駿河の国をwebで歩く(69)「由比宿・薩った峠から西倉沢」 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
https://ameblo.jp/rai-trout/theme-10112228739.html

「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

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上の古地図のリンクを開いて、「由比宿編」を選択して散歩する。
 

 

前回は「薩った峠」までやって来た。

 

今回は「薩った峠」から「西倉沢」へ向かう。
 

 

「薩った」の「た」は「土」辺に「垂」という字だが使える字でないのでひらがな表記とします。
(PCによっては「埵」が使えるフォントを持っているけれど今回は使わない)

 

旧東海道は車の通れない。

「薩った峠遊歩道」を歩いて峠までやって来た。

 

〇登山道のような遊歩道を登り終わった所に道標がある。


 

「薩った峠遊歩道」の急坂を上った先は富士と山と海が広がる。
 

〇ビューポイント

 

道標近くの看板を読む。

<薩った峠の歴史>
鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられた薩った地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後「薩った山」と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。
ここに道が開かれたのは1655年朝鮮使節の来朝を迎えるためだった。

それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合いを見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。
この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡がみられ、そこまでが江戸時代の道路である。
今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1854年)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。
<薩った山の合戦>
薩った山は京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で、たびたび古戦場となっている。
1351年(観応の騒乱)に足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破した「太平記」に見える陣場山、桜野などの地名はこれより北方の峰続きに存在する。
降って戦国時代の1568年12月、武田信玄の駿河進攻の時、今川氏真はこの山に迎え討って敗退した。その翌年の春には、今川救援のため出兵した小田原の北条氏と武田軍が3ヶ月余も対陣したが決定的な戦果はなくて武田方が軍を引いた。

 

 

「薩った峠」を越える道は主に3ルートあって、前回このブログで巡った。

一つは今通ってきた旧東海道ルート。

一つは海岸を利用するルート。

そして東名高速道路の北側を通るルート。



今回は一つ目の「旧東海道」の遊歩道の続きを進む。

 

 

〇薩った峠遊歩道


遊歩道は平坦になって等高線をたどる。
フェンスが設置され整備が行き届いている。
 
「牛房坂」という石碑がある。

〇牛房坂の石碑



富士山の景勝地。

 

〇展望台が設置されていた。

有数のビューポイント。

 

 

「薩った峠展望台」から700mほど駿河湾や伊豆を眺めながら進み最後に坂を登ると「薩った峠」の駐車場に出る。
 

駐車場わきに遊歩道を説明する大きな看板がある。(一部抜粋)
左手・駿河湾を望む歩道を西に進むと、眼下に由比の町、彼方に富士を望む展望台がある。

右手にある舗装道の三叉路を東に下ると、びわ畑が続く山道を下った先には、重厚な構えを残す東海道名主の館「小池邸」がある倉沢・寺尾地区。


駐車場にはいろいろな説明看板や碑が建っている。
トイレもあってのんびりハイキングができる。
 

 

碑の一つは「薩った峠山之神遺跡」とある。どのような遺跡なのだろうか。
 

もう一つは「幸田文・文学碑」とある。
幸田文は吉永小百合の「おとうと」という映画の原作者。
 

〇ここからの富士は有名な富士。

素人でも絵になる写真が撮れる。
 

遊歩道だった旧東海道は駐車場から50mほどで車道へ出る。

「薩った峠」を越える三ルートの一つである東名高速道路の北側の車も通れる由比の「西倉沢村」へと続く道だ。



由比宿は由比町として静岡や清水と融合せずに独自の道を歩んで来たから昔の佇まいが随所に残っている。
第一次産業中心の町なのだ。

農道のような旧道を下ると由比に出る。

絵になるような富士は一時見納めになる。
この辺りは様々な果樹が生産されているので無人販売で時期の果物が楽しめる。

 

〇由比西倉沢

 

〇由比西倉沢

 

ここから農道のような旧道から普通の旧道に交わる。
街道沿いに民家が立ち並ぶ。

 

一里塚の跡を表す碑が立っている。

 

〇西倉沢一里塚

<一里塚(由比町西倉沢)>
江戸から数えて40番目の一里塚である。
江戸から凡そ160キロの距離になる。
ちなみに由比駅~東京駅間は158.4キロである。
この一里塚は薩た峠東登り口に位置し、塚には榎が植えられていた。
薩た峠の説明文を読む。(一部抜粋)
戦国時代、足利尊氏が弟直義合戦せし古戦場として知られている。
峠は磐城山ともいい江戸時代、安藤広重の東海道五十三次のうちここ薩た峠より見た富士山、駿河湾の景観を画いたものは有名。

 

 

〇間の宿脇本陣の柏屋。

かつては間の宿として栄えたらしい。

 

〇倉沢は旧東海道を味わえる家並みが続く。赤い郵便ポストが似合う家並み。

 

〇古い、味のある建物が多い。
 
小さな沢を越える橋がいくつか架かっている。

 

〇宝積寺


古地図にも描かれている、曹洞宗「倉沢山 宝積寺」

「そうたくざん ほうしゃくじ」と読む
1725年の創建とのこと。

古地図に描かれていることから古地図の年代もそれ以降ということ。



〇鞍佐里神社


街道脇に鳥居がある。神社は階段を登る。
説明看板を読む。
<鞍佐里神社くらさりじんじゃ>
「日本武尊が東征の途次賊の焼き打ちの野火に逢い、自ら鞍下に居して神明に念ず、其鞍、敵の火矢によって焼け破れ尽くした。依って鞍去の名あり」と伝えられ、鞍去が後に倉沢と転化したともいわれている。
鞍佐里神社は尊が野火にあった薩った峠の雲風か山中あたりに建てられていたが、後に現在地に移されたものと思われる。
神社拝殿の蟇股には尊が野火を払うところが見事に彫刻されている。

 
〇鞍佐里神社


 

〇権現橋 

小さな沢をいくつか跨ぐ。

 

「権現橋」を渡ると間もなく「西倉沢」から「東倉沢」へ入る。

境がどこかは分からなかった。

 

街道には神社が目につく。

 

神社の門柱が2つ並んでいる。

 

〇八阪神社


右側の石の門柱は「八阪神社」

急階段の先に社殿らしき建物が見える。
 
〇中峯神社


左側の石の門柱は「中峯神社」の参道入口。

つづれ織りとなった急階段を100段ほど登ると参道は鬱蒼とした林の中へ消えている。

神社は水平距離で500m、標高300m上がる参道を登るとあるらしいが行っていない。

車でも3kmほど回り込む道があるようだ。

 

先ほどの権現橋の所に「中峯神社」の説明看板があったので読む。
1800年ころ藤八という村人が他界し、後に天狗になって倉沢の火防守護をするといわれて藤八権現として祭られた。

この辺りを襲った山津波により記録が流出し、由緒は不詳。

昔は富士浅間大菩薩といい、明治維新後、社殿が東・西・倉沢の中峰にあるので、中峰神社と改められた。
祭神 木花之開耶姫命



旧東海道を100mほど進むと「くらさわや」という日本料理店があって街並みがしばらく途切れる。

 


今回は「薩った峠」と「倉沢」を巡った。

 

次回は「由比宿」の「寺尾」地区に入る。

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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