「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。
***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。
https://stroly.com/users/9756472369/
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前回は「興津宿編の身延道」周辺を巡った。
今回は「由比宿手前の薩った峠」へ向かう。
(PCが使えるフォントによっては「埵」を持っているけれど今回は使わない)
旧東海道を探しながらバイパスではなく旧道の国道1号線を進む。
〇52号線の交差点から200mほど進んだこの写真の撮影地点の手前で左折する。
さらに200mほど進むとJR東海道線の側道となり、突き当りが興津川。
古地図を見ると「奥津川」と書かれている。
興津川には橋がなく、「歩行渡り」と書かれている。
〇旧の国道1号線「浦安橋」からJR東海道線を撮る。
「歩行渡り」の場所はJRの橋の辺りと思われる。
古地図を見ると「奥津川」を越えて「洞村」。
「浦安橋」から川沿いに「おきつ川通り」を北上。
旧東海道はJRのガードをくぐり、300m程進むと「土地改良の碑」がある。
〇興津東町土地改良之碑
薩った峠まで2.3kmの道標も並んで立っていて、右に入る。
「端泉寺」を右手に見て進む。
〇秋葉山の常夜灯を右に見て進む。
ここが「薩った峠」入口になる。
入口から先は150mの水平距離を進むのに50mも標高を登るといった登山道のような道だった。
実際に馬や籠などを利用しての通行は不可能に見えた。
墓地の手前の駐車場に面し、四阿が建っていて、遊歩道の説明看板が立っている。
〇四阿と説明看板
看板を読む。
薩った峠は万葉の時代から岩城山と呼ばれ、1185年に近くの海中から地蔵菩薩の石像が引き揚げられ、この山に祭った。
薩った峠越えは、東の箱根越え、西の鈴鹿越えと並ぶ道中の難所だった。
薩った峠を越える道は江戸時代には三つあったが、1655年、朝鮮通信使のために山肌を切り開いて街道としたのが「中の道」(現在地)。
旧東海道は「薩った峠遊歩道」として整備されている。
「薩った峠遊歩道」の急坂を上った先は富士と山と海、素晴らしい富士のビューポイントだ。
外国人のカメラマンが好場所に陣取っていた。
〇ビューポイント
〇道標
道標近くの看板を読む。
<薩った峠の歴史>
鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられた薩った地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後「薩った山」と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。
ここに道が開かれたのは1655年朝鮮使節の来朝を迎えるためだった。
それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合いを見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。
この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡がみられ、そこまでが江戸時代の道路である。
今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1854年)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。
<薩った山の合戦>
薩った山は京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で、たびたび古戦場となっている。
1351年(観応の騒乱)に足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破した「太平記」に見える陣場山、桜野などの地名はこれより北方の峰続きに存在する。
降って戦国時代の1568年12月、武田信玄の駿河進攻の時、今川氏真はこの山に迎え討って敗退した。その翌年の春には、今川救援のため出兵した小田原の北条氏と武田軍が3ヶ月余も対陣したが決定的な戦果はなくて武田方が軍を引いた。
この「薩った峠の歴史」に書かれているとおり、江戸時代の東海道が整備される前は「親しらず子しらず」と言われたとおり引き潮時に通り抜ける難所だったようだ。
「薩った峠」を越える道は主に3ルートある。
一つは今通ってきた旧東海道ルート。
一つは海岸を利用するルート。
そして東名高速道路の北側を通るルート。
二つ目のルートをたどってみる。
海岸を利用するルートは現在、バイパスが整備されて江戸時代の面影は入口の辺りにしか残っていない。
そこで、その海岸ルートの入口付近を探索して旧東海道へ合流する道があるのでその周辺を探索する。
先ずは「浦安橋」へ戻って再出発。
橋を渡って直進するとすぐに街道はバイパスに合流する。
合流地点に山側に入る小道があり、ここが「薩った峠ハイキングコース(旧東海道)」への道となる。
小道を入るとJR東海道線にぶつかる。
〇踏切もなく歩道もない。
「危険ですから近くの踏切を通行して下さい」「よい子はせんろに入らない!」との看板がある。
渡って良いのか躊躇するが踏み跡があるし、「よい子」でもないのでバラストを踏みしめ線路を跨いで渡る。
先へ行けるのか不安になりながら、怒られる覚悟で前へ進むと道路として利用されていて薩った峠への近道らしい。
道は急坂となり、民家から離れしばらく進むと地蔵さんが並んでいる。
〇海岸寺百体観世音入口
説明書きを読んでみる。
百体観世音は、観音山海岸寺に祭られ、開山は田重甫大和尚、元禄9年6月14日で境内156坪、建立は不詳、延宝年中宗徳院7世田外の法孫秀鉄より尼僧となる。かつては海岸庵として阿弥陀如来を祭ったが天明期火災によって焼失。
駿河国百地蔵86番、東海88ケ所49番の札所で昭和17年仏堂海岸庵を今合寺名とした。
大正4年5年の台風には打ち寄せる大波にこの部落は全滅。それにもかかわらず1人の犠牲者も出なかった事は、波除け如来、百体観世音の御利益ではないかと今でも云い伝えられている。
金色に輝く百体観世音は本堂の波除け如来を中心に左右50体づつ祭られ、境内からは駿河湾、遠くには伊豆半島を望む風光明美の場所にあり、近くには親不知子不知で知られる薩った峠がある。
古地図にも「観音堂」と「白髭社」が描かれている。
海岸寺のすぐ東側を登った所に白髭神社がある。
薩った峠への近道は観音山海岸寺を通り過ぎ150m坂道を登ると平坦路になり、旧東海道と出会う。
そして三つ目のルートをたどってみる。
東名高速道路の北側を通るルート。
このルートをたどれば旧東海道と、薩った峠駐車場で出会う。
「おきつ川通り」を進み東名高速の下をくぐり50m先を右折。
300m進んだ左側に石碑と祠が建っていて「日本武尊遺跡」と彫られている。
〇日本武尊遺跡
石碑の裏に謂れが彫られている。
日本武尊が東征の折 傳承によればここで馬の足を濕し沓を取替えたと云い沓掛明神社並びに井戸の跡である。
これより東に駒を進め峠の手前で踏みつけた岩に蹄が残った。困って「駒の爪」の名があり地名として今に傳えている。
峠を越えたところ鞍がずれ落ちたことから鞍佐理(鞍去り)明神社の跡である。
「日本武尊遺跡」から200mほどで「東勝院」がある。
〇薩った山 東勝院。
古地図に「東勝院」を探したが見つからなかった。
旧東海道とは離れているが、東勝院から500mほど北にある「霊泉寺」と1kmほど北にある「承元寺」は古地図に描かれていた。
「東勝院」を過ぎると坂がきつくなり500mほど鬱蒼とした山の隙間を登ったカーブの所にひっそりと碑があった。
〇駒の爪
駒の爪址。とある。
謂れの説明でもあるかな?と探したがどこにも見つからない。
前述の「日本武尊遺跡」の説明書きのとおり、
ヤマトタケルが東征の際、険しい山道に馬の蹄が残ったと伝えられている。
「駒の爪址」の石碑から100mほど進むと旧東海道の「薩った峠駐車場」と出会う。
今回は興津川に架かる「浦安橋」から「薩った峠」を探索した。
次回は、「薩った峠」から「由比宿・西倉沢」に入る。
*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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