駿河の国で寄り道(14)北街道 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

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ブログの書込みネタがいろいろ変わるけれど今回は「府中宿」関連。

 

前回は、「最古の東海道」として「安倍の市」から東へ向かういくつかあるルートのうち「長谷通り」周辺を巡った。

 

今回は「北街道」周辺を巡る。

 

静岡には「家康ゆかりの地」がいたるところにある。

あまりにも数が有り過ぎて興味を示す人が少ないために埋もれてしまっている隠れた名所が数多くある。

この「北街道」周辺にも家康ゆかりの寺社が点在している。

家康の名前が書かれた箇所は文字の色を赤にしてみた。

 

どの寺も、名所として力を入れて広報し、物語を一つ作ってしまえば観光スポットになる可能性がある。

 

 

先ずは前回巡った「長谷通り」の東はずれにある「熊野神社」から500mほど南にある水落交番から出発。

 

〇水落交番

水落交番は北街道に面していて裏に水落と呼ばれる駿府城外堀の流れ出しがある。

 

江戸時代に駿府城築城のために造られた横内川という運河へ駿府城の堀の水を流れ落とす地として水落と呼ばれた。
今は暗渠となって北街道の下を流れている横内川は下流で巴川へ合流し清水へと至る。

明治以前までは武士の屋敷が多い地域だった。 

 


水落の交差点から北街道を500m進んだ信号の路地を左に入ると先宮神社がある。
 

〇先宮神社

看板を読む。(概要)

お社は、778年の創建。往古は足濯(あしすぎ)神社と称した。

浅間神社の先宮として栄えた。

 

「先宮神社」の隣に家康ゆかりの寺がある。

 

〇来迎院

「浄土宗 大用山 来迎院 英長寺」 山門の脇に「本尊不動明王」と書いてある。

境内の「十三仏堂」の本尊が不動明王。

「十三仏堂」は由比正雪の門下になって仇討ちに成功した宮城野としのぶ姉妹が、正雪の菩提を弔うため正念寺に建て、後に移した。
看板に説明書きがあったので読む。(概略)
1611年に徳川家康が創建。

本尊の阿弥陀如来様は聖徳太子の作と伝えられている。

開山の廓山上人は今川家の家臣。家康の信任厚く駿府城に度々招かれていた。
家康が寄進した南蛮屏風は明治初年に宮中へ献上した。

境内の「揚梅の木」は家康のお手植。

 

境内の一角に「筆塚」と隷書で書かれた石碑が立っている。

 

〇筆塚


書は「幽渓書」との落款がある。

青木幽渓は日展の入選者で勲5等瑞宝章授章者。県の書道会顧問だった人だ。

 

 

街道へ戻ったすぐ先の歩道脇に石柱が立っている.

 

〇「北街道と横内川」の説明書き

説明書きを読む。(概略)

北街道は中世以降、近代初期まで約750年間にわたって「東海道」の役割を担う街道だった。
横内川は400年前、
家康公の命により駿府城築城に際して造られた運河。

江尻湊から船荷を巴川畔の川合で横内川に積み替え、府中までの運搬水路として使われていた。

交通量の増加に伴い昭和の中頃全線暗渠とした。

 

 

来迎院から東500mに見える「谷津山」の麓に寺が点在する。

西端の「音羽山 清水寺」は東海道を巡った際に立ち寄った寺。

 

〇清水寺

 

清水寺の隣にある清水公園の北側の路地を入り200m。

瓦場町という町名になり谷津山の麓に「元長寺」がある。

 

〇元長寺


曹洞宗の「天叟山 元長寺」

<瓦場町>
瓦場町は駿府城を築く際に集めた瓦職人が住んでいたことに由来する。

 

 

さらに谷津山の麓に沿った道を進むと「沓谷霊園」という市営墓地があり、墓地に沿って回り込むと曹洞宗「大森山 長源院」がある。

 

〇長源院

門の看板を読む。
1487年の創建。

覚山見知和尚が、手越の泉秀寺がある場所まで来た時、つえの倒れる方角に寺を建立することを決めた。

つえはしばらく立ったままだったが、つえの先から蛇が現れ、やがて竜となって沓谷の方向に飛んでいった。

竜が舞い降りた谷津山の麓で村人たちは山を削り、池を埋めた。

湧き出して止まらぬ水をひしゃくで汲み干した老人が「我は福老人(當山鎮守毘沙門天萬福子聖権現)である」と言い残してこつ然と姿を消し、「長源院」が完成した。

以来、大晦日に参詣者にひしゃくを出し、元日には「万福舞」というひしゃく踊りの習慣が残っていたが、今はどのような踊りであるのか不明。

 

〇長源院 本堂

鐘楼も有り整えられた境内。
説明を読む。(概略)
大森山長源院は、戦国初期、今川氏親公の重臣、朝比奈左京亮泰以公が建立。

当山7世在川謙昨大和尚の時に、徳川家康が鷹狩りの度に立寄った。

種々の家康からの下賜品等あったが3度の火災に遭い焼失。

檀家の山田常賢に賜わりたる葵の紋章入りの印篭が現存する。

家康没後、大位牌を本堂正面に安置し、祀っている。

境内には多くの駿府城代、与力、同心、旗本等の墓がある。

 

 

 

 

長源院から東中学を横眼で見ながら北街道まで戻る。
このあたりは銭座町という町名になる。

 徳川4代将軍家綱の頃この地で銭座を設け、寛永通宝(駿河銭と呼ばれた)を鋳造した。
 そのことから字名が「銭座」となり、その後町名となった。
 

北街道は現在4車線となって清水方面へ向かうが「沓谷2丁目」の交差点で左に分離する道が旧道になる。
この交差点を北上する道が「唐瀬街道」という。千代田、竜南、上足洗、北安東、城北、池ケ谷、岳美を通りながら唐瀬へと通じる。

<沓谷><上足洗>の町名の由来
室町時代には既に「駿河国沓屋郷」と呼ばれていたことが記された書物が存在するとのこと。
伝説では「浅間様」又は「日本武尊」が今の上足洗の辺りに来たとき、沓を脱いで足を洗ったとされる。沓脱ぎが沓谷に変わり、足洗いが上足洗という地名になったという。

 

 

沓谷2丁目の交差点、北街道沿いに山門がある。

 

〇蓮永寺山門

〇蓮永寺仁王門


 

〇蓮永寺本堂


貞松山蓮永寺・みまつさんれんえいじ

蓮永寺は、はじめ庵原(いはら)郡松野村に建てられてあった。

1615年にお万の方の発願によって、駿府の鎮護とすべく、この地に再興された。
お万の方は、
徳川家康に仕えて家康の第10子頼宣(紀州家)、第11子頼房(水戸家)を産んだ。

水戸黄門の名で知られる水戸光圀公はお万の方の孫に当る。
お万の方は1616年に、家康が駿府城で歿すると、剃を下して養珠院と号し、この蓮永寺にこもって、家康公の菩提を弔った。

 

〇お万の方供養塔

 

〇蓮永寺には勝海舟の母と妹(佐久間象山の妻)の墓もある。

勝 信子の墓。説明書きを読む。(概略)
「勝 信子」は勝海舟の実母であり、勝甚三郎元良の娘で小吉惟寅の妻。
1961年3月25日 行年67歳静岡に於いて病歿。
 

 

蓮永寺から300m東の谷津山の麓に曹洞宗「洞谷山 龍雲寺」がある。

 

〇龍雲寺

竜雲寺は、今川氏親の妻である「龍雲寺殿峰林寿桂大禅定尼(寿桂尼)」の菩提寺。
1526年今川氏親が56歳で亡くなると夫人は剃髪し、翠光院寿桂(後に長膳院)と号し、氏輝、義元、氏真3代約40年の永きにわたり政務に関わった。

1560年今川義元が桶狭間で戦死後の今川家を支えた。

 

 

龍雲寺の隣りの谷津山を登ると、かつては山城だった愛宕神社がある。


〇愛宕神社の拝殿と本殿。

説明書きを読む。(概略)

愛宕山は古来より山岳信仰の神体山として庶民の信仰をあつめた。

徳川家康が駿府城の鬼門除けとして山城国愛宕山権現から馬に乗った将軍地蔵を勧請した。

 

周辺には曲輪跡や堀切跡などが点在している。

 

 

今回は「北街道」周辺を巡った。

 

次回「駿河の国で寄り道(15)」では「北街道」を進んでみる。