駿河の国をwebで歩く(55)「江尻宿・吉川村」 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
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「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

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上の古地図のリンクを開いて「江尻宿編」を選択して散歩する。
 

今回は「江尻宿」・「吉川村」周辺を巡る。
 
 

前回は「江尻宿編」の上原村と有東坂村の境にある「久能寺観音道」をたどって、周辺を巡った。

 

旧東海道から「久能寺観音道」の入口だった道標の脇に流れていたのは「谷津沢川」だ。

 

〇久能寺観音道の道標

またまた、この道標からスタート。

 

古地図では「上原堤」から流れでた水が旧東海道の下を「谷津沢川土橋」で横切るように描かれている。

 

現在も「谷津沢川」は旧東海道を横切る所から暗渠になって北に向かって流れている。

 

その暗渠になっている路地を100m程入るとJR東海道線を歩道橋が渡る。

 

〇谷津沢川水路橋

説明看板を読む。(概略)
この橋は、鉄道線路の上を川が流れ、そのまた上に歩道があるという日本でも珍しい橋の一つ。
かつて、この橋の辺りは丘陵地として地続きだった。

1886年、東海道本線敷設の際に切り通し工事が行われ「谷津沢川水路橋」が出来た。
この水路橋は下流域農地の灌漑用水の確保を対策するために建設された。
1989年に3代目の橋となって生まれ変わった。

 

 

次は「谷津沢川水路橋」と静岡鉄道「狐ヶ崎駅」が見える場所から「狐ヶ崎」の切り通しを見てみる。

 

〇「狐ヶ崎駅」と「谷津沢川水路橋」

 

この場所は「有度山」の狐の鼻のように尾根が伸びた地形だったため「狐ヶ崎」と呼ばれていた。

静岡鉄道もJR東海道線と並行して、この「狐ヶ崎」の切り通しを利用している。

 

「谷津沢川水路橋」からは、普段は水量の少ない水が歩道の下を流れているのを隙間から見ることができる。

 

〇谷津沢川


「谷津沢川水路橋」は鉄道を跨ぐ歩道橋として使われていて、北に渡るとかつての「上原村」から「吉川村」へと変わる。

 

古地図を見ると東海道の北側に「吉川村 八幡」と書かれた神社が描かれている。

これが「谷津沢川水路橋」を渡った所にある「吉川八幡神社」だ。

 

ちなみに「吉川」は「きっかわ」と読む。

 

〇吉川八幡神社

この「八幡神社」は「石鳥居」が有名で、写真の左に写っている屋根の下に伝統ある石鳥居が保存されていた。

境内には説明書きがいくつかあるので読む。(概略)

江戸時代の1789年に周防国(すほうのくに)岩国藩第7代当主 吉川経倫(きっかわ つねとも)が奉納した、市指定文化財の旧鳥居がある。
鳥居の柱には、吉川一族の由来が刻まれている。
1183年頃、源頼朝から駿河国吉河荘を所領として与えられた豪族 入江氏が地名の吉河(吉川)を名乗り、 吉川氏が約160年間支配した。

1200年に吉川氏の功績によって、播磨国福井荘(姫路市)を賜わった。
1221年の「承久の乱」の軍功で安芸国大朝本荘(広島県)の地頭職を任命。その後、安芸吉川氏の祖となった。
1600年、出雲に移った一族の「吉川氏」は「関ヶ原の戦い」で徳川家康の東軍に参加。家康から周防国岩国6万石の藩主に任じられた。
その後、神社の修繕・建て替え費用は、ほぼ全額吉川本家が負担していた。

 

 

古地図には「八幡神社」の北に「福寿院」が描かれている。

 

同じ読み方の「福聚院」が500mほど北の国道1号線沿いにあるので、この寺のことだろう。

 

〇福聚院

 

古地図を見ると「福寿院」の西に「七ツ新屋村」が描かれているが、今の「福聚院」の所在地は吉川にある。

 

「福聚院」から500mほど北に、吉川墓がある。

吉川氏については前述の「吉川八幡神社」の所でも触れたが1km近く離れたこの地まで「吉川村」だった。
 

〇吉川氏の墳墓

吉川氏の墳墓は何箇所かに分散していたが、昭和18年にこの地へまとめ築造された。

また、2015年に再整備されてスッキリした公園のような施設になった。

 

看板が設置されているので読む。(概略)
ここ吉川の地は、鎌倉武士として、また、戦国の世で活躍した吉川氏発祥の地であり、その由来は、吉川八幡神社の鳥居に詳しく記されている。
吉川氏の墳墓は、古くからオコリポタと称され、この付近に住む人々にとって神聖視され、入ることの許されない禁制の場所であった。

 

〇吉川氏発祥の旧跡碑

 

 

「吉川氏の墳墓」から300m東にある水路脇に「吉川屋敷跡」という看板が立っている。

 

〇吉川屋敷跡

水路脇に「吉川屋敷跡」を説明する看板が立っていたので読みます。
吉川館は古宮を西北隅とし東西約180m南北約240mと伝えられ現在の上の段がこれに当る当方の川流が谷津沢川の名残。

この所は吉川氏初代経義が寿永2年源頼朝より賜り館を築き以後1345年まで約160年間居住した。
 

吉川氏の屋敷は国道1号線沿いにある「小糸製作所」のあたりにあったらしいが、今はその痕跡はない。

「吉川八幡神社」も今の地に遷る前はその屋敷にあったと言われている。

 

 

 

次回は東海道の「上野原村」「元追分村」を行く。

 

 

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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