駿河の国で寄り道(10)最古の東海道をたどる(その1) | れいんぼうの部屋

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2022年4月から駿府周辺の旧東海道を撮りためた写真で振り返った。

 

前回まで「駿河七観音」を訪ねた。

 

 

今回は「最古の東海道」をたどる。


駿河の国府は時代によって変わり、位置も諸説ある中で現在の「長谷通り」周辺の説が多い。

 

東海道が整備される以前の東西の交通は、いろいろなルートを通っていた。

国府から西へ向かうルートの一つが「徳願寺」のすぐそばを通っている「手児の呼坂」だった。

 

徳願寺からは現在の静岡市が一望できる。

 

〇徳願寺からの眺望

 

徳願寺本堂脇の説明板にもあったが静岡の市街地や富士山を遠望でき古の遺構が多く見つかっている。

徳願寺山頂には山城の遺構があるなど鎌倉末期の南北朝時代以前から重要な場所だった。
 

安倍川の流路も現在とは違い、もう少し東側を藁科川と合流せずに流れていた。

現在一本になっている写真の手前に見える河原は藁科川の流域。

堤防も今のように整備されていないので、川を越えるルートは状況に応じて変化していた。

 

安倍川と藁科川合流点の中州にある「舟山」が川越えルートのランドマークになっていたようだ。

 

〇舟山

現在の「安西通り」あたりから「舟山」に向かい、「徳願寺」のある「向敷地」へと渡る。

 

最古の東海道は徳願寺の近くを通っていたらしい。

 

徳願寺は「向敷地」にある山の標高およそ100m中腹にある。

 

〇「大窪山 徳願寺」本堂


 

「徳願寺」から1km弱南の農道脇に「手児の呼坂」の登り口がある。

 

〇「手児の呼坂」入口

徒歩でしか坂を体験できない。

 

〇手児の呼坂

峠の標高は約70m。

説明書きを読む。(概略)

我が国最古の東海道の大旅路だった東路は日本坂、手児の呼坂、舟山を経て駿河の国府に通じていた。
平安朝の頃に宇津ノ谷の山路が開けた後も江戸初期に東海道五三次の街道が整備されるまで重要な官道だった。
「東路の 手児の呼坂 越えがねて 山にかねむも 宿りはなしに」をはじめ万葉歌集が残され、紫式部、宗長など多くの歌が詠まれた東路の歴史と文学を秘めた峠路だった。

 

坂を下って丸子機械金属工業団地へ出る。

下りきる手前に緑のトンネルが歴史の道から現実へとつなぐ出口のようだ。

 

〇手児の呼坂の出口

 

500mほど南下すると国道1号線に出る。

 

〇国道1号線

「最古の東海道」の正確な位置は不明だが、現在の「東海道(国道1)」「旧東海道(県道208)」と交差して南下する。

 

丸子川の井尻橋を渡る。

 

〇井尻橋

 

〇井尻峠入口


井尻橋から500mで坂が急になる。
「最古の東海道、井尻峠」と書かれた案内板が立っている。
宇津ノ谷を通る「蔦の細道」や「旧東海道」が整備される以前には、ここから小坂へ向かい日本坂を通って焼津へと通じるこの道が主要道路だった。

 

この案内板を右に山道を登ると「小野薬師寺」がある。

距離は短いが、かなりの急坂。

 

〇「真言宗 富向山 小野寺」ふこうざん おのじ

小野薬師寺はちょうど桜が満開だった。

説明看板を読む。(概略)

昔は正月に男女が参詣し、「ひよどり踊り」を歌い踊って、妻を求めた。
本尊の薬師如来像は小野妹子の子孫で小野小町の父として有名な小野篁の念持仏と言われている。

 

〇小野薬師からの富士山

 

〇井尻峠は所々開けている所があるが、ほとんど林の中を通る。

 

〇石垣が組まれている所もある。

 

〇井尻峠の大和田側の入口

 

〇馬頭観音堂

観音堂が大和田集落の中心となる交差点に建っている。

 

〇道しるべ

観音堂の脇に井尻峠を案内する道しるべが掛けられている。
 「東路(あずまじ)井尻峠←万葉の道大和田」と書かれていた。

 

 

今回は「最古の東海道」を「徳願寺」前からたどった。

 

 

次回「駿河の国で寄り道(11)」では「最古の東海道」の続きをたどる。