駿河の国で寄り道(54)「安倍川町・駿府96ケ町(12)」 | れいんぼうの部屋

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」では「駿府96ケ町」を巡っている。

 

 

今回は「駿府96ケ町」の「安倍川町」周辺を探索してみる。

 

大御所となった徳川家康が駿府城の改修と町づくりのために呼び寄せた職人や商人を区画ごとに住まわせた96区画の街並みを「駿府九十六ヶ町」と呼んだ。

 

 

「96ケ町」には静岡市の文化財課が、各町内へ「町名碑」の設置を進めている。

 

 

安倍川には橋の敷設が禁止されていたことから、渡渉で越えるしか無かったので川越人足が大勢必要だった。

この川越町界隈には川越人足が多く住んでいた。

 

〇今回巡る「新通川越町」の町名碑に書かれている地図。

 

 

 

〇新通川越町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「新通川越町」(しんとおりかわごしちょう)
新通川越町は、駿府城の南西にあたり、安倍川左岸に位置します。駿府城下町の西入り口にあたるため、東入り口にある横田町の東見付に対して西見付が設置されました。
町名は、新通筋の西端にあたるとともに、安倍川の川越人足が居住したことに由来しています。文政11年(1828)に発生した安倍川洪水では、新通川越町の見付を押し流したとの記録も残っています(萬留記)。
元禄5年(1692)の「町数等覚帳」では、46戸、282人が住んでいたとされています。昭和45年、川越町・新通二丁目となりました。

 

 

 

本通九丁目の安倍川寄りの町内が「本通川越町」。

 

〇本通川越町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「本通川越町」(ほんとおりかわごしちょう)
本通川越町は、駿府城の南西にあたり、安倍川左岸に位置します。町名は、本通筋の西端にあり、安倍川の川越人足が居住したことに由来します(駿河国新風土記)。新通川越町、堤添川越町とあわせて三川越町と称されました。
当町には川問屋(川越えの手配や監督を行う)鶴田嘉右衛門が居住しました(駿国雑誌)。
川沿いに町があったことは、川越えをする人々を支えた一方で、大水害が起きた際には甚大な被害を受け、宮ヶ崎町の法土寺や寺町の感応寺が救済のため施粥を実施したとの記録もあります(萬留記)。
元禄5年(1692)の「町数等覚帳」では、54戸、175人が住んでいたとされます。大正4年、本通10丁目と改称し、町名の歴史に幕を下ろしました。

 

 

「本通り」と「さつま通り」の交差点から「堤添川越町」「本通川越町」を望む。

 

〇現在の「堤添川越町」「本通川越町」付近

 

 

現在の本通西町は「堤添川越町」の中心地だった。

 

〇堤添川越町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「堤添川越町」(つつみぞえかわごしちょう)
堤添川越町は、駿府城の南西にあたり、安倍川左岸堤の傍らに位置するとともに、安倍川の川越人足が居住したことから、町名が付けられました(駿国雑志)。本通川越町、新通川越町・とあわせて三川越町とも称され、安倍川渡河にいかに多くの人出を要したかを物語ります。
江戸時代、軍事上の理由から安倍川や大井川などの大河には架橋や渡船は許されておらず、渡るためには川会所で川札を買い、川越忍足に川を渡してもらう必要がありました。元禄5年(1692)の「町数等覚帳」では、18戸、97人が住んでいたとされています。大正4年、本通西町と改称し、町名の歴史に幕を下ろしました。

 


三つあった「川越町」の南に隣接して「安倍川町」がある。

 

 

〇安倍川町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「安倍川町」(あべかわちょう)
駿府城の南西にあたる東海道往還から小路を少し南に入ったところに位置した町です。安倍川の渡しの近くに町があったことから安倍川町となったと「駿国雑志」(江戸時代に書かれた駿河国の地誌)は伝えています。
安倍川町はかつての遊女町で「阿部川町」とも書き、俗称で「二丁町」と呼ばれていました。慶長12年(1607)、鷹匠として徳川家康に長年仕えてきた伊部勘右衛門が辞職を願い出た際、家康が二丁四方の土地を与え、遊郭としたことが町の起源となっています。
安倍川町の遊郭は幕府公認のものとしては吉原より古く、日本の歓楽街の始まりと位置付けられ、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にもその賑わいが描写されています。
その後、昭和20年(1945)の静岡空襲と翌年の公娼制廃止により遊郭は消滅し、昭和41年(1966)に町の大部分が駒形通五丁目へと改められました。

 

 

〇県立中央図書館のデジタルライブラリーの地図(川越町周辺)

地図の真ん中を縦に通っている道が「新通」。

新通りと並行して左側に縦に通っている道が「本通」

 

 

 

次回は「四足町、馬場町」周辺を訪ねる。