駿河の国をwebで歩く(52)「江尻宿・草薙村」 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
https://ameblo.jp/rai-trout/theme-10112228739.html

「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

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上の古地図のリンクを開いて「江尻宿編」を選択して散歩する。
 

今回は「江尻宿」に向けて「草薙村」を巡る。

 

前回は「府中宿編」の「中吉田村」「谷田村」「中ノ郷村」を巡った。

「谷田村」「中ノ郷村」は清水区に入るが「府中宿編」に描かれていた。

 

古地図を見ると「草薙村」の手前に「小田村」が描かれている。

「小田村」は明治9年に「草薙村」に合併し、更に明治22年に「草薙村」「七ツ新屋村」「馬走村」など20余りの村が合併して有度村になった。

 

古地図の「中ノ郷村」に描かれている「法林寺」は今より北にあって、江戸時代に火災のため街道近くに移転したとのこと。

「曹洞宗 月光山 鳳林寺」と漢字を変えているが現存している。

 

古地図の「小田村」には「薬師」と書かれた堂宇がある「長昌寺」と「八幡」が描かれている。

「長昌寺」と「八幡」のことは分からなかった。

 

「薬師」はJR草薙駅近くの「熊野神社」の境内に「薬師如来」が祀られている薬師堂があるので、そこに「長昌寺」もあったのかもしれない。

 

 

〇熊野神社

鳥居の左側奥に神社の境内には珍しく「薬師堂」が建っている。

 

入口の説明書きを読む。
薬師堂は鳳林寺の所有。鳳林寺はかつてこの地にあったが、安永2(1773)年、薬師堂を残し現在の地に移転した。
薬師瑠璃光如来(舟薬師如来)
新駿河一国十二薬師第八番札所。未の歳を司る薬師如来とされる。

 

「府中宿編」の「中ノ郷村」に描かれていた「法林寺」が、江戸時代に火災のため街道近くに移転し、現在は漢字を変えて「曹洞宗 月光山 鳳林寺」と前回の投稿で立寄っている。

 

「鳳林寺」は所在地や名称を時代によって変更してきた。

 

 

〇熊野神社拝殿

熊野神社は1792年以降に遷ってきたと入口の説明版に書かれていたので古地図には描かれていない。

 

入口の説明書きを読む。
熊野神社は始めは巴川沿いの字長沢に在ったが1792年にこの地へ遷座された。
祭神 伊邪那岐大神 速玉之男神 事解之男神

 

〇熊野神社のクスノキ

クスノキの枝は切り詰められてスッキリしているが幹に迫力がある。

 

入口の説明書きに「御神木 楠 樹齢 900年」と書かれていた。

 

 

旧東海道は「草薙」に入った所で都市開発により途切れる。

 

〇旧東海道はこのガードレールで直進を妨げられている。

 

ちょっと迂回すると直進できる道があり、間もなく草薙川に架かる「御帝橋」を通る。

 

〇御帝橋

「みかどばし」と読むらしい。

旧東海道なのかどうかは分からないが、由緒のありそうな橋名だ。

 

どちらにしてもこの先で中学校に突き当たって真っすぐ進むことは出来ない。


 

旧道がどこなのか不明なので県道407号「南幹線」へ出る。

 

「南幹線」の草薙川に架かる橋は「柳橋」といって、橋の欄干に東海道の看板が立っている。

今はこのあたりから「南幹線」を旧東海道ということにしているらしい。
 

〇「柳橋」の東海道看板

 

「柳橋」から振り返ると大きな鳥居が建っていた。

今は2020年9月に老朽化により撤去されてしまったようだ。

 

〇草薙神社の石鳥居(今は無い)

ランドマークになっていたが残念だ。

先日通ったが、右折場所を通り過ぎてしまった。

 

現在の「草薙神社通り」はここから始まる。

古地図に描かれた参道とは位置が違うように見える。

 

チョット寄り道して「草薙神社」へ向かう。

 

400mほど「草薙神社通り」を進んだ交差点を右に入ると「冷泉寺」がある。

 

〇冷泉寺

 

古地図に現在は使われていない漢字で「●泉寺」が描かれている。

多分この寺のことだろう。

 

冷泉寺から400mほどで「草薙神社」が見えてくる。

 

〇草薙神社

こんもりとした緑の中の草薙神社。境内の林が歴史を感じる。

 

〇草薙神社本宮

入口の脇に謂れが書いてありました。
式内延喜式
草薙神社由緒
1 御祭神 大和武尊
1 御創建 景行天皇53年
1 例祭日 9月20日
景行天皇第2皇子の日本武尊が東国の蝦夷が叛いたので、之を平定するため吾嬬国に行く途中、この地で逆賊が起り、長け尊を殺そうとして原野に火を放った。
尊は佩用(はんよう)の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱え剣を降り草を薙ぎ払い火を逆賊の方へなびかせ、尊は無事に難をのがれた地を草薙という。
その後、佩用されていた天叢雲(あめのむらくも)の剣を草薙の剣と名称を変更になり草薙神社に神剣として奉られる。今より1860余年前である。

 

草薙神社は「日本武尊」の草薙伝説が有名だが、もう一つ「龍勢」で有名になっている。

 

〇龍勢の説明ディスプレー。

この建物の中に龍勢の道具が揃っている。説明書きを読む。(概略)

龍勢(流星)煙火の由来
戦国時代の1542年、火縄銃と黒色火薬が伝来したのち、城攻め用の「火矢」から転じて「のろし」が考案された。
「昼のろし」(龍勢)は煙や布切れ又は旗などを漂わせて合図しあうものであった。

駿府城と久能山東照宮の守りとして、この技法が口秘伝で受け継がれ、草薙神社の秋季例大祭日(9月20日)に打ち上げがおこなわれている。


草薙神社から街道へ戻る途中から東側の坂を登り、清水有度第2小学校からさらに100mほど登った所に首塚稲荷神社がある。

 

〇首塚稲荷神社

説明書きを読む。(概略)
首塚稲荷神社の由緒に、三ツの言い伝えが有る。
1.草薙神社略記に日本武尊東征の際、この地で地方部族と戦った時の戦死者の首を埋め、塚を作ったと伝えられている。
2.景山景時が吉川氏に討たれ、大内山にて戦死を遂げた時の愛馬「磨墨(するすみ)」の首を刎ねたところこの地に落ちた。

3.「今川氏親」の父「義忠」の急死の際、世継ぎ争いに敗れた氏親の従兄弟「小鹿範満」を支持した有度山東麓の矢部一族の戦士者を弔うため稲荷神社を建てた。

 

街道へ戻るために坂を下る。
清水有度第2小学校や清水第7中学校を通り過ぎ、街道へ出る直前に看板が立っていて草薙神社参道の事が書かれていた。
 

〇草薙神社参道

看板の絵はここで使っている「古地図」の一部を写したものだった。

内容を読む。(概略)
此の絵図にある鳥居は石鳥居で2か所有った。

西は草薙村と谷田村の境(1793年築)にあった。

東は一里山新田と草薙村の境(1795年築)にあった。参道の両側に杉並木があったので現在も草薙杉道の字名が残っている。

また、駿国雑誌に「お茶小屋と釜の段」として将軍の上洛の際に釜を据え、お茶を立てお茶小屋にて差し上げた物語がある。

(現在は、第7中学の校庭になっている)

 

旧東海道の「南幹線」に戻った辺りは、「草薙一里山」という町名。

 

〇草薙一里塚の石碑

一里塚の石碑の脇にはなぜか狸が立っている。説明書きがあった。(概略)
道の両側に松並木を植え1里毎に塚を築き此処に榎を植え目印とした。
草薙一里塚は江戸より43里(170km)の処で43番目の塚。

 


一里塚からほどなく信号があって、そこから新道と旧道に分岐する。


〇草薙一里山の旧東海道が分岐する交差点

県道407号「南幹線」は4車線のまま坂を直進するが、旧東海道は2車線になって左へ分岐する。

 

東海道の話からズレてしまうけれど

この交差点から南幹線を300mほど上ると「かん吉」といううなぎ屋がある。

この「れいんぼうの部屋」の数少ない「いいね!」を押してくれる「うなぎ屋女将 よしだきくこ」さんの店だ。

 

「ひつまぶし」を始めて食べたのは東新田の「かん吉」でした。

当時は静岡では「ひつまぶし」が珍しかった。

 

美味しくいただきました。

 

最近は外食の機会がほとんど無いのが残念。

 

 

次回は「江尻宿編」「上原」へ入る。

 

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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