駿河の国で寄り道(51)「七間町・駿府96ケ町(9)」 | れいんぼうの部屋

れいんぼうの部屋

釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
https://ameblo.jp/rai-trout/theme-10112228739.html

今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」では「駿府96ケ町」を巡っている。

 

 

今回は「駿府96ケ町」の「七間町」を探索してみる。

 

大御所となった徳川家康が駿府城の改修と町づくりのために呼び寄せた職人や商人を区画ごとに住まわせた96区画の街並みを「駿府九十六ヶ町」と呼んだ。

 

 

前回探索した「寺町」の町名碑があった常磐公園から北西へ進むとすぐに、七間町通りが駒形通りに変わる交差点へ出る。

 

駒形通側から七間町を見通すと正面には県庁が見える。
 

 

七間町通りを呉服町方面へ80mほど進んだ歩道に「七間町」の町名碑が立っている。

 

〇七間町の町名碑

 


説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「七間町三丁目」(しちけんちょう)
七間町二丁目の南隣に位置する町です。「駿河記」によれば、梅屋町・人宿町・七間町の辺りは、古代に安倍市が置かれていた物資交流の中心地であるとされています。
元禄5年(1692)の「町数等覚帳」によると、七間町三丁目は21戸、213人が住んでいたとされています。また、町内の青葉通り沿いに鎮座する別雷神社は、安倍市の守護神として祀られてきました。今川氏や徳川氏の崇敬も篤く、江戸時代までは神仏習合で、別当(神社を管理するために置かれた寺)は雷電寺と呼ばれ、御祭神は別雷命と玉依姫命です。
また、境内には駿府城下町の自治を取り扱う会所が置かれ、年行事当番が町奉行からの命令を書留回状として町々に知らせました。

 

七間町は町名碑のある場所から500メートル、呉服町通りと出会う「札の辻町」の町名碑まで続く。

 

〇「札の辻町」の町名碑がある伊勢丹前から七間町を臨む。

この通りはかつて呉服町通りと並んで静岡市の繁華街を形成していた。

今でも昔ほどではないが個性的な店も残っていて魅力ある商店街が形成されている。

 

旧東海道は呉服町通りから折れ曲がって、この七間町通りを通っていた。

 

 

 

七間町通りと並行して「人宿町通り」がある。

この通りは特に商店街は形成されていないが飲食店が多く見られる。

 

 

七間町通りと同じく500mほど続く通りで、南端しが栄えていて「人宿町」の町名碑がある。

この町名碑がある周辺は、最近リニューアルされて勢いのある町になっている。

 

〇人宿町の町名碑

 

七間町通りを通ってきた旧東海道は、町名碑がある場所に向かって90度折れ曲がる。

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「人宿町」(ひとやどちょう)
駿府城の南西に位置しています。町名は、慶応年間(1865~1867)まで宿があったことに由来します。今川氏の時代には梅屋町・七間町とともに「今宿」と呼ばれ、他国商人らの旅宿や諸大名の休泊地として栄えました。
寛永3年(1626)の資料中にはすでに「人宿町」と見えることから、「人宿町」と呼ばれるようになったのは寛永3年以前であると考えられています。
ここには、長崎糸割賦会所が置かれ、京・江戸・堺と同様に町人に唐糸が配分されたと言われています(駿河記)。
元禄5年(1692)の「町数等覚帳」では、一、二丁目合わせて35軒、296人が住んでいたとされます。
昭和20年の町名再編成により、人宿町一、二丁目となりました。

 

 

旧東海道は西進すると間もなく左折し、方向を変える。

この左折する交差点付近は、町名も「人宿町」から「梅屋町」に変わる。

 

今回は旧東海道へ進まず、この交差点を右折する。

右折後、次の交差点の角に「津島神社」があって、敷地内に「梅屋町」の町名碑がある。

 

〇梅屋町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「梅屋町」(うめやちょう)
慶長14年(1609)と伝わる駿府城下町の整備に伴い、東海道に面することとなった。駿府城の南西方向に位置した町です。東海道五十三次が定められた後も慶安(1648~1652)の頃までは、この近辺に旅宿を営んだ者が多くいました。町名はもともと旅館を営み、本陣と称していた梅屋勘兵衛という人物が居住していたことに由来します。
昭和20(1945)年の区画整理で町域を変え、寺町一、二丁目ほか周辺の町の一部を編入しました。
また、慶安4年(1651)年、江戸幕府転覆を謀った軍学者の由井正雪の事件(慶安の変)が発覚し、正雪らの自刃の舞台となった地でもあります。梅屋は謀反人を止めたという理由で、家財没収の上、追放処分となり、江尻宿(清水)に移りました。

 

 

梅屋町をさらに進むと「上石町」へ入る。

この道も「七間町通り」と「人宿町通り」に並行して進む。

 

国道362号線をこえてしばらく行くと歯科の敷地に「上石町」の町名碑が立っている。

 

〇上石町の町名碑

 

「上石町」は現在では、特に特徴のない繁華街の裏通りとなっていて飲食店などが散在している

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「上石町」(かみごくちょう)
江戸時代の初めには、「本石町」とも呼ばれていました。{石}は「穀」
を意味していると言われ、実際に豪商の米座がありました。
江戸時代に編まれた「駿国雑志」によると、徳川家康駿府在城時に、穀物販売を上石町と下石町に限定したことにより、穀物商人が集まっていたとされています。
江戸時代の後半になると住人に指物屋、や塗師屋等が集まる、職人の町になりました。
元禄5年(1692)の「駿府町数並家数人数覚帳」によると、当時の家数は32、人数は292人でした。

 

 


 

次回は「本通」周辺を訪ねる。