今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。
「駿河の国の見どころ」では「駿府96ケ町」を巡っている。
「駿府96ケ町」の「両替町」周辺の探索。
大御所となった徳川家康が駿府城の改修と町づくりのために呼び寄せた職人や商人を区画ごとに住まわせた96区画の街並みを「駿府九十六ヶ町」と呼んだ。
以前訪ねた「平屋町」のあった歓楽街「玄南通り」と交差する、静岡市の歓楽街を代表する「両替町通り」。
静岡の商店街を代表する繁華街「呉服町通り」から100m南西側を並行して栄えている夜の町だ。
〇両替町通り
玄南通りとの交差点から80mほど北で交差する「青葉通り」の一角に「両替町の町名碑」は立っている。
〇両替町の町名碑
説明書きを読む。
駿府96ケ町のうち
両替町(りょうがえちょう)
町名は、慶長11年(1606)この地に銀座が設けられ、両替商が置かれたことに由来します。当時は両替町6ヶ町のうち二丁目に銀座役所が、一~四丁目に銀座役人の役宅があったとされています。
駿府の銀座は、京の伏見についで全国で2番目に設置されましたが、慶長17年には江戸へ移されました。東京銀座のルーツが駿府の両替町にあったのです。
三丁目には「分時鐘」または「時之鐘」と称する鐘楼がありました。この鐘は、寛永12年(1635)に三代将軍家光から駿府城下の町民へ下賜された米の一部で作られ、江戸時代を通じて、時を報せる鐘、あるいは非常時の警報としての役目を担っていました。
また、両替町は「東海道膝栗毛」の作者として知られる十返捨一九の生誕地であると伝えられています。
昭和20年、両替町一~三丁目は一丁目に、両替町四~六丁目は二丁目に再編成され(一部は七間町など)、現在に至ります。
両替町の町名碑がある青葉通りは公園を挟んだ通行帯を作っていて、「青葉公園」とも言われている。
「青葉公園」は静岡市役所から「常磐公園」まで続く防火帯の役目を持っている。
「青葉公園」は静岡大火の後に防火帯として作られたので道路に挟まった公園を含む、35メートルの幅員のスペースが作られている。昔はここにおでん屋の屋台が並んでいた。
〇市役所から見た青葉公園
青葉公園のモニュメント
市民の憩いの広場であり、時々フリーマーケットやイベントが開催されるスペースになっている。
「青葉通り」を「常磐公園」方面へ向かうと国道362号線と交差する。
この交差点に「下石町」の町名碑がある。
〇下石町の町名碑
説明書きを読む。
駿府96ケ町のうち
「下石町」(しもごくちょう)
町名の由来は、米麦豆など穀物の販売をした
商人が居住したことによります。
家康公の駿府在城時、穀物を商う町には、上石町一、二丁目と下石町一、二、三丁目がありました。
元禄5年(1692)の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、下石町の家数は合計72軒、人数は343人でした。
下石町は、昭和20年に両替町、七間町に分割改編され、その町名が消えました。
次回は「寺町」周辺を訪ねる。