駿河の国で寄り道(1)駿府城公園 | れいんぼうの部屋

れいんぼうの部屋

釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
https://ameblo.jp/rai-trout/theme-10112228739.html

 

「東海道まちあるきweb」の古地図に出会って

(https://tokaido-guide.jp/about)

令和4年4月から約1年かけて「府中宿」を中心にwebで東海道を巡ってきた。

 

江戸中期の東海道が描かれた古地図には無かった

ローカルな「街道」や「スポット」でも

行ってみたい魅力ある場所が点在している。

 

 

「駿河の国をwebで歩く」に代わる新しいネタも思いつかないので、

点在する魅力スポットの記憶と写真を整理して
 

東海道にこだわらずに「駿河の国で寄り道」して巡ってみる。
 

 

先ずは折からの家康ブームに乗って「駿府城公園」へ寄り道。

 

静岡駅から北へ500mほど

「駿府城」の外堀と中堀の間に「静岡市歴史博物館」が開館した。

 

〇静岡市歴史博物館

建設に伴って見つかった発掘現場そのままに屋内展示している。
 

〇「戦国時代末期の道と石垣」の遺構

エントランスホールは狭くなったがこの中途半端さが特徴。

 

取りあえずのOPEN。

今後の有効利用は今後の運営に期待。

 

 

博物館から県庁との間にある「大手御門跡」の石垣を通り一旦外堀へ出る。

 

〇大手御門跡

説明看板を読む。

<駿府城大手御門>  駿府城内へ入る正面で入口です。
 三ノ丸堀を土橋で渡って、右手に直角に曲がり渡櫓門から城内へ入る構造になっていました。
 歩道には渡櫓門の柱礎石の位置が記されています。

 

〇外堀と静岡市役所

 

外堀に沿って進む。

 

〇四ツ脚御門

再開発ビルの一角に「四足門」の石垣が保存されている。

駿府城南辺の西寄りの箇所に設けられた出入口で、東側の大手御門と並び、東海道筋から城へ入る重要な出入口の一つです。三ノ丸堀を渡って、左手へ直角に曲がり、渡櫓門から城内へ入る構造になっていました。

 

〇中堀前にある古地図

駿府古絵図附記の「御用旧記」より抄録
 静岡市は昔、安倍の市と称した集落旧跡であり、永禄年間(1558年)頃より町としての形をなしたことを明らかであるが、永禄天正年間の兵火で多数の民家が焼失し、住民の多くは離散したが、その後兵火もおさまった慶長の初めころから徐々に民家が建つようになった。
 慶長12年(1607年)駿府に移って来た徳川家康は城下町駿府の整備のため彦坂九兵衛光政、畔柳寿学を奉行に任し、町割りをさせた。そしてこの町割には町年寄り友野宗全によるところも大きいと記されている。

 

中堀に沿って進む。

 

〇二ノ丸御門跡

二ノ丸へ入る正面で入口で、大手門ともよばれました。

二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた枡形内を経て渡櫓門から二ノ丸内へ入る構造になっていました。

門は昭和32年に埋められ、約70m東側に新たに出入口が設けられました。

 

更に中堀に沿って進む。

 

〇巽櫓・東御門

説明書きを読む。

巽櫓は、駿府城二ノ丸の南東に位置する木造矩折3層2重の建物です。
 この巽櫓は、寛永12年(1635)に城下から出た火により焼失し、寛永15年(1638)に新たに建設されたといわれています。
 巽とは12支で表した方角で辰と巳の間、すなわち南東の方角をいいます。また櫓とは
1、 武器を納めておくため
2、 四方を展望するために設けた高楼
の役割をしたものです。
巽櫓の復元は、「駿府御城覚書」や「駿府御城総指図」等の資料をもとにしており、三年の歳月をかけ、平成元年三月に完成しました。

 

巽櫓・東御門は一体で整備されている。

 

〇東御門

 

東御門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口でした。
 この門は、二ノ丸堀(中堀)に架かる。東御門橋と高麗門、櫓門、南・西の多聞櫓で構成される枡形門です。東御門の前が安東帯刀の屋敷だったことから「帯刀前御門」また、台所奉行の松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。
 東御門は、寛永12年(1635)に天守閣、御殿、巽櫓などと共に焼失し、同15年(1638)に再建されました。
 復元工事は、この寛永年間の再建時の姿を目指し、復元したものです。

 

〇江戸時代の堀

 

東御門から「駿府城公園」内へ入る。

 

〇内堀の一部

内堀の一部が発掘されている。

 

〇二ノ丸水路

中堀から内堀への連絡水路。説明看板を読む。
この水路は、本丸と二ノ丸堀をつなぐ水路で本丸堀からの水を外に出す目的で築かれています。
幅は約4.5m、江戸時代の深さは約4m、長さは約95mあり、4回折れ曲がっています。
本丸堀との接続部分は約2mの段差を設けて本丸堀の水位を保つようになっています。また、水路両側は石垣で底の部分にも本丸側約50mにわたり石が敷かれており、底が洗い流されない非常にめずらしい構造になっています。石垣の下方は家康公築城当時の石垣と考えられ、家康公の威風を示す貴重な遺構です。

 

 

2020年の天守台発掘調査時の様子。

 

〇天守台の発掘調査地

富士山が正面に見える。

 

〇天守台と内堀の発掘現場

 

〇発掘現場

いろいろな時代の石垣が発掘で見つかった。

 

 

今後、どの石垣を生かすのか。

どこまで埋め戻されるのだろう。

どのような形で整備されるのだろう。

 

企画する関係者たちの腕の見せ所。

 

 

「駿河の国で寄り道(1)」はこんな感じでやってみた。

 

次は「お浅間さん」でも行ってみよう。