駿河の国で寄り道(15)北街道の瀬名地区 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

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前回たどった「最古の東海道」として「安倍の市」から東へ向かういくつかあるルートのうち

「北街道」の谷津山周辺を巡った。

 

今回は「北街道」の続き。

 

「北街道」の谷津山の東端に「愛宕霊園」があって昭和の静岡大火に伴って移転してきた寺町が形成されている。

この辺りの北街道は旧東海道と1kmも離れていない。

「愛宕霊園」は旧東海道を巡った際に立ち寄っているので先へ進む。

 

 

駿府城に近い「北街道」では家康ゆかりの寺社が多かったが、離れると江戸時代より以前の歴史に触れるようになる。

 

谷津山から1.5kmほど進むと巴川と長尾川を越えて西奈地区に入る。

 

長尾川を渡って500mで2車線の北街道は4車線の新道と合流して清水方面へ進む。

 

〇北街道


この辺りは瀬名川という町名。
「瀬名川」
瀬名川という地名は、長尾川が平時には水がないため瀬無川(長尾川)とも呼ばれ、名付けられたと言われる。
1253年に東国へ向かう藤原為家が「せな川のはや瀬に見えず行く水や いも恋いわたる涙なるらん」と詠んでいる。


「瀬名川西交差点」を北へ入ると旧西奈村の「瀬名」「長尾」「平山」と続き、突当りが龍爪山の登山口となる。

瀬名は西奈郷の中心地。西奈の読み方は「せな」だったが「にしな」といつしか呼ばれるようになった。

 

 

東海道が整備される以前は北街道が京から坂東へ向かう往還道路だった

 

旧北街道は今の4車線の新道より更に300mほど南を通っていたらしい。

 

〇旧北街道・矢射タム橋


この交差点に石碑が立っていて説明看板もあったので読む。(概略)
「梶原景時と矢射タム橋」
1199年源頼朝が死亡し、頼家が2代将軍となった。
鎌倉幕府の梶山景時は鎌倉を追われ、上洛しようとした。
幕府方は景時一行を阻止しようと各地の豪族に討伐指令があり、戦いの末、瀬名の地で自害した。

「矢射タム橋」の由来は、このあたりで地元の武士と矢を射りあったとの言い伝えによる。

旧北街道が通っていたことを偲ばせるように2軒の寺がある。

〇浄界寺

「第56番 梅花観音霊場」の看板が掲げられている。金毘羅大権現のお堂も建っている。
 

 

〇世尊寺

寶集山 世尊寺という日蓮宗の寺で1474年の開山

 

 

北街道から離れて瀬名方面へ北上してみる。


「瀬名川西交差点」を北上して700mほど行った所に池がある。


〇弁天池


池に中の島が造られていて、神社が祀られている。

<駒形神社>
田心比売命(多紀理比売命)
滝津比売命(多岐都比売命)
市杵嶋比売命(市寸嶋比売命)
 宗像大神とたたえ申す、宗像三女神をまつる神社です。
 貞享二年(西暦1685)地頭大久保紀伊の守の勧進と言う。元弁財天御社と称せしを、明治2年、今の社号に改む。
 貞享年間、紀伊守大久保玄蕃の奥方が、一夜の夢枕に弁財天が現れて、江戸(東京)上野にある「不忍池に型とって造れよ」と教えたところより、池も島もその様に築造されたと言われる。
 国家鎮護・海上交通・漁業守護の神としてあがめられますが、特に別名を、道主神ともいうところから、交通安全の信仰が盛んです。
 池は昔から農家にとって、かかすことの出来ない農業用水として、尊ばれて来ました。
 明治8年3月、宗教法人法により、宗教法人「駒形神社」となる。



弁天池から300mほど北に光鏡院がある。

 

〇光鏡院前にある案内看板


入口の向かいに看板が立っているので読む。(概略)
梶原一族について
1,180年に源頼朝は平家討伐の旗あげをして、相模の石橋山で敗れた際に梶原景時が助けた。
その後、頼朝に仕えたが、頼朝没後の勢力争いに敗れた。
1,200年に西国の所領に向かう途中、大内(清水区)あたりで地侍の待ち伏せに遭い、梶原山に逃れ、一族共に自害して果てた。
梶原山の山頂には、梶原親子を供養した梶原塚がある。

 


曹洞宗「清涼山 光鏡院」がある。

〇光鏡院 仁王門


説明書きを読む。(概略)
光鏡院は、今川陸奥守一秀の菩提寺で、1488年に僧・恵雲が開山した曹洞宗の寺。
1476年に今川義忠が不慮の死をとげ、今川一族の間で竜王丸(今川氏親)派と小鹿範満派に分れて争いが起る。

一秀は竜王丸を補佐するため遠江から瀬名に移り住み、瀬名氏と改名した。

「瀬名館」は瀬名集落のほぼ中央にあった。遺構は認められない。

「瀬名砦」の所在は不明であるが、光鏡院の裏山と考えられ、1568年武田信玄の駿河侵攻の際に落城した。


一段高い所に本堂がある。手入れが行き届いた境内。
 

〇光鏡院 本堂


本堂の裏には1000基は下らなそうな墓地が広がっている。

中でも今川一秀の墓が目を引く。説明看板がある。(概略)
今川一秀は1432年遠州堀越の今川貞延の子で父貞延が戦死したため城主になった。

駿府の今川義忠が戦死し、子の龍王丸(氏親)の後見役として瀬名に移った。

1487年僧慧雲に命じて光鏡院を建立開山した。

1503年72才で没した。「瀬名殿」と呼ばれこの頃から「西奈(せな)」が「瀬名」になった。

 


光鏡院と並んで臨済宗妙心寺派の「大淵山 龍泉院」がある。
 

〇龍泉院

住職の奥さんに貰った由緒が書かれたコピーを読む。(概略)
<龍泉院開創由緒>
1571年今川氏親の2女、義元の妹。

龍泉院殿光巌瑞圓大姉と1572年氏俊が寺を創立し大淵山龍泉院と号し臨済寺4世鉄山和尚を請して開山始祖とした。


光鏡院の前の農道を登って梶原山へ向う途中に古墳の看板が立っている。

〇瀬名古墳


今はどこが古墳かわからなかった。看板を読む。(概略)

<瀬名古墳群>
5世紀~7世紀代まで、西奈地区を治めた豪族の墓と考えられ、前方後円墳3基・円墳3基・方墳1基以上で構成されている。



梶原山の頂上は開けていて見晴らしが良い。
 

〇梶原山

頂上には「梶原平三景時終焉の地」「梶原景時親子供供養塔」と彫られた石碑が建っている。

説明看板を読む。(概略)

<梶原平三景時終焉の地> 源頼朝の家臣だった梶原景時は頼朝の死後、北条氏などと対立し、1200年西国へと向かった。

清見関(興津清見寺町)まで来た時、駿河武士団の吉香小次郎、渋河次郎、 船越三郎、飯田五郎、矢部小次郎と高橋、飯田、高部地区において合戦になった。
梶原景茂(3男)が戦死し、景時、景季、景高(2男)と親子3人で鳥坂に程近い牛ケ谷の山(梶原山)に入った。

「もののふのかくこ(覚悟)もかかるときにこそ 心の知らぬ 名のみお(惜)しけれ」と辞世の句をのこし3人ともこの地で自害した。

 

 

梶原山から富士山と静岡市内が一望できる。

 

〇梶原山


残念ながらこの日の富士山は頭を雲がおおっていた。

梶原山公園から10分ほど歩くと一本松公園がある。

〇一本松公園


ここも大変見晴らしが良い。

 

 

今回は「北街道」の「瀬名地区」周辺を巡った。

 

次回「駿河の国で寄り道(16)」では「エンバーソン邸」を訪ねる。