駿河の国をwebで歩く(62)「江尻宿・辻村」 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
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「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

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上の古地図のリンクを開いて「江尻宿編」を選択して散歩する。
 

今回は「江尻宿・本郷町と辻村」へ入る。
 
 

前回は「江尻宿」の中心地周辺を巡ったあと「三保」へ寄り道した。

 

 

〇旧東海道(江尻東)

 

旧東海道は清水駅へ向かう県道54号を兼ねた国道1号線を横切り直進する。

 

〇旧東海道(本郷町)


〇蔵を持つ旧家


旧東海道を歩いているんだという気分にさせてくれる。

このあたりは「江尻宿 本郷町」
 

〇江尻宿 東木戸跡


江尻宿の東木戸がこのあたりにあったらしく看板が立っているので読んでみる。(今はないかも?)
江尻宿の東の出入口として、辻村と本郷の境に木戸(見付)があった。
この付近は道路が桝形ではないが「く」の字形に曲がり、外から宿内を見通すことができないように工夫してある。

 

 

旧東海道を北上するとすぐに「辻2丁目」に入る。

 

 

古地図を見ると「辻村」と書かれた先に「一里塚」。

その脇に「番屋」と「高札場」が描かれている。

〇高札場跡


高札場があったという看板が立っているので読んでみます。(今は無いかも?)
高札は奉行所や代官所の命令・布告を書いた立て札で、街道筋など人の目につく場所に設置した。

〇一里塚跡


このあたりに一里塚があったとの看板が立っていた。(今は無いかも?)
<一里塚跡>
江戸時代、東海道には江戸日本橋を基点として一里塚が設置された。
塚は5間四方に盛土され、榎や松が植えられ旅人の里程の目安となっていた。
辻の一里塚は江戸より42番目にあたり、道の両側に向かいあって存在した。


「うおいそ」という料理屋の看板の脇に秋葉道入口という看板が立っていた。(今は無いかも?)

 

〇秋葉道入口の看板

東海道から秋葉山(寺)に通ずる参道があり「秋葉道」と呼ばれていた。

この入口には戦後まで「秋葉山5丁入」と刻まれた石の道標が建っていた。

この道は「矢倉の辻」で北街道(中世東海道)に接続し、辻村の主要な道路であった。
この辺りには名物「松風せんべい」などを売る茶屋も3、4軒あり、東側は細井の松原に接していた。

 

「辻」の旧東海道は通り沿いの建物のリニューアルが進んでいて、この10年で景色が変わるほどだ。

以前立っていた名所看板も見つからない。

 

 

ここで東海道を離れ、ちょっと秋葉山へ寄り道

 

 

古地図には「辻村」の先に「西久保村」が在るように描かれているが「秋葉道」に入った先に向かっても「西久保村」。


秋葉道に入り、400mほど西に向かうと信号の手前に「矢倉神社」がある。

 

古地図に「箭倉大明神」として描かれている。(「箭」は「矢」と同じ意味の漢字)

 

〇矢倉神社

説明書きが境内のいろいろな所に書かれている。(概略)

<猿田彦命と天宇受売命>
天と地を結ぶ分れ道の辻で道案内した猿田彦命
天宇受売命は演舞を勤める民族の始祖
両神は矢倉神社境内社の八雲神社に御祭神として祀られている。
<新開稲荷社由来>
かつて矢倉神社東方に榎島と呼ばれた小丘があり、いつの頃か稲荷社が祀られて稲荷山と称された。
<矢倉神社>
当神社の創建は仲哀天皇の御代、庵原国造意加部彦が日本武尊、景行天皇を始めて祀った。
日本武尊が東征の際、当地方一帯に軍営を布かれ、兵站部や武庫を置いた遺跡と伝えられている。

境内には大木が多く生い茂っている。

 

〇特にクスノキが異様な雰囲気を持ち、際だっている。

 

矢倉神社のすぐ先に変則交差点の信号がある。

 

〇「矢倉の辻」と呼ばれている。

五差路交差点の信号を葵区方面へ通り過ぎて振り返って撮った写真。

 

左から来る道は庵原方面へ向かう道。
右は「大手」「小柴」「江尻」へと向かう。
正面の右の道は「辻」方面へ向かう。
そして正面左の一方通行が「往古の東海道」

ややこしい!

「秋葉山」は真言宗醍醐派の秋葉寺(しゅうようじ)を周辺の3寺が輪番で運営している。
 

一番西に位置するのが「秋葉山本坊 峰本院」
 

〇峰本院

寺の説明書きを読んでみます。
1571年、日光法印天野景直の開山により秋葉3尺坊大権現が祀られている。

本坊峰本院瑠璃光殿は、薬師如来が本尊。

 

〇秋葉3寺の一つ「秋葉山 福昌院」


「開山 元亀2年(1571年) 駿州秋葉山 秋葉寺 大祭毎年12月15日16日」の大きな看板が立っている。
 

〇秋葉3寺の一つ「秋葉山 榮松院」

 

階段を登った所に秋葉寺の本堂が建っている。

〇秋葉三尺坊大権現


秋葉三尺坊大権現はその縁起によれば、貞実賢固の婦夫が観音に祈誓し一子をもうけ、その子6歳にて出家し十五歳にて阿闍梨(あじゃり)となり、1頭の白狐に乗り飛行自在の神通力をもって悪事災難を救い特に火防の守護神として名高い。


階段の脇に看板があったので読んでみます。
<駿州秋葉山 秋葉寺由来>
【創建】
当山は1571年天野小四郎景直により山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神として開山された。

遠州より秋葉三尺坊大権現を遷座した。

明治の神仏分離令により現在は真言宗醍醐派末寺にて真言密教並びに修験道の法流を受け継いでいる。


 

「榮松院」の前の道を北へ向い新幹線の高架をくぐり、間もなく「鹿島神社」がある。

〇鹿島神社


 

「鹿島神社」前の道を北へ100m行った三和酒造わきの路地を入ったところに階段があり、「正一位稲荷」と登り口に書かれている。

〇正一位稲荷


 

この丘陵地帯は秋葉山古墳が多く見つかっている。ここも古墳だったらしい。
「正一位稲荷」の西側に古墳広場があるがフェンスで直接行くことができない。
一度階段を下りて、すぐ北側に駐車場があって登り口があり、古墳広場へ向うことが出来る。
 

階段を登ると見晴しの良い場所に出て清水市街が見渡せる。
尾根伝いに南へ行くと古墳広場へつながる。
 

〇秋葉山1号墳

秋葉山1号墳の頂上に説明書きがある。
<秋葉山1号墳>
平成3年度の発掘調査の結果、頂上付近から古墳時代初頭(1700年前)の銅鏃が1点出土し、周囲には同時代の土器を含む溝が確認されました。銅鏃は遺骸とともにおさめられたものと思われ、溝は古墳の周溝と考えられます。
このことから頂上部には古墳時代初頭の墓(古墳)が築かれていたと推定されます。
また、太平洋戦争中丘陵頂上付近に大砲の陣地が構築され、中腹にくりぬかれた穴からは、海を睨む砲身がみえました。

 

 

古地図にも描かれている龍雲院が「正一位稲荷」まで戻った北300mにある。

古地図の方向と距離感はあてにならない。

 

〇曹洞宗「瑞祥山 龍雲院」

 

 

旧東海道まで「秋葉道」を戻る。

江尻宿の東木戸は「秋葉道」の入口周辺にあったらしい。


江尻宿を後にして、この先の細井乃松原を通り、先の興津宿へ向かう。
 
〇細井乃松原


国道1号線へ出る交差点に旧東海道の松原を記念して、整備されていた。看板を読む。
元禄16年(1703年)駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数110戸松原の全長199間2尺(約360m)松の本数106本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶店があったと伝えられている。
当時の旅人は、夏にはこの松陰で涼み、冬には茶店で憩い旅の疲れを癒したりした。
「細井乃松原」は太平洋戦争のとき松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在は、その跡もない。


 

〇この細井乃松原から先は旧東海道らしさが消え国道1号線を行く。

 

 

今回は江尻宿のうち「本郷町・辻村・西久保村」周辺を巡った。

 

 

次回は、「興津宿」に古地図も替えて「嶺村」へ進む。

 

 

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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