駿河の国をwebで歩く(61)「江尻宿・三保街道」 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
https://ameblo.jp/rai-trout/theme-10112228739.html

「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

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上の古地図のリンクを開いて「江尻宿編」を選択して散歩する。
 

今回は「江尻宿」の古地図にも描かれている「三保街道」へ寄り道。
 
 

前回は「江尻宿」の「魚町」周辺を巡った。

 

「三保街道」は、古地図の南に「三穂神社」が描かれているのでチョット寄り道。

 

 

駒越南町と駒越東町の間を走る国道150号線の旧道を東進すると150号線と合流する。
この変則交差点を直進する狭い道が旧三保街道。
まずはここを左折して今の三保街道に向かう。

 

駒越東町交差点で左に折れた先に清水港。

右折すると県道三保駒越線(三保街道)に入る。

折戸地区に入ると街道の正面に富士が見える。
 

〇清水銀行が洒落ている。


駒越東町交差点から約3kmで「御穂(三保)神社」入口がある。
右へ入ると御穂神社と羽衣の松方面。
左へ入ると「塚間の渡し」がある。
 

先ずは、左へ入り「塚間の渡し」へ向う。

600mほど入り、なお狭い路地へ入って200mほど進むと鳥居が現れる。
御穂神社の一の鳥居だ。

〇塚間の渡し

鳥居の脇にベンチ脇と鳥居前に説明看板があったので読む。(概略)
鎌倉時代から御穂神社へ詣でる人々や名勝三保の松原への遊客が興津と塚間を結ぶ渡し船を利用していた。
御穂神社への参道は「どう者道」当時の賑わいを石鳥居や常夜灯に見ることができる。
塚間の渡しの途中には、かつて徳川家康の「貝島御殿」があり富士見櫓が建てられていた。
鎌倉時代から船司をつとめた三保の領主太田家は御穂神社の宮司と清見ケ関の関守を兼ねていた。

1650年の古地図には、この場所に鳥居の姿を見ることができる。

風化が激しく1995年に脚部の一部を残して撤去したが2004年に御穂神社「一の鳥居」復元委員会により従来の鳥居の資材を全て再使用し、耐震構造が施され復元された。
 

 

古地図を見ると湾に面して鳥居や参道が描かれている。

江戸時代から、江尻と船での往来が常態化していたと見える。

 

対岸の「日の出埠頭」の岸壁とは1km程度しか離れていない。

徒歩では駒越経由で5km」の道のりになってしまう。

 

 

御穂神社へは帰りに寄る事にして、三保街道に戻る。

 

三保は文化地区で東海大学海洋学部ほか、いろいろな文化施設の案内看板が立っている。
 「東海大学社会教育センター」「海洋科学博物館」「自然史博物館」「三保黒潮スイミングクラブ」
 「清水エスパルス本社・クラブハウス、練習場・三保グラウンド」
 

海洋科学博物館の脇を抜け、堤防に上ると正面に富士が出迎えてくれる。
 

〇三保「真崎海岸」と富士

海と富士は良く似合う。

 

海沿いに「三保灯台通り」があって、小さな飛行場のある海岸線に沿って進むと三保灯台が見えてくる。

 


〇清水灯台(三保灯台)


灯台のてっぺんに羽衣を着た天女が舞っている。

灯台の下に説明看板があるので読む。(要約)

清水灯台は、明治45年3月1日に設置点灯された。
わが国における最初の鉄筋コンクリート造りの灯台。


〇灯台前に少年兵のブロンズ像が建っている。

説明書きを読む。(概略)
「甲飛予科練之像」とは太平洋戦争時、海軍航空隊に入隊した甲種飛行予科練習生のこと。

昭和19年清水海軍航空隊がここ三保の地に開隊され、千数百余名が航空兵を目指して訓練した。

戦争の悲惨さを伝え平和の尊さを願いながら、この碑を建立した。

 

 

「三保灯台通り」を進み三保街道方面へ向かうと右に神社がある。

 

〇伯良神社

伯良神社は漁夫伯良が住んでいた地を記念して祀られた。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。(概略)

羽衣伝説に登場する漁夫の伯良(白竜などとも書く)は三保村の人。
その伯良の屋敷の跡とされている。ここには祠があって伯良神社と呼ばれる。

わきにある古井戸を「伯良井戸」といっている。
 

 

「伯良神社」から北へ100m行った所に「佐久神社」がある。


〇佐久神社

佐久神社の入口脇に白縫姫の墓がある。
 

小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
<おしゃもじさん(佐久神社)と白縫姫の墓>
「おしゃもじさん」は、検地竿を納めて祭ってあるとか、また「イボ」とりの神様とかの言い伝えが残されている。

駿河国三穂社記には、簡単に左久神社、三保村杜の中に在り」として雙栗神社、即ち猿田彦大神とある。

市みどり条例による保存樹木の指定を受けている「タブ」の樹がある。

為朝伝説にまつわる白縫姫の墓とされる五輪の塔と祠が、近年境内東側に移設安置されている。
 

 

 

佐久神社から西へ50mほどの民家の脇に「為朝の墓」と書かれた看板があり、民家の庭に入ってみる。

入るには気がひけたが、誰かいないかと探しながら入ってみる。
 
〇源為朝の墓

家に人影が見えたので声をかけさせてもらった。
「散策パンフレット」に次のようの書かれている。

平安末期の武将、源為朝の墓と伝えられるものが川口さん宅の裏にある。
源為朝は、保元の乱(1156)に敗れ、伊豆大島に流される途中、船は大時化に遭い三保の海岸に漂着した。
為朝は川口家(源兵衛さん)の娘と夫婦になった。
今も裏庭に墓所がある。

源兵衛の由来は源ノ兵衛(みなもとのひょうえ)で、代々源兵衛を名乗り、家紋は三ツ巴であったが、地頭の太田家に交換されて桔梗の紋になった。

為朝が使用したと伝えられる椀と壺がある。
 

 

旧三保街道と思われる道を南に1kmほど進むと「御穂神社」がある。

「御穂神社」は参道が四方にあって、ここは北から入る鳥居がある。
 

〇左(東)へ入った所にも鳥居

由緒看板が立っていたので読む。(概略)

主祭神  大己貴命(大国主命、三穂津彦命) 三穂津姫命
創建の時は不明であるが、千古の昔より、三保の中心に鎮座し、三保大明神とも称せられた。

徳川幕府は慶長年間に壮大な社殿群を造営寄進したが、寛文8年落雷のため焼失し、今の社殿は、その後仮宮として建てられた。



〇生涯学習交流館を回りこむと御穂神社の正面の鳥居が見える。

御穂神社(みほじんじゃ)は三保の神社。
鳥居の脇の説明看板は先ほどの説明看板と同じ内容。


〇鳥居を入った正面に舞殿のような建物がある。

 

境内には他に3社が祀られている。

 

〇御穂神社本殿

境内三社
神明社、八幡神社、八雲神社


馬屋がある。

〇神馬

この神馬はレプリカだ。本物は普段、格納されている。

説明看板を読む。(概略)

元は木の馬であり、左甚五郎の作といわれ1773年の駿府大火で、浅間神社の2頭の神馬が、当社に逃げ1頭は残り1頭は戻ったと伝えられている。
お腹をくぐって、お供えのお豆をたべるとおねしょをしなくなると言われている。



神社を出て南に向って松の並木道が伸びている。
 

〇神の道

小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。

御穂神社の正面から真南に向って樹齢200年とも云われる老松の並木が約500m続く。

御穂神社に来臨する常世神(とこよかみ)がお通りになる道である。
現在も毎年2月14日の深夜、この道を通って神迎えの神事が行なわれている。

 


神の道が終わると観光地によく目にする光景に出会う。
先の天然の土手を越えた所に羽衣の松がある。

 

〇羽衣の松(今は代が変わって違う松になっている)

写真の羽衣の松はかなりの老木。

樹勢も衰えてしまっていた。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。

羽衣伝説は観世元清の「羽衣」によってより有名になった。
松の横にある「羽衣天女詞碑」は享和3年(1803)駿河町奉行牧野靭負が建立したものである。
御穂神社の「筒粥行事」の際、海の彼方から来臨する常世神の目印となる「憑り代」としての役目をしている。

 

 

羽衣の松の近くに小さな祠がある。

〇羽車神社

 

小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれていた。
羽衣の松の際にある石造りの社は、羽車磯田社とも言う。

御穂神社の離宮で、「筒粥神事」の際、海の彼方より来臨する常世神(とこよかみ)は、まずこの社に降臨し、松並木の神の道を通って御穂神社に入るとされている。
 

羽衣の松の前には砂浜が広がっていて、天気の良い日には絶景の富士を愛でることが出来る。
 

〇三保の松原


三保の松原が富士を引きたてている。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
三保の松原は、長さ4kmに及ぶ松林と砂浜が駿河湾に突き出ており、昔から万葉の人々にも歌に読まれてきた。
大正5年には新日本三景の名勝地に選ばれ、大正11年には国の名勝にも指定された。

 

 

神社まで戻って旧三保街道を南進する。
区画整理が進んでいるのでどこが旧街道なのかがわかりにくい。

 

1kmほど進むと旧道らしさが復活してしばらく進むと社叢が見られる。
 

〇瀬織戸神社

鳥居の脇に神社の由緒が書かれていたので読んでみます。(概略)
当神社は800年ころに建てられたもので、祭神は瀬織津姫(天照大神の第2王女「辨天様」)。
 

瀬織戸神社から50mほどの小児科医院の塀のところに瀬織戸の渡しの看板がある。
 

〇瀬織戸の渡し跡​​​​​​


看板を読む。(概略)
室町時代まで三保半島は島となっており、駒越と浅瀬の海で隔てられていてその浅瀬を渡し船で渡ったいう。
 

今では地形が変わっていて海はかなり離れた所にある。

 

 

三保周辺の古地図を見るといくつかの疑問点が見つかる。

もともと古地図の方向性と距離感は絵図にする際にイメージ化されていて現実離れした所が多いので当てにならない。

 

地域に伝わる伝説も、後の人たちの思い入れや思い込みで真実が変わる。

物語や絵で飾られた世の中を事実と勘違いしてしまう。

 

「古地図」を見ながら「旧東海道」を散歩して、妄想の中で「江戸時代の東海道」を旅する。

 

他人を惑わすことのないよう、なるべく見たままをブログに書く。

 

 

今回は江尻宿のうち「三保街道」に寄り道した。

 

 

次回は、「江尻宿」の続きと「辻村」へ進む。

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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