駿河の国で寄り道(12)最古の東海道をたどる(その3) | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

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2022年4月から駿府周辺の旧東海道を撮りためた写真で振り返った。

 

前回は「最古の東海道」をたどった。

 

 

今回も「最古の東海道」の続き。


駿河区小坂地区を奥に入ると日本坂の案内板があり、由来が書かれている。

由来が書かれているので読む。(概略)

日本坂は奈良期の官道使われていた。

平安末期以降は、東海道が宇津の谷峠越えとなり日本坂超えは衰退した。

地元では生活に密着した峠として昭和初期まで用いられていた。
日本坂の名は、焼津の地名起源説話に影響されたと思われ日本武尊にちなむという。

 

 

道が二手に分かれている。
真っ直ぐ進むと日本坂。
右に曲れば満願峰への道となる。

 

分岐点には御坂堂という小屋が建っていて日によっては農産物の直売所にもなっている。
 

〇案内図

地図が描かれた看板があって、道案内されている。案内図が多く立てられている所を見ると迷う人が多いのだろうか。
<御坂堂から登ろう!>
 日本坂まで 40分  花沢の里まで1時間15分 満願峰まで 2時間20分
 満願峰472m 農道から25分歩いて約1300歩 農道から40分歩いて約1800歩

 

日本坂へ向かう。
しばらく登ると農道は突当り急な山道となる。
山道とはいえ、石垣が組まれて整備されているところもあり、実用とされていた時期があったことがうかがわれる。
石垣の上は茶畑だったようにも見えるところもある。

〇山道



かつては馬での往来が可能だったと言われている。

〇日本坂の山道


険しい場所もある。
山は手入れされていない林となっていて林業の後継者不足が垣間見える。
 

農道から離れてから15分足らずで峠に出る。標高が302mとのこと。
 

〇日本坂の峠


峠の直ぐ横に石組みの祠があって地蔵尊が祀られていた。

 

〇「穴地蔵」

これが日本尊命が隠れたとされる岩穴だとか。
2000年近く前の話なので当時のままではないだろうと思うけれど思いをはせてみた。
 

右に尾根伝いに2.1kmで満願峰

登ったり下りたり繰り返してやっと頂上へ。

 

〇満願峰からの眺望

満願峰の頂上。標高は470m。
頂上には四阿も建てられていてハイキングの目的地としてよく整備されている。
晴れていれば静岡市街地の先に富士がきれいに見えるのだが頂上に着いたら麓が見えるのみだった。
 

ハイキングコースを描いた周辺地図と案内看板が四阿脇に立っていたので読む。(概略)
東南に下ると「日本坂峠」を経て「花沢山」にむかう。

北西に進むと逆川沿いを下り、旧東海道の「宇津ノ谷」に向かう。
 

満願峰から日本坂まで戻り、焼津方面へ下りる。
 

〇焼津方面へ下る。

このような悪場もあって、崩落がたびたびあるのだろう。
このような所も馬で往来したのだろうか。

峠を越えると焼津の花沢集落へ出る。

〇花沢の農道からの登り口。


〇農道を横切って街道を下りると石畳となっている場所もあった。
 

街道は「高草山 法華寺」の境内に出る。

〇法華寺

 

〇仁王門

仁王門が建てられていて仁王様が出迎えてくれる
 

〇仁王像

入口にある寺にある文化財の説明看板に「仁王門」の説明が書かれていた。(概略)
焼津市指定有形文化財 仁王門  昭和42年12月4日指定
1703年、藤枝の大工伊左ヱ門によって建立された。

 

入口近くのお堂の脇に看板が建てられていたので読む。(概略)
高草山の隣村の乳の出が悪かった嫁が法華寺の門前で祈ると観音さまが現れ、乳の出がよくなった。

以来法華寺は乳観音をまつり、法華寺のことを別称「ちちかんのん」と云っている。

境内にこの寺にある文化財を説明した看板が立っていた。(概略)
静岡県指定有形文化財

木造聖観音立像。像高169.2cm寄木造りで直立の等身大立像。

平安時代後期)の作と思われる。

〇法華寺から鞍掛峠までの道を散策


寺の山側に花沢の里の山小屋があってその脇を案内標に沿って登る。

〇小さな沢の脇に石組みされている坂道を登る。


馬や荷車を対象としたような幅のある道。
分岐点には迷子にならないように案内標が導いてくれる。

緑のトンネルを抜けると鞍掛峠。
峠の先は岡部側の宇津ノ谷トンネル手前へ出る。
 

花沢の里へ戻る

古い町並みが残る人気のある街道だ。
 
〇花沢城はどこだったのかな?


花沢の里を沢に沿って下り東名高速道路が見えてくる。
西を見て見るとこんもりとした山が見えるが、これがかつて花沢城があった山だろうか。

東名のガード下をくぐり国道150号線を西へと向う。

1kmほど進むと北側に石脇城址だった小さな山がある。
山への入口に鳥居が建てられている。登り口の脇に説明看板が立っていたので読む。(概略)
室町中期の駿河守護職で後の戦国大名今川氏の属城。

山裾に外堀、山頂に第一曲輪、中腹の第二曲輪、堀切で隔てた南端の外曲輪と、附属曲輪5~6ヶ所からなる。

文明年間(1469~1486)に今川義忠が伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)を石脇に住まわせたとある。


〇城山八幡宮(石脇城址)


この城山は二瘤になっていて一つは城山八幡宮でもう一つは大日堂が建っている。

説明書きがあるので読む。(概略)

<焼津市指定文化財 吉祥天立像(木喰五行上人作)>
<焼津市指定文化財 不動明王像(木喰五行上人作)>
<木喰五行上人と焼津>
 木喰五行上人は1773年56歳の時に日本廻国と千体仏の願をおこし全国を廻り諸国に自刻の仏像を奉納した。

 

石脇城のある城山を西側からながめる。


〇石脇城址



城山の北側に回ると東名の脇に神社がある。


〇浅間神社



鳥居の脇に大きな岩が2つ並んでいて、岩の横に神社の由緒が書かれた看板が立っていた。(概略)
祭神  木之花咲耶姫命・品陀和気命、天照大御神
浅間神社登り口の右側に大きな岩が二つある。旗掛石又は鞍掛石という。
二つの岩は、我国の古い信仰である神の依りつかれる磐座(いわくら)であった。
1492年徳川家康の三河時代からの家臣であった原川新三郎氏が浅間社を勧請した。

<旗掛石>家康が鷹狩の際に、家康の旗を建て掛け、馬の鞍を置いたのでこの名があるという。



東名の側道の道路脇に寶積寺の案内看板が立っていた。

〇寶積寺

宝積寺の文化財
<焼津市指定有形文化財 地蔵菩薩像>
像高77cm(2尺2寸5分)、内台座14cm(4寸6分)、木喰五行上人作
この地蔵は左手に宝珠を持ち、右手は袂をつかんでいる。

木喰仏としては珍しく、材質が桜の木。

製作は、1800年と推定される。

石造りの観音様が境内に並んでいる。
西國33番観世音菩薩の御尊体は1800年に勧請建立された。

斯様な33の御尊体を羅列配置してある霊場は稀。

 

日本坂を越えて焼津まで来たので

海岸ルートの大崩を通って帰る。
 

海岸線を通る道は最古の東海道のルートの一つだったそうだが、どうやって通ったのだろうか。
断崖絶壁が続き、がけ崩れが日常的に発生する悪場が続く。
 

あまり知られていないがアワビやサザエの好漁場。

ほとんど築地へ行ってしまうそうだ。


〇大崩海岸


絶壁の向こうに駿河湾。

静岡市街の先に富士山がそびえ絶好のビュースポットとなっている。


JR東海道線は開設当時は今よりも海岸の近くに通っていて、廃トンネルが往時の風景を感じさせてくれる。

〇大崩の廃トンネル


このトンネルのすぐ脇に波打ち際がある。
海が荒れる度に通行止めとなっていたらしい。

 

 

今回は「最古の東海道」の続きをたどった。

 

 

次回「駿河の国で寄り道(13)」では「長谷通」周辺を巡る。