駿河の国で寄り道(50)「寺町・駿府96ケ町(8)」 | れいんぼうの部屋

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釣り以外の記事の方が増えています。

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」では「駿府96ケ町」を巡っている。

 

 

今回は「駿府96ケ町」の「寺町」周辺を探索してみる。

 

大御所となった徳川家康が駿府城の改修と町づくりのために呼び寄せた職人や商人を区画ごとに住まわせた96区画の街並みを「駿府九十六ヶ町」と呼んだ。

 

 

前回「青葉通り」の「下石町」まで探索した。

今回、さらに「青葉通り」を分断する国道362号線を越えて「常磐公園」方面へ向かう。

 

2個目の交差点角地にある「教覚寺」の一角に「常慶町」の町名碑がある。

 

〇常慶町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「常慶町)」(じょうけいちょう)
浄土真宗の開祖の親鸞聖人の教えに帰依した光信房は、鎌倉初期の文暦元年(1234)、自宅(清水区入江)を転じて一寺を建立し念仏の道場としました。これが松江山教覚寺の起こりです。その後、元和2年(1616)第10代乗真の時に、徳川家康公の家臣の松下常慶の屋敷を譲り受けて、この地に移転しました。
松下常慶は駿府城築城の時の功績により城内に常慶蔵や常慶門(東御門)の名前が付けられ、また屋敷も与えられましたが、家康公の死去に伴い江戸に移っていました。
常慶町は松下常慶が居住していたことにちなんだ町名で、昭和20年まで教覚寺境内地だけで一町内という珍しい町でした。
明治のはじめには、静岡藩の商事機関であった「商法会所」が改組され「常平倉」となり紺屋町から教覚寺内に移されました。それとともに、静岡藩の勘定組頭を務めていた渋沢栄一一家もしばらく教覚寺に寄宿していました。
教覚寺は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院で、開基依頼、一貫して仏法聴聞、念仏相続の道場としての役割を果たしています。

 

 

 

「常慶町」の町名碑の交差点を逆側に入った所にある「浄円寺」前の歩道に「藤右衛門町」の町名碑がある。

 

〇藤右衛門町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「藤右衛門町」(とうえもんちょう)
町名の由来は藤右衛門という人が住んでいたことによりますが、古くは「横七間町」と呼ばれた時代もありました。浄円寺は、能楽の発展に深く関わった寺として知られています。
元禄5年(1692)の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると家数5軒、18人でした。
昭和15年(1940)の静岡大火後の区画整理で七間町に編入され町名は消滅しました。

 

 

「青葉通り」の突き当り、常磐公園正面入り口脇の植え込みに寺町の「町名碑」がある。

 

 

〇寺町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「寺町(一~四丁目)」(てらまち)
「寺町」の名は徳川家康公が駿府の城下町を整備した際、駿府周辺の寺々をこの地に集中させたことに由来します。家康公は西国の勢力を強く意識していたので、城下町のはずれに寺を集めることで敵の攻撃に備えていたのではないかといわれています。
当時は、現在の新通一丁目から常磐公園にかけて、駿河町通りをはさんだ常磐公園側に13の寺院、市役所側には町屋が並んでいました。
昭和20年の戦災後、善然寺と感応寺を除くすべての寺院が沓谷などに移転し、跡地に整備された常磐公園は、市民の憩いの場として親しまれています。

 

 

 

 

次回は「七間町」周辺を訪ねる。