜収容所の一つとして使われましたが、同38年に施設内から出火し焼失してしまいました。

 

 

今日は静岡浅間神社の門前町周辺を巡って来た。

 

門前町の「宮ケ崎町」の西隣に「安倍町」がある。

 

 

次回は「安倍町」周辺を訪ねる。