駿河の国で寄り道(55)「四足町・駿府96ケ町(13)」 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」では「駿府96ケ町」を巡っている。

 

 

今回は「駿府96ケ町」の「馬場町」「四足町」周辺を探索してみる。

 

大御所となった徳川家康が駿府城の改修と町づくりのために呼び寄せた職人や商人を区画ごとに住まわせた96区画の街並みを「駿府九十六ヶ町」と呼んだ。

 

 

「四足町」は現在の「中町」の辺りにあって、駿府城の「四足御門」の門前にあった町。

 

中町の尼崎稲荷神社前に「四足町の町名碑」が設置されている。

 

〇四足町の町名碑

この町名碑には「説明板プレート」が見当たらなかった。

 

尼崎稲荷神社境内の物置にあった由来を読む。

四ツ足御門と中町の由来
四ツ足御門町の町名は非常に地位の高い町名でありました。
今の中町の所から駿府城に入ったあたりに駿府城の四ツ足御門がありましたのでこの町名になったのです。
更にこれをさかのぼれば その昔、大化の改新にともない今の長谷町付近に国庁の四ツ足御門が在ったからという説があります。
その説によれば四ツ足の名は千数百年の歴史を飾る由緒ある町名であります。
現在 中町という町名になったのは四ツ足といえば獣類に通じ 大正4年11月10日「静岡市の中心」ということで中町と改称されたのであります。
平成23年3月15日春季大祭


 

尼崎稲荷神社は細長い通路の先にある。

〇尼崎稲荷神社

四足町の町名碑は鳥居脇に設置されている。

 

境内の物置側面にある尼崎稲荷神社の説明書きを読む。
尼崎稲荷神社の由来
元 尼崎又右衛門という富商の邸内にありました。
家康に召されて駿府に移り はじめ本通5丁目に宅地を賜り そこを十軒町と言ったが 慶長14年 四ツ足御門町(現中町)に替地を賜ったと言われています。
尚 金座町稲荷神社(後藤稲荷神社)このすぐ裏手にあり 慶長の頃 駿府上魚町(現金座町日銀)で小判を鋳造した後藤庄三郎光次郎邸があった所でもあります。
又銀座町は現在の東京銀座に移されています。

 

 

四足御門は静岡法務局と中町ビルに挟まれた所に跡地がある。

 

〇四足御門跡

石垣が「四足御門」の跡地。

 

石垣前に木製の看板が立っている。

 

〇石垣前の木製立て看板

 

内容を読む。
[駿府城四足御門跡]
 駿府城南辺、西寄りの箇所に設けられた出入口で、三ノ丸堀を土橋で渡って、左手へ直角に曲がり、渡櫓門から城内へ入る構造になっていました。東側の大手御門と並び、東海道筋から城へ入る重要な出入口の一つでした。

 

 

「四足御門跡」石垣の向かいの中町ビルという再開発ビルには一部に石垣が組まれていて歴史を残そうとしてくれている。

 

〇中町ビルの石垣

 

中町ビルの石垣に謂われの銘板が書かれていた。 
<駿府城四足門跡>
四足門は大手・横内・草深門とともに駿府城三の丸四門の一つである。中町から外堀を渡って北に進むと突き当りが枡形の石垣で、すぐ左側の南と北に櫓台の石垣を築き、その間に東面して渡櫓の城門を設けてあった。
明治初期に門を壊して払い下げたときの記録からみると大手門に次ぐ規模があったことが推定される。北側の櫓台と升形の石垣は早く取り壊されて南側の櫓台石垣だけが残りこれも中町市街地再開発事業より撤去されたが算木積角石の一部を復元して残すことになった。
四足門の名は今川時代からこの付近の名称となっていたが、その由来は今川館の四脚門があったことによると言われている。
徳川家康が慶長年間に修築した今の駿府城の前身である旧府中城(天正年間造営)の追手門もここであったと考えられる。

 

 

「四足御門跡」から50mほどの坤櫓前の中堀畔に「96ケ町」が整備された時代の古地図モニュメントがある。

 

〇古地図のモニュメント

 

銅板を彫った古地図に「四足町」周辺も描かれている。

 

〇古地図のモニュメントに「四足町」周辺の図も記されている。


安西寺の右の道に「四足丁」と書かれている。

 

 

安西寺と法身寺の間の道が「車町」と書かれている。

現在は「井川湖御幸線(県道27号)」の「中町交差点」から100m西に「車町交差点」がある。

 

「車町交差点」の角に町名碑が立っていて、現在もこの辺りは「車町」。

 

 

〇車町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「車町」(くるまちょう)

牛車運送人(牛飼い)を呼んで住まわせたのが町名の由来と言われています。「駿国雑志」には、清水港からの物資を府中まで運搬するのに牛車を必要とした記録があり、これら牛車や荷車の運航は、茶の輸出などにも大切な役割を果たしたとされます。
その後、運送人たちは安西5丁目に移り、変わって駿府城増設を担うとび職、左官、大工、建具職人などが住むようになりました。元禄5年(1692)には35戸、227人が住んでいたとされます。町内にある「奥津彦神社」は奥津彦命(=竈の神)を祀り、もとは室町時代の初め、今川氏の屋敷内にあったといわれ、地元では「お荒神さん」として親しまれています。

 

 

 

古地図のモニュメントを見ると「法身寺」北の道に「馬場町」が書かれている。

現在は浅間通りの蕎麦屋の前に「馬場町」の町名碑が立っている。

 

 

〇馬場町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「馬場町」(ばばんちょう)
徳川家康公が駿府城に在城の頃に馬場があったことに由来し(駿府雑志)、この馬場では、浅間神社の廿日会祭の流鏑馬が行われていたと言われています。
町内には慶長年間にシャム国(現タイ国)にわたり六昆王にまで出世した山田長政の生家跡があります。
昭和3年以降馬場町の一部が富士見町・西草深町・中町になり、また、追手町・車町など周囲の町の一部の編入などを経て現在に至っています。
宮ヶ崎町と共に浅間神社の門前町として発展してきました。

 

 

 

 

次回は「宮ケ崎町」周辺を訪ねる。