駿河の国で寄り道(30)「片山廃寺跡」 | れいんぼうの部屋

れいんぼうの部屋

釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
https://ameblo.jp/rai-trout/theme-10112228739.html

今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」での前回は「宮川古墳群」を訪ねた。

 

今回は「片山廃寺跡」

 

静岡大学の周辺には「宮川古墳群」以外に「片山廃寺跡」という遺跡がある。

 

 

〇静岡大学の正門

有度山の西端にある静岡大学。

 

静岡大学の北西、東名高速道路脇にある「片山廃寺跡」へ行く
 

有度山の西麓。東名高速道路の高架下に片山廃寺跡がある。

 

〇片山廃寺跡

説明書きがある。

国指定史跡 片山廃寺跡
片山廃寺跡は、奈良時代後半(8世紀後半)に建てられ、平安時代前半(10世紀前半)まで存続したと考えられる古代の寺院跡です。JR静岡駅から南東3.5㎞の有渡山西麓に位置し、寺院の敷地は、約160m四方の広大な面積であったと推測されています。
この寺院を駿河国の国分僧寺とする説もありますが、塔の跡が発見されていないことから、有渡郡の有力豪族の氏寺であるとする説もあります。
<遺跡の発見>
片山廃寺跡は、古くは江戸時代の地誌である「駿河国新風土記」に「久能寺の坊中にて昔一千坊の廃跡なるべし」と記され、久能寺に結び付けて紹介されていました。1930年(昭和5年)に大谷街道が造られたとき、畑の中から「多くの瓦と整然たる礎石列」が発見され、旧制静岡中学校の大澤和夫教諭と郷土研究部員らによって、奈良時代の古代寺院跡として初めて確認されました。そして、建てられた場所の地名(小字名)から「片山廃寺」と名付けられることになりました。
<発掘調査>
片山廃寺を解明するための本格的な発掘調査は戦後になって始められることになりました。最初の調査は、1948年(昭和23年)に登呂遺跡周辺調査の一環として日本考古学協会によって行われました。ついで、1956年(昭和31年)に第2次発掘調査が、1966年(昭和41年)には東名高速道路の建設工事に伴って第3・4次の発掘調査が静岡市教育委員会によって行われました。調査の結果、金堂、講堂、僧房の基壇(地面から盛り上げた建物の土台)の一部と礎石(建物の土台の上に置き、柱の基礎にした石)の配列が確認され、寺院中心部分の伽藍(寺院の建物)の様子がわかってきました。
1992年(平成4年)から1995年(平成7年)に行った寺院の範囲を確認する調査では、境内西側の境界と考えられる直径25~40cmの柱の列の跡が発見され、木の柱を支柱にした板塀が寺院の境内をめぐっていたことが判ってきました。
また、第4次調査および1996年(平成8年)の第34次調査では、火災によって金堂・講堂・僧房が焼失し、その後復旧されなかったことも判明しました。
所在地 寺院跡:静岡市大谷字片山.上亀井 瓦窯跡:静岡市大谷宮川
指定年月日 昭和40年9月7日(追加指定 昭和49年5月13日)
<史跡指定>
片山廃寺跡は、仏教文化が政治の中心である大和から全国に伝わっていく様子を知るうえでも、また、駿河国のの当時の様子を知るうえでも貴重な古代寺院の遺跡であることが認められ、1965年(昭和40年)に国の史跡に指定されました。
また、片山廃寺跡の南方約500mの山裾には、片山廃寺で使用する屋根瓦を焼いた、宮川瓦窯跡群があります。1971年(昭和46年)に行った清泉寺窪地区の発掘調査で登窯2基と平窯1基が確認され、1974年(昭和46年)に「片山廃寺跡瓦窯跡」として、国史跡の追加指定を受けました。

 

 

 

〇片山廃寺

寺の跡が発掘保存されている。

<<史跡の内容>>
<伽藍配置>
伽藍(寺院の建物)はいずれも南向きで、境内のほぼ中央に南側から金堂、講堂、僧房の順で配置されています。
<金堂跡>(寺院の中心的な建物で、本尊を安置する建物)
建物:間口7間・30.9m、奥行4間・17m
基壇:間口37m、奥行23m
<講堂跡>(法要や教典の講義を行う建物)
建物:間口7間・25.5m、奥行4間・15.8m
基壇:間口30.3m、奥行20.6m
須弥壇(仏像を安置する台):間口10.9m、奥行4.2m
<僧房跡>(僧路の住居となった建物)
建物:間口23間・68.2m(推定)、奥行3間・9.1m
基壇:間口70.3 m(推定)m、奥行10.9m
<出土遺物>
瓦類:軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦、平瓦、鬼瓦
土器類:須恵器、土師器、灰釉陶器
鉄製品:コテ、釘

石製品:大理石製の磚(建物の床や壁などに使用された煉瓦状の建築材)

 

 

この「片山廃寺跡」は国分寺だったとか国分尼寺だったとかいろいろな人がいろいろな説を唱えていてロマンにあふれる。

 

答えがわからないからいろいろなことを妄想出来て楽しそう。

肯定できない代わりに否定もできない。

 

 

考古学レベルの話が続くが、次回も古い話。

 

 

次回「駿河の国で寄り道(31)」では「日本武尊(ヤマトタケル)」の話。