駿河の国をwebで歩く(80) 旧富士川町「岩淵」 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
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「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

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上の古地図のリンクを開いて、「蒲原宿編」を選択して散歩する。
 

 

前回は「蒲原宿」の「東木戸」以東を巡って古地図の東端まで到着してしまった。

 

今回は古地図の外になるが「蒲原宿」を出て富士川まで進む。
 
「蒲原宿編」の古地図には「富士川」が片隅に描かれているが「岩淵」は描かれていない。


前回、旧東海道は東名高速道路の上を橋で渡った所で終わった。
 
〇旧東海道
橋を渡って右に東名沿いに進むと静岡市の蒲原から富士市へと入る。

〇中之郷
「中之郷」の家並みが始まる所を右に入り東名高速道路をくぐると「蒲原病院」へと通じている。
古地図の「蒲原宿」の東端に描かれている「水泉寺」は「蒲原病院」の近くにあったらしい。
富士市岩淵にある「新豊院」の末寺「曹洞宗 一谷山 水泉寺」は現在、廃寺になっているのか見つからない。
 
旧東海道は「JR変電所」新幹線のガード下をくぐって「中之郷」を道なりに進む。

〇宇多利神社入口
石碑と灯籠が神社へと誘っている。
 
〇秋葉燈籠
宇多利神社の入口の脇に秋葉燈籠が立っている。

〇中之郷
左へ行くと「野田山実相院」へと向かうが旧東海道は右側へと進む。
 
橋を渡り東名高速道路に沿って100m進むと道は突当る。
 
東名の下をくぐる前の突き当たりに階段があり、「金鶴神社」の立て札が立っている。
 
〇金鶴神社
 
〇野田山の碑
「金鶴神社」の入口の向かいのスペースに野田山の石碑が建てられている。
 
碑には野田山、不動明王、弘法大師、聖徳太子と書かれている。
隣に薬師如来の小さな石碑も立っている。
 
東名の下をくぐると「野田山健康緑地公園案内図」という看板が立っている。
 
〇野田山健康緑地公園案内図

説明書きを読む。(概略)
野田山の地名は、むかし湿地帯の所「ノダ」とよんでいたところから起こった。
古来より霊地としても知られ、大正11年松橋慈照師が歓法修禅中、草庵を結び四恩報謝のため真言密教の法を実修。
大正15年信者からの寄進いより「実相院」を建て、真言宗寺院としての規模をととのえた。
昭和28年火災により焼失。大師広場に大師堂が建てられた。


〇秋葉燈籠

秋葉燈籠が所々に立っていて、街道であることがわかる。
 
道が大きく左に曲がる所に一里塚がある。 
 
〇一里塚 
説明看板を読む。(概略)
この一里塚は、起点である江戸日本橋から37里目にあたる。
この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立並んでいた。
東側の塚の榎は虫害のため昭和42年枯死してしまった。そこで昭和45年3月、二代目を植えた。


〇一里塚

ここの一里塚は両側に塚がある。
 
「一里塚」辺りから旧東海道は「中之郷」から「岩淵」に入る。
 
「一里塚」の所で出会う路地を入ると市立富士川民俗資料館がある。

〇民俗資料館

茅葺の建物が保存されている。

〇稲葉家住宅

富士市指定有形文化財
稲葉家住宅(富士市立富士川民俗資料館)
・構造 木造平屋建、入母屋造 茅葺
・建築面積 102.82平方メートル
・旧所在地 南松野(桑木野地区くわきのちく)

 
一里塚から300mほど進んだ左側に寺の入り口がある。
 
〇新豊院

曹洞宗「光福山 新豊院」は「中之郷」の「水泉寺」の本山になる。
 
 
新豊院の参道入口の脇に秋葉灯籠が建っている。

[秋葉燈籠]

 

新豊院から200mで変形十字路に出会う。
変則十字路から八坂神社方面を見る。
 
〇八坂神社

常夜灯や鳥居が見える。
 
県道188を進むと200mで左へ曲がり、その後100mで右へ曲ると進行方向への一方通行になって下っていく。

一方通行の細い道を100m下ると富士川橋のたもとへ出る。
 
〇富士川橋

地元の人に聞いてみたら、さきほどの変則十字路を直進する道が旧東海道とのことなので戻ることにする。
 
旧東海道を進む。
交差点からすぐ先に木の塀の建物がある。

 
〇小林本陣常盤邸

本陣だったようだ。

この道が旧東海道だったということだろう。
門の隙間から中をのぞいてみる。看板が立っていた。
 
〇小林本陣常盤邸



〇歴史国道東海道

本陣の門の横に東海道の看板があり読む。(概略)
県下では東海道岩渕間宿・蒲原宿・由比宿が平成7年6月9日、歴史上重要な幹線道路として歴史国道に選定された。
<一里塚>
富士川町役場下の県道にある一里塚は江戸より37里めにあたり、今も往時の面影をしのばせています。
<間宿・小休本陣・脇本陣>
岩渕村は吉原・蒲原両宿の中間で富士川渡船を行い「間宿」として繁栄した。
幕府は本宿にしか旅人の宿泊を許可しなかったので、岩渕村には渡船の準備のため一時休憩する施設として小休本陣、脇本陣の2軒があった。
<富士川渡船>
富士川渡船は慶長7年(1602)から岩渕村請で行った。
渡船場は木島村小山の尼ケ淵下から中之郷村境まで、その日の流路によって決めた。
渡船場からの「上り場」は岩渕坂下附近にあり「高札場」「船頭会所」もあった。
富士川渡船は大正13年、国道橋が開通するまで断続的に継続した。


 
道は常盤邸の先で袋小路に見えたが、クランクして続いていた。
クランクした道から100mの左側に清源院という寺がある。
 
〇清源院

 
 
清源院から100mの横断歩道の所から道は右折しながら下って行く。
 
一方通行となるので、車では他の道を通ることになる。
先ほど通った県道188号も一方通行だった。
知らない人はこの迷宮に入らない方がいい。
 
右折せずに直進すると「岩正山 光栄寺」がある。
 
〇光栄寺

庭からは富士川橋が一望できる。
かつては渡船場風景も一望できたのかも知れない。

 
迷宮に入った町内は「船山町」の地区。
 
舟山町を進むとすぐの左側に石垣がある。
歴史のあるものなのかどうかは不明だが、どのような使い道だったのだろうか想像したくなる。
石垣とは似合わない住宅も建っている。
道は狭く通過交通も少ない。
のんびりと道路に住民が集まっていた。
住宅は軒を並べて連なっている。
 
このあたりは富士川の土手から10m以上の高さもあって、洪水の被害を避けられる。
町名からも海運の関係者が住んでいたのかも知れない。
道を下ると富士川へ出ることができる。
 
 

散策しているうちに旧東海道に戻って道標もあった。
 
旧東海道はここで富士川の終点。

富士川沿いに県道10号が通っている。

〇渡船場


県道を渡り富士川の土手に渡船場跡の記念碑と説明が書かれていた。(概略)
<船型の植樹桝>
この「船型」の植樹桝群は、平成元年度県道富士川・身延線の修景工事。
江戸時代、ここに富士川渡船や甲州との水運の基地としての岩渕河岸があった。
渡船には、定渡船(長さ10.3メートル、幅1.57メートル)6艘
高瀬船(長さ13.2メートル、幅1.8メートル)18艘
甲州三河岸との通船には高瀬船300艘
この「船型」は、定渡船を再現し、高瀬船をもイメージしている。

 
〇渡船場
もう一つの説明書きを読む。(概略)
<渡船「上り場」常夜燈>
1602年東海道往還の富士川渡船が開始され、同19年には甲州三河岸(鰍沢・黒沢・青柳)との通船が行われた。
<角倉了以翁の紀功碑>
京都の豪商、角倉了以・素庵の父子は、江戸時代初期、幕府から富士川(岩淵~鰍沢間約70km)の開さくを命じられた。
富士川水運は明治44年中央線が開通するまでの約300年間、甲信地方と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たした。


今回は「富士市」になった「旧富士川町」周辺を巡った。

 

 
「東海道まちあるきweb」を見て古地図が面白くて2022年4月から始めた「駿河の国をwebで歩く」。
 
近年の諸事情で簡単には出かけられない中、楽しい時間を過ごすことが出来た。
 
「府中宿」を中心に西は大井川から、ここ富士川までの東海道を1年近くかかり、全80ページの大作になった。

 

 

ここで「駿河の国をwebで歩く」をひとまず完結とする。


 

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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