駿河の国で寄り道(32)「日本坂」(ヤマトタケルその2) | れいんぼうの部屋

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釣り以外の記事の方が増えています。

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」での前回は「ヤマトタケル」にちなんで「日本平」を訪ねた。

 

今回も「日本武尊(ヤマトタケル)」ゆかりの地を訪ねる。

 

「ヤマトタケル」は全国各地にいろいろな伝説が伝わっていて、静岡にも関連した見どころが多い。

前回の「日本平」に続いて「日本坂」

 

ここも「日本平」と同じく子どもの頃からの疑問だった。

何故「日本」?

そんなに日本を代表するような名称で呼ぶほどの峠には見えないのに。

 

そんな思いを抱いたまま長い年月の後に知ることになった。

 

日本武尊が

この峠道を越えて東国征討に向かった

という伝承に因んで「日本坂」と言う。

 

「へぇー そうだったんだぁ」

 

「ヤマトタケル」がどのように関わって地名になったのかは、いろいろな伝説があって何が本当なのかが分からない。

そもそも「ヤマトタケル」の存在自体、確信できない。

 

日本坂を有名にさせたのが昭和54年の東名高速日本坂トンネル事故だった。

トンネル事故の怖さを再認識させてくれた功績はあるが、「日本坂」が全国的に悪名高いものになってしまった。

事故から50年近くなって、最近やっと知らない人が多くなってきた。

 

 

 

静岡市駿河区の小坂集落を抜けると日本坂の案内板がある。

 

〇日本坂の看板

由来が書かれているので読む。

日本坂の由来

 日本坂は、奈良期の官道が初倉駅(島田市)、小川駅(焼津市)、横田(静岡市)を経由していたことから当時の東海道の峠道として使われていたと思われる。

 「城超えて阿部の田の面に居る鶴(たず)の ともしき君は明日さえもがも」(万葉集)

 にみえる坂は日本坂と思われ

 「焼津辺にわれ行きしかば駿河なる 安倍の市道に逢ひし児らはも」万葉集

 の歌でも、この峠が安倍の市との交易路として重要であったことがわかる。

 平安末期以降は、東海道が宇津の谷峠越えとなり日本坂超えは衰退したが、地元では昭和10年頃まで花沢側で生産された繭が(日本坂越しに)運ばれるなど生活に密着した峠として用いられた。

 坂名は、焼津の地名起源説話に影響されたと思われ日本武尊にちなむという。(駿河志料)

 

みかん畑の脇に地図が描かれた看板もあって、「日本坂まで 40分」と書かれていた。

 

しばらく行くと自動車道が突き当り、「日本坂」入口の階段を徒歩で登る。

 

〇日本坂の登り口

 

かつては馬での往来が可能だったらしく思ったより広い山道が残っている。

 

〇日本坂

 

30分足らずで峠に出る。標高が302mとのこと。

 

〇日本坂の峠にある案内表示板

 

峠の直ぐ横に石組みの祠があって地蔵尊が祀られていた。「穴地蔵」と言われている。
 

〇穴地蔵

これが日本武尊命が隠れたとされる岩穴だとか。
2000年近く前の話なので当時のままではないだろうと思うけれど思いをはせてみました。

 

 

「小坂」の集落まで戻る。

 

坂を下りた「小坂」の民家の門を入った所に「御所の石」という「日本武尊の腰掛石」があり、日本武尊が腰を掛けて休んだという。

 

〇小坂の磐座

由緒書きを読む。
<坂の磐座(いわくら)の由緒>
 縄文人も弥生人も通り日本武尊が坂越えしたと伝承される。
 この峠路をいつしか尊の御名に因んで日本坂と呼ぶようになりました。この日本坂は都と東国を結ぶ最古の官道で万葉の道駅馬の道防人の道として世に知られています。
 坂の東口、路傍の山の端に旅人の守護神として崇められ磐座が鎮祭されていました磐座とは古代人が信仰した神が宿る神聖な霊石のことです。
 小坂からの坂越えの人達は旅の道中安全を祈願し花沢からの旅人は恙なく坂越えてきた感謝の祈りを捧げました。往昔の苦難の旅路。その語るこの磐座には多くの古代の人達の魂とロマンが秘められています。
 この霊石は平成元年9月台風禍にて崩落し、地主成澤義行政江夫妻がこれを痛み畏れ、守護神として自邸に奉祭し旅人達の御霊安かれとお祀りしています。

 

駿河の国には、まだまだ「ヤマトタケル」に縁のある地が数多く有る。

 

 

次回「駿河の国で寄り道(33)」は「草薙と焼津」の話。